スティーヴン・ルークス(1974年)『現代権力論批判』

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政治学

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紹介文

「権力」という概念は、何を意味するのであろうか。本書の著者スティーヴン・ルークスは、ロバート・ダールが提唱した「AがBの利害に反するやり方でBに影響を及ぼすもの」という定義を受け入れるが、ダールが考える「権力が現れる場」についての見解を批判する。彼は、ダールの「多元主義者の権力観」を「一次元的権力観」と名づけ、P.バクラックとM.バラッツの権力観を「二次元的権力観」として紹介する。しかし、ルークスにとっては「二次元的権力観」もまた、不十分な権力観であり、自身の考えを「三次元的権力観」として提示している。そこでは、表舞台と舞台裏で繰り広げられる、目に見える「紛争」の存在だけではなく、目には見えない「起こらなかったこと」にまで視線が注がれる。そしてそれは、彼にとって「至高の権力行使」の場にほかならない。多元主義的政治分析の枠を越え、「権力」概念の根本に立ち返ることができる、権力論の入門書。

本書の概要

「権力」という概念は、その正体をめぐってさまざまな見解が示されている。本書もそうした権力概念について考察した書物の1冊である。タイトルの中に「批判」という言葉があるように、本書は既存の権力概念を批判的に乗り越え、新たな権力概念を提示する内容となっている。著者スティーヴン・ルークスは、既存の権力概念を《一次元的権力観》、《二次元的権力観》と命名し、これら2つを乗り越えるものとして《三次元的権力観》を提示している。それでは、各権力観の内容に入っていこう。

一次元的権力観:可視的な「表舞台」

一次元的権力観とは、ルークスの言葉によれば《多元主義者の権力観》であり、その権力観は、アメリカの政治学者ロバート・ダールによるところが大きい。ダールによれば、《直観的に得られた権力観》によって、権力の2つの姿に気づくことができるという。つまり、(1)《Aの働きかけがなければBは行なわないであろうことを、AがBに行なわせ得るかぎりにおいて、AはBに対して権力をもつ》、(2)《権力関係は「aがAの働きかけがなければ行なわないであろうことを、うまくaに行なわせようとするAの企てにかかわっている》という権力概念の理解である。これは、ルークスの解釈では《潜在的権力=権力の所有》と《顕在的権力=権力の行使》の違いを説明したものにほかならない。例えば、代議士Xに多額の献金をしている実業家Yが、Xに対し「法人税減税の法案を通してほしい。それができなければ献金をやめる」と言うとき、YはXに対して「権力」を行使している。また、Xが党内の立場を利用し、減税反対派の代議士Zに対して「この法案に賛成してほしい」と言うときも、XはZに対して「権力」を行使している。このような一次元的権力観を考えるうえでポイントとなるのが、政治的な意思決定において《「直接的な」、つまり実際の観察可能な「紛争」がともなう、と想定されている》ことである。ダールの方法論では、それぞれの決定について、《最終的に採用された案を発議した者》、《他の者によって発議された対案を拒否した者》、《最終的に却下された案を発議した者》を確定し、《成功総数のなかでもっとも高い成功率を示した参加者を影響力のある参加者》であるとみなしている。ルークスはこの一次元的権力観をまとめて、《「争点」をめぐって「決定」が作成される際の「行動」に注視するものである。そしてその「行動」には、政治参加をとおして示され、はっきりとした政策選好として捉えられる「主観的」「利害」の観察可能な「紛争」がともなう〔と、この権力観は想定している〕》と述べている。

