紹介文
Wasting”つまり「廃棄」とはいったいなんだろうか?それは一言で言えば、「死」を迎えたものを扱うひとつのやり方である。死んだ機械、死んだ都市、死んだ土地、死んだ人々…。大量生産・大量消費社会においては、「死」は「死」のままでもよかった。しかし、そんな社会や文明、ライフスタイルが生み出す問題が深刻化する現在にあっては、もはや「死」を「死」として、私たちから単に分離すればいいわけでもなくなった。「死とは認識の問題である」と彼は言い、徹底的に「廃棄」、そして「死」のあり方を見つめる。リサイクル、ライフサイクル、コンバージョン…。そんな現在必要とされている概念に、彼は無意識のうちにたどり着く。20世紀の偉大な思想家、ケヴィン・リンチ最後の著作にして、ケヴィン・リンチ思想の集大成がここにある。
本書の概要:「廃棄」とはなにか?
本書は、20世紀の偉大な都市デザイナーであり、ひとりの思想家であったケヴィン・リンチの思想を考えるうえで、私が特に重要であると考える3冊の著作のうちの最後のものであると同時に、彼が1984年に66歳で急逝した後、彼の思想を是非とも世に公開したいという意思のもとに、彼を師事していたマイケル・サウスワースによって編集された、ケヴィン・リンチの遺作でもある。
本書のメインテーマは、そのタイトルにもあるように、“Wasting”つまり「廃棄」についてである。もっとも、このテーマについては、本書ではじめて取り上げられたわけではなく、実は彼の2冊目の著書である『時間の中の都市:内部の時間と外部の時間』の中で次のように言及されている。「死、消耗、衰退――これらは、現在の流れの中で欠かすことのできない一部分を構成している。したがって、私たちは死をおおい隠すべきではない。ゴミの山にしても、汚点として隠蔽すればよいというわけではない。新しいものの贈呈ときらびやかな包装だけでなく、新しい形式の死の儀式や廃棄物処理の儀式が必要である。新しいものと古いものは時間の流れの中のエピソードである。私たちは時間の流れとともに進みながら、期待と喜びを胸に抱いて未来を見つめる」。
リンチによれば、英語の“Waste”という言葉は、ほかにあまり例がないくらい実に多義的であるという。それはその概念がたどってきた意味の変遷の多様さを物語っているのだろう。そのように、さまざまな意味を持っている“Waste”という言葉であるが、現在使われている意味の中で支配的であるのは、なによりも「死んだもの、無用になったもの、汚れたものを自分から引き離すこと」である。
人間の社会は、洋の東西を問わず、「死」やそれにつながり得る「穢れ」というものを、「生」から明確に分離し、そしてときには排除しようともしてきた。例えば、宗教においては、死後の世界(天国と地獄、涅槃など)の存在を信じ、また、死者に対してはきちんとした「見送り」の儀式を定式化し、現世とは違う「死」の世界へと旅立つ人を区別した。さらに、ミシェル・フーコーの「狂気の歴史」にもあるように、病人や精神薄弱者、浮浪者、犯罪者などを「非理性」の存在としてまとめてカテゴライズし、通常の社会から排除しようと試みた過去も存在する(彼らは世の中から『捨てられた人』にほかならない)。くわえて、上下水道の整備や施療院、墓地の中心部からの隔離は、まさに汚物や病原体、悪臭といった不浄なものをどこか自分からは遠い場所へ追いやる行為にほかならない。現世の穢れをまとった者は、神聖なる神と対峙するときには必ず「禊」の儀式を受けて、「清浄」な状態にならなければならない。こうした「死」や「穢れ」の分離は、たしかに、疫病の蔓延を防止し、人間の精神を安定させ、生産活動に対するインセンティブやペナルティを与え、集団の団結に役に立ってきたのかもしれない。それはひとつの事実である。しかし、これからの人間社会を考えるうえでは、「廃棄」という概念の根本である、「死んだもの、無用になったもの、汚れたものを自分から引き離すこと」だけにとらわれているわけにもいかない。
