ケヴィン・リンチ『時間の中の都市:内部の時間と外部の時間』(1972年)

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建築・都市論

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紹介文

『都市のイメージ』によって、都市デザイン理論に革新的な影響をもたらした都市デザイナー、ケヴィン・リンチが12年間の熟成期間を経て著した名著。本書のメインテーマは「時間」。彼はそんな「時間」という概念を切り口に、「個人の時間と社会の時間とのズレ」と「永続的な価値への疑問」という2つの西洋的な「時間」への批評というかたちで、「歴史的遺産の保存から、推移の形態、未来主義、時間のシグナル、時間の美学、生物学的リズム、時間の知覚、災害、再開発、そして革命」というさまざまなテーマについての「試論」を繰り広げる。だが、そんな、さまざまな「試論」の中に、彼の人生哲学が垣間見える。人間は自分の、そして社会の「時間」の中でどのように生きるべきなのか?そして、そんな人々が集う都市とは、いったいなんなのか?リンチ思想の真髄がここにある。

本書の概要:ケヴィン・リンチによる「時間」についての考察

本書は、私がケヴィン・リンチの思想を考えるうえで特に重要であると思われる3冊の著作のうちの2冊目であり、リンチ54歳の時の本である。彼は、「時間」という概念について、「西欧の文化はこれまで『均質で機械的な時間の絶え間ない純粋な流れ』と『それに対立する不動の永遠性』という2つの抽象概念に拘束されてきた」と言う。本書は主に、この2つの「時間観」に対する批判的吟味とそれに対する「試論」によって構成されている。それゆえ、本書では、彼の精緻な都市デザイン理論が展開されているわけではない。むしろ体現されているのは、都市デザインを考えるにあたっての彼の思想、あるいは哲学のようなものである。しかし、そんな哲学をあえて、彼の思想史の中に位置づけるとすれば、リンチが『都市のイメージ』の中で言及した環境イメージを構成する3つの成分のうち、各エレメントの持っている1.アイデンティティ(個性・単一性/Identity)と2.ミーニング(意味/Meaning)に対する考察を深めていると考えると分かりやすいのかもしれない。しかし、そういった「各個人が個々の都市空間や建築物に対して抱いている意味や愛着」といったものにとどまらず、より広く「人間にとっての時間」、「都市にとっての時間」といった「時間」という概念の持つ意味までをも考察している点が興味深い。

内部の時間と外部の時間

西洋文明、とりわけ近代以降の社会制度や仕組みは、産業社会における効率や合理性にもとづいて構築され、そして社会の隅々にまで浸透している。つまり、人間は初等教育の段階から「朝○○時に、授業が始まり、昼の12時頃には昼食を食べ、午後△△時に学校が終わり、その後××時に塾へ行き、帰宅後すぐに寝る」という具合にだ。それは大人になっても変わらず、むしろ仕事や予定に忙殺される度合いは高くなるかもしれない。何故そうなっているかといえば、それはそんな客観的な時間に従って行動した方が効率が良いし、そもそもそういった基準となるものがなければ、人間は社会生活を営むことができないからである。例えば、比較的朝に強く、言われなくても朝8時には学校に登校する子どもたちがいる一方、朝10時にならないと来ない子どもたちがいるとする。そのようなさまざまな子どもたちに、将来の社会の成員として相応しい知識と規律を身につけさせることを考えると、朝8時には学校に登校する子どもたちには、集まったその都度1人の先生が授業を始め、朝10時に来た子どもたちには、また別の先生が授業を始めるということをやっているとどうしても効率が悪い。やはり、朝9時には全員が学校に来るようにして、いっぺんに授業をした方が合理的なのだ。これが、「均質で機械的な時間」、あるいは彼の言葉でいいかえれば「外部の時間(客観的な時間)」である。しかし、人間にはサーカディアン・リズムというものがある。つまり、生理的に調子が良いときと悪いときのリズムや周期は、それぞれの個人によっても違うし、同じ人の場合でも時期によって異なる。朝7時にバッチリと目が覚めるときもあれば、どうしても7時に起きてしまうと調子が悪いときもある。先程の言い方と対比すれば、これが人間にとっての「内部の時間(主観的な時間)」ということになる。