二次元的権力観:可視的な「表舞台」と「舞台裏」

しかしそれは、裏を返せば《紛争がなければ権力行使は決して明らかにできない》ということになる。多元主義者にとって、「紛争」とは《意識的に形成され、活動において示され、それゆえにまた、人々の行動の観察をとおして見出されると想定されている》ものであり、「利害」とは《政策選好として了解できる―それゆえ利害の紛争は選好の紛争に等しい―》ものであると彼は言う。しかし、その考え方では《利害というものが表立って示されなかったり観察することができなかったりすることもあるかもしれない》、あるいは《人は自分の利害についてさえ勘違いしたり気づかなかったりすることがある》という可能性に答えることができない。P.バクラックとM.バラッツという政治学者は『権力の2つの顔』という論文でこの点を批判している。彼らは、権力には二面性があると主張する。第1の顔は、むろん《「具体的決定」、つまりその作成に直接関与する活動においてことごとく具体化され、十二分に示される権力》のことであるが、彼らは同時に《権力はまた、Aにとってわりに安全であるような争点だけを一般国民が考えるように政治過程の範囲を制限する社会的・政治的価値や制度上の慣行の創出と強化にAが努力するときにも行使される》と述べる。例えば、法人税の減税に強い関心のある代議士A(賛成)、代議士B(反対)、そして環境問題こそ議論すべき問題と考えている代議士Cがいるとき、AとBが税制に関するキャンペーンを繰り広げる一方、Cはそうしたキャンペーンを実施する力をもたないとき、政治的争点、あるいは民衆の関心は専ら「税制」に限られてしまい、環境問題は蚊帳の外になってしまう。ここでAが減税法案を通過させれば、AはBとC(と民衆)に対して権力を行使したということになる。つまり、バクラックとバラッツは《政策をめぐる紛争が表沙汰にならないように妨げるものを、ある人物ないし集団が―意識的・無意識的に―つくりだしたり強化したりするのであれば、その人物ないし集団は権力をもっている》と言うのである。

ルークスは、彼らが《偏向の動員》という《決定的に重要なアイディア》を取り入れている点を評価する。《偏向の動員》とは、《他を犠牲にしてある人々や諸集団の利益となるように体系的かつ終始一貫して作用する一連の支配的な価値、信念、儀式、制度上の手続き(「ゲームの規則」)》のことであり、ひとことで言えば、「『何について話し合うか』を決定する力」ということになる。

「権力」の類型学

このような意味において、バクラックとバラッツにとっての「権力」とは《AがBを首尾よく支配する―つまりAがBの服従を獲得する―あらゆる形態》を指示するものと考えることができるとルークスは言う。しかし、彼の目には、彼ら2人の議論には、「権力概念そのもの」と「権力に含まれる下位概念」との混同があると映っている。ルークスはバクラックとバラッツの《「権力」の類型学》を整理し、《強制》、《影響力》、《権威》、《実力》、《操縦》の5つの類型があると述べる。

「強制」とは、例えば、「党内の人事権を握っている代議士Aが、法人税減税に難色を示している同じ党の代議士Bに対し、『賛成しなければ重要な役職には就けない』と言ってBの賛成票を獲得する」というように、《「AとBとのあいだに価値や行為の方針をめぐる紛争」が見られる際に、Aが剥奪の脅しをかけることによりBの服従を獲得するところに現われる》力のことである。

「影響力」とは、「代議士Bが恩義を感じ、尊敬している代議士Aに「賛成票を投じてくれないか」と頼まれたときに、Bが態度を変える」というように、《Aが「苛酷な剥奪をそれとなく示すとか、あからさまに示すといった威嚇手段に訴えることなく、Bに彼の行為の方針を変えさせる」ところに現われる》。

「権威」とは、「党内の審議委員会の決議を経て、『経済成長を促進させることによって、減税した分を補う税収を上げることを意図する』と決まり、Aが賛成票を投じるよう呼びかけたのちに、Bが納得づくでそうする」というように、《BがAの命令を、B自身の価値基準からみて正しいと認めるがゆえに―つまりAの命令の内容が正当的かつ合理的なものであるためか、Aの命令が正当的かつ合理的な手続きを経てもたらされたものであるか、そのいずれかの理由から―Bが服従する》ときに現れる。

「実力」とは、「Bが反対票を投じたとしても、議長権限を行使してAが法案の賛成多数を宣言する」というように、《Bの不服従に直面しても、選択の機会をBから奪うことにより、Aがみずからの目的を達成する》ことである。最後の「操縦」とは、「腰巾着と揶揄されるBに対しAが「賛成しろ」と言ったので、Bは特に深く考えることもなく賛成票を投じた」というように、《服従者の側に、彼に対してたされた要求の発生源やその本質についての認識がないため》に服従が起こるということである。ただし、これは実質的には《「実力」の一側面ないし下位概念》ということになる。

二次元的権力観への批判

彼らの権力観の特徴は、権力の及ぶ場面を《決定作成》だけではなく、《非決定作成》にまで拡大している点にある。彼らによれば、《決定とは「選択可能ないくつかの行為様式からいずれかひとつを選ぶこと」》であり、《非決定とは「決定作成者の価値や利害に対する隠然たる挑戦や公然たる挑戦を抑止または挫折せしめる決定」》のことである。つまり、非決定とは《決定作成の範囲を制限すること》にほかならない。先に挙げた「権力」の類型学の例は、「決定作成」の場面での例となっているが、これを「非決定作成」の場面とするには、「『環境問題こそ議論すべき』との意見をもっているCが、Aにその議題を却下される」と考えればよい。