リンチの理解によれば、「消費」とは経済学的に言えば、「財を使用して財の有用性を損失すること」を言う。そして、消費とは「生存と満足を確かめる、正当で普遍的な過程であるが、それを保証するために、たえず新たな有用性を生産しなければならない」。しかし、経済学(とそれに支配された世界)においては「消費の副産物を取り除くのは、楽しくもなく生産的でもないという先入観」にとらわれていると彼は述べる。例えば食事をすることは、生命を維持するためには不可欠な行為であるし、食料の欠乏は人間にとって非常に不快な不安であるのに対し、美味しい食べ物を食べることは、人生の楽しみにすらなり得る。だが、その美味しい食べ物を食べて、排泄したものとなると、我々はすぐにでも自分の元から取り去られてほしいと思う。コンビニでパンを買ったときに、必然的についてくる袋は、パンを保存し、輸送するためには不可欠なものではあるが、開けてパンを取り出した後は、ほとんどすぐに捨てられる。エネルギー消費効率の悪くなった家電製品は、より効率の良い製品が誕生するためには必要であるが、減価償却した後(あるいはその前でも)まだ使えたとしても捨てられる。
こうしたライフスタイルは、産業革命以降、いわゆる大量生産・大量消費社会に至るまでの間にとりわけ顕著なものである。しかし、こうしたライフスタイルは、いつまでも続くわけではない。そのような大量生産・大量消費社会が続くためには、実は「死んだもの、無用になったもの、汚れたものを自分から引き離すことを永遠に続けることができる」という前提が必要となる。だが、実際にはそうした消費によって生じたゴミを処理する場所には限界がある。埋め立てを行うにしても、どこかに山積みにするにしても、いつかはそれが可能な土地は存在しなくなってしまう。焼却処分するにしても、往々にしてゴミの処理施設を新たに建設するためには、非常に骨の折れる過程が必要となる。「捨てたら捨てっぱなしで、ゴミはもはや自分たちとは永遠に分離されたものである」という前提は、実はいつかは直視しなければならない「リスク」にすぎないのである。
だからこそ、リンチは「上手に廃棄する」必要があると言う。例えば、下水や生ゴミについて見てみれば、現在では処理技術が向上し、微生物の分解によって、再び自然の循環サイクルの中に参加させることができるようになっている。ペットボトルや空き缶も、回収されてリサイクルされて、生まれ変わる。このように、「捨てられたもの」や「死んだもの」というものは、「捨てられっぱなし」や「死にっぱなし」ではなく、なるべく、自然や経済活動における循環のサイクルの軌道上に上手く乗せていくことが必要である。これが、リンチが「上手に廃棄する」と言うときに意図されていることのひとつの考え方である。
しかし、数多くの「捨てられるもの」の中には、そう簡単に循環のサイクルに乗せることができないものがある。いやむしろ、ほとんどのものはそれが困難であると言ってもいい。なぜなら、「捨てる」という言葉を「死んだもの、無用になったもの、汚れたものを自分から引き離すこと」ととらえるならば、「捨てること」が可能なのは、生ゴミや汚物だけではなく、金属や人、化学物質、組み立てられた車や家電、そして、「土地」や「インフラ」、「建物」すらも捨てることは可能である。しかし、これらのものは、「一度捨ててしまったら、取り返しのつかないもの」と「一度捨てられたとしてもなんとかなるもの」に分けることができる。
「一度捨ててしまったら、取り返しのつかないもの」とは、具体的にはメタンガスや二酸化炭素、NOx、カドミウム、水銀、そして放射性物質といった、生物や生態系にとって有害な金属や化学物質である。こういった物質は、一度捨ててしまうと、ほとんど回収が不可能であるか、あるいはその影響がなくなるまで非常に長い年月を要する(くわえて、それは非常に低濃度になるまで拡散されるだけで、実際には空気や水、土壌の中に留まり続ける)。こういった物質については、できる限り「そもそも排出しなくても済むような方法やシステム、規制」を考える必要がある。現在の例で言えば、「世界的なフロンガスの規制」、「原発に代わる再生可能エネルギーの利用」、「原発に頼らないためのHEMS、BEMS、スマート・シティの実現」、「二酸化炭素排出削減のための新交通システム」といったものが考えられる。