ただ、人間にとっての「内部の時間(主観的な時間)」はそのような生理的なものばかりではない。例えば、リンチが「楽しみながら椅子をつくる喜びは、完成した椅子に座ることを想像する喜びよりも大きい。このような現在の喜びに刺激されることによって、私たちは、よりよい椅子をつくることができる。また、それだけ堅実な仕事をすることができる。学問をする喜びのために学問をする方が、よい職につくためには学位が必要だという理由で学問をするよりも、動機としてはすぐれている」というように、個人にとっての時間の使い方ひとつとっても、それが「客観的な評価」を得るために使うという位置づけであるのか、それとも「主観的な喜び」を得るために使うのかという点にも、「外部の時間(客観的な時間)」と「内部の時間(主観的な時間)」の対比は存在する。リンチはこのように、現代社会の人々には「外部の時間(客観的な時間)」と「内部の時間(主観的な時間)」とのズレ、すなわち、「本来、人間的な快楽を与えてくれるのは、主観的な時間であるにもかかわらず、社会の要請や訓化によって、自然ではない客観的な生き方を選択せざるを得ないようになっている」と言うのである。

保全と「不動の永遠性」

保全、あるいは保存という概念がある。それは端的に言えば「環境や景観、生物種、芸術、文化、伝統などを保護し、未来に向けて継承していくこと」にほかならない。しかし、そもそもそれはいったいなんのために行われるのだろうか?リンチは、保全とは、「予測の困難な長期的未来に思いを巡らせて、重要な価値を持つと思われる資源を現在の時点で維持すること」と言い、また「保存するということは、単に古いものを守るだけでなく、古いものに対する反応を維持していくことでもある。こうした反応は、伝達されたり、失われたり、修正されたりする」であると言う。

彼は「これまでの環境保存には、審美的動機や教育的動機以外に、政治的動機が含まれているのが常だった。そこでは、権力を握っているグループが彼らの威光を飾りたてるシンボルを保存しようとするので、他の人びとはいっそう用心深くならなければならない」と言い、保全が過去の権力者の栄光の残骸を受け継いでいく行為であることを拒む。

彼は「保全は、保守主義に陥りやすい危険性をもっている。保守主義はあらゆる現状の変更に反対する。現在の景観、現在の習慣、現在の生態系などが、日ごろ親しんでいるものだからという理由で固定化される。けれども、これらの状態はこれまでの絶え間ない変化の結果を示しているにすぎない」と言い、「変化に抵抗するための保存」を批判する。なぜならば、例えば「イギリスの農村にみられる生垣」も「実はそれ自体が18世紀に起こった社会がひっくり返るほどの環境変化の産物」にすぎないからだ。

彼は「私たちの生活領域一般の保存については〔…〕、親密な連続感を維持することだけでなく、現在の価値を保全することも含まれていなければならない。何かが私たちにとって有益であるとしたら、それはその事物がいま実際にもっている特質によるのであって、過去のいささか神秘的なエッセンスによるのではない」と言い、「古いことそれ自体が善であるとするドグマに溺れることのないように注意」する。

しかし一方で彼は、「歴史的な知識は人びとに喜びを与え、人びとの教養を育てるものなので、それを人びとに広く伝達する方法が真剣に考えられなければならない」と言う。また、彼にとって保全とは時として未来への責任でもある。例えば彼は「鉱物資源やエネルギー資源のように、使用につれて減少してしまうもの」については、「その資源が未来の世代にとっても重要な資源でありつづけそうだという判断」と、「ほどよく使用していれば枯渇することはないだろうという判断」を決定の基準として保全しなければならない。それゆえに、「取り返しのつかない変化が予測される場合や、長期的未来にも重要であると思われる資源に恒久的損失が予測される場合でなければ、私たちは保全を旗じるしにして行動するわけにいかない」と言い、「それは、人間の希望や価値観とも関係をもつものでなければならない」と言う。

彼にとって保全とは、過去の権力者の栄光の残骸を受け継いでいくことでもなければ、単に「時間をかけなければ出てこないもの」に後ろ髪を引かれることでもない。つまり、保全とは、単なる死にゆくものの延命ではなく、「現在の私たちが価値があると認めたもの」を残したいと想う気持ちの発露であり、「将来の世代にもその恩恵を享受してほしい」と願う意思の表現であり運動なのだ。