しかしルークスは、2人のそうした「視野の拡大」を評価するいっぽう、彼らの分析は《多元主義者らと共通するひとつの重要な特徴》の中にあると考える。それは、《公然たるものであれ、隠然たるものであれ、実際の観察可能な「紛争」を力説する点》にある。たしかに、バクラックとバラッツは《政治争点の範囲は観察対象の政治システムが決定するというよりは、むしろ政治システム内のエリートが決定する》というエリート主義的な多元主義観から脱し、《政治システムから部分的あるいは全面的に排除された市民が行動によって表明する政策選好を、つまり隠然たる苦情や公然たる苦情という形で表明する政策選考》をも考慮に入れた権力概念を提示している。しかし、それは「苦情」や「抗議行動」といった目に見える「紛争」、あるいは「紛争」に結実し得る(人々の中に自覚されている)「不満」がなければ、民衆やその代表者たちは、政治権力に影響されていないということになる。こうした理由でルークスは2人の分析を《不十分》であると考える。

三次元的権力観:可視的な「表舞台」と「舞台裏」、そして「不可視なもの」

では、ルークスは既存の権力観にどのような視点が欠けていると言うのか。その点について、彼は《AはBが行ないたくないことを行なわせることによって、Bに対して権力を行使することができる》ことは認める。しかし、彼は同時に《AはBの欲求そのものに影響を与えることをとおして、つまりBの欲求を形成し決定することをとおして、Bに対して権力を行使する》ことができると考える。それは、抵抗や怒り、憤り、そして労力と精神力をすり減らす「紛争」を生じさせることのない《至高の権力行使》である。

《権力を行使する人々の利害と彼らが排除する人々の「真の利害」との間の矛盾に根差している「伏在的紛争」》こそ重要だとする彼の権力観には、むろん「非事件=起こらなかったことをいかにして客観性をもって分析するのか」という批判がなされる。もちろん、個々の市民や団体に対して詳しい聞き取り調査をすれば「思っていたけど、口には出さなかったこと」や「言ったけど、取り上げられなかったこと」は分かるかもしれないが、《外部の観察者からすれば重要であってもコミュニティの住民からすれば重要とはいえない1組(の非事件)を、考え得る起こらなかった結果(つまり非事件)全体の中から取り上げることは明らかに妥当性を欠いている》というわけである。だが、このような批判は彼にとって《方法論上の困難を実質的な独断へとすりかえている》だけで、《ある状況の下で権力が行使されたことの証明が困難であり不可能だからといって、権力は行使されなかったとは言えない》と反論している。

彼の権力概念では、《AがBの利害に反するやり方でBに影響を及ぼす場合》、そこに権力が働いたということなる。そして彼は「利害」という概念を《倫理的かつ政治的な特質をめぐってくだされる規範的判断》に対する「認可」または「拒絶」ととらえる。消費税の増税によって、X家の家計負担が重くなれば、その政策はXの利害に合致しない。しかし、スーパーマーケットが近くにできて便利になれば、それはXの利害に合致する。このとき、Xは「スーパーマーケットの建設を許可したこと」の《正しさを擁護する》ということになるので、そこに「権力」は生じない。

しかし、そもそも「権力を行使する」とはどういうことだろうか。例えば、基本的には社会主義を信条としているBさんが、代議士Aの「法人税を減税しなければグローバル化の中で生き残っていけない」という主張を耳にし、自身が務めている企業A’内部で「減税が実現しなければ、海外へ本社機能を移さざるをえない…」と役員が発言したとの噂を耳にした際に、Bさんが「景気の後退」と「海外赴任」への不安から法人税減税を受け入れたとしたら、ルークスの定義ではAとA’は権力を行使したことになる。だが、この場合AとA’は似たようなことを言っているだけなので、どちらが決定的にBさんの態度を変えたのかは分からない。しかし、本質的にはAとA’どちらの主張が欠けたとしてもBさんが態度を変えたことに変わりはない。このように、《Aの働きかけがなければ行なわないであろうことを、AはBに行なわせる》ことをルークスは《効果的な権力行使》と呼ぶ。