しかし、むしろリンチの思想の肝となるのは「一度捨てられたとしてもなんとかなるもの」の方である。例えば、使わなくなった家電や携帯電話は、捨てられてそれが山積みになるとしても、それが直接的に人間に害を及ぼすわけではない(無論、それが崩れて人が怪我をしたり、社会的なアウトサイダーたちのたまり場になってしまったり、処理する場所がなくなったりということはあるが)。むしろ現在では、資源の争奪戦が激化する中において、「都市鉱山」というかたちで、それらのゴミが注目されたりもする。また、浮浪者の人々が街中にある、空き缶や希少な金属を回収してきて、うまくそれらの金属をリサイクルの軌道に載せることもある。社会的には「死」を迎えた、古い型のカメラやオーディオ機器などは、好きな人にとっては生み出すことのできない「味」を醸し出すこともある。彼は「生産工程は、新しいものを組み立てるのと同様に、組み立て直すこともできるようにデザインされるべきだろう。設備機器は、容易に使い捨てられるのではなく、容易に修理ができるようにデザインされるべきだろう」と言う。重要なのは、「死」を迎えることそれ自体ではない。そうではなく、「死」を迎えたものをいかにして、蘇らせるか、見方や考え方を変えることによって、どのような意味を与えるか、ということが重要なのだ。
こうしたことは、都市や土地、建物についても言える。例えば、リンチは「廃線になった路線のかなりの長さに及ぶ跡地は、余暇を楽しむ遊歩道にみごとに転身できることも分かった。古い都市の駅や操車場は広く、しかも都市に隣接しているので再開発には重要な場所である。とくに英国では、古い運河はボート場として理想的なものになった。都心から離れた巨大な港湾は、遺棄されたままのものもあるが、都心部に古くからあるウォーターフロントは、近代的な輸送船も大概は利用しなくなり、今では再開発のもっとも重要な敷地である」と述べる。こういった、「何かが建っているわけではない土地」、「何もない土地」、あるいは「更地にするのが簡単な土地」というものは、比較的すぐ次の活用法(再生法)を見つけることができる。では、見捨てられた都市やガラクタ置き場、高架式の高速道路などそれを完全に取り払うためには、多くのコストがかかってしまうような場所はどうすればいいのだろうか。
これについても、例えば長崎の「軍艦島」のように廃墟となった都市は、捨てられた直後にはなかったような魅力を帯びて、観光名所となるかもしれない。ガラクタ置き場は子どもたちにとって格好の冒険の場となる。高架式の高速道路は、もしかしたらなんらかの遊び場として再利用することができるかもしれない。このように、我々は既にある「死んだ」ものに対しては、それを死んだままにしておくのではなく、また、その存在を高いコストをかけて消滅させるのでもなく、見方や考え方を変えることによって、新たな発想を導くことによって、それを上手に「輪廻転生」のサイクルに乗せる必要があるのだ。また、だからこそ、これから新しいものをつくろうとする際には、未来を見据えて、それが「どのように廃棄され、そしてどのように生まれ変わるか」ということまで考えて設計をしなければならない。このように、リンチはキーワードで言えば、リサイクル、ライフサイクル、コンバージョン、そしてそれらを統合したイノベーションというものを、人生の円熟期たる66歳のときに、思い描いていたのである。
「死」へのまなざし