「変化と循環は、生きている実感を抱くことにほかならない。それは過ぎ去ったものごとを意識し、きたるべき死を意識し、現在を意識することである」。「死、消耗、衰退――これらは、現在の流れの中で欠かすことのできない一部分を構成している。したがって、私たちは死をおおい隠すべきではない。〔…〕新しいものと古いものは時間の流れの中のエピソードである。私たちは時間の流れとともに進みながら、期待と喜びを胸に抱いて未来を見つめる」と彼は言う。万物流転、諸行無常。世界は移り変わり、この世に存在するものは、いつか必ずその「死」を迎える。この、人の、物の、場所の、建築の死を受け入れ、限りある「生」をいかに享受するかを考える姿勢こそ、リンチの根本的な哲学である。

(近い)未来主義の生き方

人間は、自らの過去の経験と現在の状況にもとづいて、未来に対する態度を形成する。例えば、過去が安定しており、幸福であった場合には未来に対しても「多分このままあまり変わることもなく、なんとかなる」という楽観的な見方ができるようになるだろう。逆に、過去が不安定で幾度もの新しい環境・価値観への適応を強いられ、幸福ではなかった場合には、未来に対しても「どうなるかは分からない」という漠然とした不安を抱えることになる。リンチは、「私たちの心的未来に対する創造力」は、(1)現在の行為の遠い将来における結果に思いをめぐらす能力、(2)行為と結果の新しい組み合わせをつくり出す能力、(3)現在の感情と動機を将来の結果に結びつけて考える能力、(4)未来の出来事から私たちの注意力をそらしてしまう危険性のある現在の刺激を抑制し、微弱化する能力などにもとづいていると言う。だからこそ、「もし、サンフランシスコがいまにも地震に襲われそうだと予測されたら、まず私たちは、地震を避ける方法と地震の影響を最小限に食い止める方法を考えなければならない。しかし、そのどちらも不可能であることが明らかになったときは、私たちが現在を生きることに没頭したとしても、非難されることではないだろう。このような時間的柔軟性は貴重な天賦の才能である」と言う。時に未来に対して希望を抱き、力強く歩を進めることもあれば、あっという間に諦めて、来るべき時を待つこともできる。そうした「有効な」時間の使い方ができるということは、人間のみに与えられた才能だという具合に。

しかし、そういった絶望的な状況というものは、そう滅多にあるわけではない。災害や病気などに対する対策は、過去と比べれば遥かに高度になっているため、死や苦境から逃れられない状況に陥る可能性は低くなっている。たいていの人は、どうにかこうにか人生を歩んでいる。未来に対して絶望し、過去を懐かしむ懐古主義に陥れば、それはただ死の時を待つだけのハリのない人生になってしまうだろう。未来に絶望し、刹那的な現在の快楽に溺れてしまえば、それこそが自身の破滅への道となるだろう。現在に絶望し、漠然としていて、遠すぎる未来を空想することは、単なる逃避に陥り、やはりハリのない「生」とならざるを得ない。

彼は、「空間的環境を、はるかな未来の計画に従属させる必要はない。むしろ、現在をコントロールし、近い未来の目的のために行動し、遠い未来には選択の余地を残し、新しい可能性を探究し、変化に対応する能力を維持する方が理にかなっている」と言う。そしてまた、「過去-現在-未来は不可分である」とも言う。過去の自分の延長線上に現在の自分がいて、現在の自分の延長線上に未来の自分がいる。しかしだからといって、将来のために現在の「生」を犠牲にする生き方は面白くないし、過去からの義務であるからといってそれに縛られるのも苦しい。「学問をする喜びのために学問をする方が、よい職につくためには学位が必要だという理由で学問をするよりも、動機としてはすぐれている。未来の世代のために地球の保全を考えるとき、それを効果的なものにするためには、保全プロセスそのものの中に努力しがいのある価値をつくり出さなければならない。つまり、私たちが子供や孫に現在の喜びを見出しているように、保全プロセスの中にも現在の喜びを見出すことができなければならない」。「過去や未来との結びつきを保証すると同時に現在を称揚し拡大していくようなイメージこそが、望ましいイメージ」なのである。