しかし、ルークスは権力行使のパターンはそれだけではない。例えば、件のBさんが、法人税減税を主張する代議士Aから「法人税を減税しなければグローバル化の中で生き残っていけない」と言われたとする。このとき、Bさんは「むしろ消費税を減税することで、消費を活発にすればいい」と考え、自らの態度を変えなかった。しかし、社会貢献活動に積極的に取り組んでおり、Bさんが懇意にしている企業A’社に「減税すれば、世界と勝負できるようになるのだが…」と言われて、Bさんは「A’が生き残れないのは忍びない」と思い態度を変えた。このとき、AとA’の主張は、合わせ技でBさんの態度を変えていると言えるが、そのように《もうひとつの、ないしは他の十分条件とともに、Aの働きかけがなければ行なわないであろうことを、AはBに行なわせる》ことを彼は《作用的な権力行使》と名づけている。

無言と無作為の権力

この「作用的な権力行使」は、論理的に《Aがaを欲しBがbを欲しており、しかもAがBに優位していると想定したとき、BがAの働きかけがなければbを行なったであろう》とする反実仮想が常にともなうが、ルークスが主張する三次元的権力観の正しさを証明するには《AとBのあいだに観察可能な紛争が見られない場合には、有意味な反実仮想(の正しさ)を主張するに足る、別の根拠を提示せねばならない》。この点に、証明の困難さがあるのだが、彼はマシュー・クレンソンの著作『大気汚染の反政治学―諸都市における非決定作成の研究』の分析の中に、その反実仮想を証明する手法の可能性を見出している。

クレンソンによれば、アメリカ・インディアナ州ゲーリー市のUSスティール社という企業は、市民に雇用を提供する巨大な組織であり、市は事実上USスティール社の《企業城下町》であった。このとき、隣接するイースト・シカゴ市では1949年に大気汚染防止条例が制定されたにもかかわらず、なぜゲーリー市は1962年になるまで同じような条例を制定しなかったのかが問題となっていた。この点、USスティール社は議会に圧力をかけたわけではなく、むしろ逆に《活動することも政界に立ち入ることもせずに、〔…〕大気汚染の争点化をながきにわたって効果的に阻止し、さらには大気汚染を争点化しようとする試みを久しく妨害し、しかもようやく制定された大気汚染規制条例の内容を決定的に変えた》というのである。USスティール社は露骨なロビー活動も政治的キャンペーンもしなかった。それは、彼らが市の雇用と経済の中心であり、市民が生活を成り立たせるために依存せざるを得ない強大な存在だったからである。ルークスは、《他の条件が(イースト・シカゴ市と)同等であれば(殊に汚染規制が必ずしも失業を意味しないとすれば)、―人々がその選好をまったく表明しない場合にさえ―人々は汚染を忌避するだろうと予期する正当な根拠がある》と考えるが、市民や政治家たちは、声を上げればたちまちに自分たちの生活が苦しくなる議題に対し沈黙し続けた。これが、彼の言う「起こらなかったこと」の描写であり、《少数派が多数派へと拡大してゆく機会を奪う》ことによって、《地方社会の政治意識の覚醒を阻害する》ことに成功した事例である。

「権力」行使の本質:行為‐責任関係

USスティール社の分析では、企業は言葉を発しなかったとしても、彼らが自らの立ち位置や社会での優位性を自覚していないわけはないから、あえて反発を招くような派手な言動はしない、という戦略を意識的に採っていた可能性は高い。だが、ルークスの考えでは、そうした戦略性はなくとも「権力」は生じることができる。例えば、ある製薬会社が画期的な抗ガン剤を販売した際、多くの人が死亡し、後の調べでそれが薬の副作用によるものだと分かった場合、製薬会社は権力的な行いをしなかったと言えるだろうか。この問題について、彼は《製薬会社の科学研究者や経営陣が薬品の危険性に気づかなかったことを証明し得るとしても、権力が行使されたとの主張は正しい》と考える。なぜなら、《彼らはその危険性を知り得ただろうから》である。だが、同時に彼はタバコ会社の例については、《喫煙が有害であるとみなされる以前から、人々に対してこのような権力を行使していただろうか》と問いかけ、《もちろんそうではない》と答えている。この違いはどこからもたらされるのだろうか。