ケヴィン・リンチという人物が、本書の中で見せたのは、いったいなんだったのだろうか?それは決して、具体的で有効な解決策ではないだろう。そうではなく、彼が見せたのは、人や都市、物の「死」を真っ直ぐに見つめ、「死」というものを改めて考えなおす、「まなざし」である。万物は、時の流れによって、死、消耗、衰退を避けることができない。たしかに、一度死んでしまえば、一度捨てられてしまえば、我々の記憶や意識の中からも消え去り、「死にっぱなし」、「捨てられっぱなし」になってしまうものもあるだろう。実際にそうやって、さまざまな人、都市、建物、製品、文化などが人類の歴史の中に消えていった。そして、いろいろなゴミが、私たちに意識されることなく、地球上のどこかで「眠っている」ことだろう。そうやって、「無」となることもまた、仕方のないことである。しかし、「死」を迎えたものがすべて「無」となるわけではない。それは転生して、生まれ変わる可能性を持っているのだ。
さりとて、それは、やがて訪れるであろう「死」に対する延命であったり、あるいはほかの何かを犠牲にするものであってもいけない。それは、「時間の中の都市」にも出てきた「保全」に関する彼の考え方にも現れている。また、彼は「砂漠という廃棄物」について、「いつか訪れるかもしれない将来から見れば、潜在的な有用性もないとはいえないが、差し当たり今は必要なものではない」と言っている。あくまでもそれを保全すべきときは、「潜在的な有用性が減少するとき(侵食、砂丘の形態、岩塩の埋蔵量の低下など)」である。
思えば、“Waste”という語には、「無駄」という意味がある。「無駄」という言葉が意味するのは、すなわち「その存在(人、物質、時間、資源など)が内容している有用性が享受されることなく、ただその有用性が活用できなくなること」だ。何かが“Waste”されるとき、それは、いろいろな原因がある。お菓子の袋のように、「有用性がなくなった」から“Waste”こともあれば、砂漠のように「利用法が分からない」から“Waste”されることもある。リンチにとって重要なのは、それが「廃棄」されることではない。むしろそれが、「無駄」になること、「死」や「消滅」に際して、「何の意味も与えられないこと」、あるいは「それがかえってほかの何かの邪魔になること」が問題なのだ。だからこそ、考え方によっては、「素材や洗濯する労力を考えれば、ハンカチに代わった近年の使い捨てのティシュは素晴らしい」のである。
「廃棄物と廃棄の問題は、積極的にしかも創造的に捉えられるべきなのだ。廃棄は、生命や成長に必須の要素だからである。上手に廃棄を行ない、その中に喜びを見いだすことを学ばなければならない」とリンチは言う。さまざまなものの「死」と向き合い、それが本当に「無」にしかつながり得ない「死」であるのか、それとも「新たな生」につながり得る「死」であるのかと考える。そうそれは、考えるべきことなのだ。一見「死」に見えるような状態にあっても、それは実は本当の「死」ではないのかもしれない。それは、私たちの文明や社会にとっての、「意味」であり「認識」の問題なのだ。
「緩急の差はあれ、すべては変化する。生命は、成長であり、衰退であり、変様であり、消滅である」。我々は、「廃棄や衰退を直裁に取り扱う過程で、〔…〕純粋さと永一続性に焦がれつつ、私たちは永遠に衰退してゆく術や、流れの連続性、軌道や展開を見据える術を学ばねばならない」。そういった、「死」を直視し、そしてその意味を考えるなかにこそ、我々人間の「生」がある。そして、そうやって「死」を直視する中でひとにぎりの「生」を見出し、未来へとその可能性をつないでいくことにも、我々の「生」がある。「私たちは時間の流れとともに進みながら、期待と喜びを胸に抱いて未来を見つめる」のである。
参考文献
- ケヴィン・リンチ 著『廃棄の文化誌:ゴミと資源のあいだ』,有岡孝,駒川義隆 訳,工作舎,2008.02.(原書:1990),全317ページ
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