エリク・H・エリクソンは、人間のアイデンティティについて生涯をかけて考察した。人間にとって自身のアイデンティティとは、過去の経験の積み重ねによってできた自分自身の生きる文脈であり、自らの未来に関する羅針盤のようなものである。自分にとって欠き難い、愛着のある献身の対象(仕事、趣味、社会的な役割)に現在関わることによって満足し、それが未来へ向けて力強く歩んでいく原動力となっていく。リンチが人間にとって重要であると感じているのは、そうしたハリのある「生」を実現するための「愛着」なのではないだろうか。妄信的なマルクス主義者のように、自分が心の底から共振(シンクロ)することができるわけではない「崇高なる未来」のために、現在の生を犠牲にするのではなく、「約束された死後の世界」のために、息苦しさを感じながら現世を生きる古典的なプロテスタントでもなく、自らの生、自らの過去にもとづいて、自らのあり方(=アイデンティティ)を確認し、「将来こうなりたい」とか「こういうことを是非とも実現したい」とかいう具体的な目標に向かって、歩を進める生き方。そんな生き方こそ、リンチが共感した人間の生き方なのではないだろうか。

リンチ思想の根源、あるいは人生についての哲学

ひるがえって、リンチにとって都市とはいったいなんなのだろうか?それは、『都市のイメージ』でも述べていたように「ひとつの芸術」である。それは、そこに住む人々の「生」つまり、喜び、悲しみ、郷愁、愛着、情熱、想い出、などの無形の価値が発露する場所、表現される場所なのだ。例えば、世界遺産にも登録されているワルシャワの街の再建は、そこに住む人々の自発的な愛着によって達成された。かつて通った道、以前通った店、自分の家のレンガの傷ひとつに至るまで、誰に指図されるわけでもなく、「自然」なかたちで実現した。それは、「権力者の意図を超えて、複数の意味を明らかにする性質をもっている」。都市は「人びとの個人的な思い出と個人的な未来への希望を体現している」のである。

それはたしかに、いつの日か、「死」を迎えることを免れないのかもしれない。栄華を極めた都市が衰退することもあれば、災害によって破壊された都市が再生することもある。諸行無常である。ある建物、ある場所に対する愛着やその場所が伝えてくれる意味は、いつの日か人々の共感を呼ばなくなり、関心が薄れ、そして、忘れられていく(=「死」を迎える)。しかし、それは仕方のないことなのだ。むしろ、都市とは、そして社会とは、過去や未来に縛られることなく、希望を抱いて、(近い未来を目指しながら)現在をいきいきと生きていく人々の「生」の仮初めの姿なのだ。なにかを保全するとき、それはたしかに理性的な判断にもとづいた責任によってなされることもあるが、なによりも、「これは残しておきたい」という意思が、未来に対して残るのだ。それはたしかに、後の人々にとっては、共感を呼ばないものになるかもしれない。しかし、そんなイキイキとした共感し得る「生」の断片が集まっているからこそ、人はその場所に愛着を感じ、その人にとっての「故郷」になることができる。

誰かにとって、大事な場所。その誰かはもしかしたら自分かもしれないし、友達や知り合いなのかもしれないし、もしかしたら、自分が会ったことのないような人、遠い昔の人なのかもしれない。それがもし、自分ならその場所は自分にとって、「内部の時間(主観的な時間)」を持っている。それがほかの人であったならば、それはもしかしたら「外部の時間(客観的な時間)」が込められているのかもしれない。それはときに、「この場所は懐かしいよね」とか、「ここであんなことやったね」という愛着が共有され、やがて保全されるかもしれない。つまり、「外部の時間(客観的な時間)」がそれぞれの「内部の時間(主観的な時間)」にシンクロするというわけだ。また逆に、既にある都市の景観の歴史を知ることで、その場所に愛着を感じることがあるかもしれない。それは、「内部の時間(主観的な時間)」が「外部の時間(客観的な時間)」にシンクロしたということだ。そうやって、人々は都市の景観に愛着を抱いていくのかもしれない。

本書はそんな、リンチの都市哲学であると同時に、彼の人生哲学を体現している。私は直感的に、そんな彼の哲学を感じとったのかもしれない。

参考文献

  • ケヴィン・リンチ 著『時間の中の都市:内部の時間と外部の時間』,東京大学大谷幸夫研究室 訳,鹿島出版会,2010.03.(原書:1972),全330ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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