それは、ルークスが「権力」を「行為(または無作為)」と「責任」の関係の中でとらえているからである。製薬会社の場合、新薬の供給はその製薬会社の独占物であり、利用者には代替手段が存在しない。にもかかわらず、製薬会社Aは薬の利用者Bたちの《利害に反するやり方で》自らの利益を獲得しているから、それは「権力」的な行いであると言える。しかし、タバコ会社の場合は、喫煙するか否か、あるいはそのタバコ会社からタバコを買うか否かはそれぞれの個人に選択権があり、有無を言わさず人々の行動を支配しているわけではない。喫煙による害は自己責任に帰せられる。だから、それは「権力」的な行いではないというわけである。

「主体」を創りあげる「知」の力

私の理解では、「政治」とは「個々の主体が自らの望む世界や環境、社会を実現する過程」のことである。そして、その政治の場面においては、「対話」や「協力」、「協調」を旨とする友好的なものもあれば、「策略」、「戦争」、そして「権力」がつきまとう敵対的なものもある。本書の主題である「権力」とは(ルークスの)定義からして《AがBの利害に反するやり方でBに影響を及ぼす》ものであるから、本質的に敵対的でゼロ・サムゲーム的な概念である。ルークスが取り上げたUSスティール社の事例を見て、まっさきに思い浮かぶのは、原発の立地自治体の状況だろう。原発の問題はいまやNIMBYの典型とも言える問題と言えるが、立地自治体の経済は原発産業なしに成立させることが難しく、グローバル競争に耐え得る「安い」電力なしには社会全体の経済も苦しくなってくる。そうした抗いがたい現実の歴史の中に、「権力」の大いなる戦略を垣間見ることができる。

だが、ルークスの権力論を、「合理的選択の結果として、最終的には相手に服従し、支配を許すことになる戦略論」として読むだけではあまり面白くない。USスティール社の事例は、非常に現実的で容易に理解できる。その企業に生活を依存せざるを得ない状況を身にしみて意識しているからこそ、「環境」や「安全」といった争点を抑圧し、意識しないようにするという図式は、とても分かりやすい。しかし、この事例は、理性的に把握可能な論理=意識の世界についてのものであるため、どこか即物的にも思える。それを補完しくれるのが、ミシェル・フーコーの権力論にほかならない。

フーコーは狂人や犯罪者が社会的に排除されるに至る過程を分析し、為政者と学者が言説を形成することによって、人々の思考パターンを支配してきたという事実を明らかにした。それはまさに、人々が気づかぬうちに、「自らの意志」で思考する「主体」として仕立てあげられていく《至高の権力行使》以外のなにものでもない。監獄の設置は、犯罪の抑制には役立たなかった。しかし、現に監獄は存在し続ける。その無作為は、監獄の機能を「受刑者の更生や矯正」から「犯罪者」というカテゴリーを際立たせ、異分子を排除するとともに「安全」の名のもとに為政者による社会的監視を正当化するための手段に位置づけなおしたからであった。真に狡猾な「権力」は、暴力や脅迫を必要としない。私の耳には、商品開発の会議の場で聞いた「消費者を教育しなければならない」という言葉がこびりついている。発言主いわく、「この商品がなければ、不快なライフスタイルに甘んじなければならないんですよ、ということを教育しないといけない」とのことだ。それはまさに、企業‐市場という敵対的な政治の場であり、宣伝攻勢によって人々の思考を麻痺させる「権力」が発露する場面である。イヴァン・イリイチはそうした「権力」の存在を見抜き、そして批判した。フーコーの言うように、「権力」とは誰かが所有するものではない。そうではなく、権力とは政治的に、「自分の望む世界」をつくり出すために用いられる「戦略」や「手段」にほかならず、その場の状況によって絶えず動きまわるボールのようなものだ。国家や政治家は普段、人民を支配するが、正当性を削がれた国家はもはや存在し得なくなる。企業は我々のライフスタイルを操作するが、その露骨な欲望が明らかになったとき、不買運動によって窮地に立たされる。本書が出版されたのは1974年で、その翌年の1975年にフーコーの『監獄の誕生』が出版されていることを考えれば、《文化的に決定された領域が認識の革新に対して占める位置についての歴史的判断》を分析した実例が存在していたことは知るよしもない。だが、学問とはひとりで完成させる必要もなく、互いの「協力」によって構築していく代物だ。いやむしろ、学問に「権力」など生じてはならない。彼らの言うように、言説=知の力ほど、人間を支配するものなどないのだから。

参考文献

  • スティーヴン・ルークス『現代権力論批判』,中島吉弘 訳,未来社,1995.07.(原書:1974),全145ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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