C.B.マクファースン(1976)『自由民主主義は生き残れるか』

公開日: 更新日:

政治学

この記事をシェアする
  • B!

紹介文

本書の著者、C.B.マクファースンによれば、政治制度の系譜上、自由民主主義と呼べる体制には3種類あるという。それが、(1)防御的民主主義、(2)発展的民主主義、(3)均衡的民主主義である。ジェレミー・ベンサムらが唱えた防御的民主主義は、資本主義社会に非常に適合的であったが、そこには敵対的な人間関係と搾取の螺旋が存在していた。そこでJ.S.ミルは発展的民主主義を主張し、民主主義という制度に「自己の潜在能力の陶冶」という積極的な意味を付与しようとした。しかし、現実はヨーゼフ・シュンペーターが分析したように、市場主義的な専門家による政治にほかならなかった。マクファースンは自由民主主義の系譜をこのように分析し、これからのあるべき姿として(4)参加民主主義のモデルを提供する。本書は、自由民主主義思想の系譜を概観し、これからのあるべき姿を考えるにあたって、まさにうってつけの良書である。

民主主義以前:妥協なき「自由主義」と封建制

現在の、とりわけ先進諸国の政治体制は、多かれ少なかれ「自由民主主義」というカテゴリーに属しているとされている。自由民主主義とは、文字通り、「自由主義」と「民主主義」が合わさった体制のことである。マクファースンによれば、《自由主義とは、いつでも個人を古い確立した制度の時代遅れの拘束から解放することを意味していた》が、自由とは、基本的に「外界や他者に巻き込まれないこと」であるように思われる。例えば、ある若者が結婚前の「不純異性交遊」を禁じられていた場合、彼・彼女は伝統や共同体の意志に縛りつけられ、自らの生がそうした外部の状況に巻き込まれているため、彼・彼女は自由ではない。あるいは、経済活動のことを考えてみれば、雇用者が労働者の賃金を非常に低く抑え、自らの利益を最大化しようとしたり、あるいは生産手段を独占したりするのを邪魔され、断念せざるを得ないとすれば、やはりそこには自由がないことになる。自由主義とはそうした束縛を拒否し、とりわけ富裕な者にとって有利となる政治制度と言うことができるだろう。

一方、民主主義とは「その社会を構成するすべての人民が、共同体としての意思決定に参加できるようにすることを目指す体制」のことである。民主主義は、理想的にはすべての人が話し合いにもとづいて、互いに納得した結論を出すために採用される方法であるが、多種多様な利害と立場がある以上、現実的には多数決の原理によって、1人でも多くの者が賛同する意見が、そうでない意見をもつ人々を服従させてしまうことになる。いつの世でも、社会は少数の力のある者と多数のもたざる者に分かれるものだから、この体制はとりわけ裕福でない人々にとって有利となる政治制度である。それゆえ、封建制社会などにおいては、民主主義は《有閑で財産と教養ある諸階級を犠牲とする、無知で無能な貧乏な人々(=ふさわしくない階級)による支配として定義された。民主主義は、階層化された社会だけではなく、自由主義的な社会とも両立しがたいひとつの階級的脅威であった》。それゆえ、《18、19世紀までの西欧の主要な伝統は、要するに非民主主義的ないしは反民主主義的であったのである》。

ユートピア的民主主義と自由民主主義の先行理論

先程見たような状況によって、相反する2つの政治体制、すなわち自由主義と民主主義は混じりあうことなく、より力をもった人々による自由主義的な政治体制がずっと採用され続けてきた。しかし、人間のやることについて、無からは何も生まれることはない。つまり、自由民主主義が誕生するまでの間にも、民主主義の理論や思想を抱く人は存在していたということである。具体的には、トマス・モア、ゲラード・ウィンスタンリィ、ジャン=ジャック・ルソー、トマス・ジェファスンといった人々であるが、マクファースンによれば、こうした人々は、「階級」と「財産所有」のあり方について既存の社会を批判しているところに共通点がある。彼によれば、《階級とは、生産的な土地と資本の両者あるいはその一方について、同一の所有関係ないし非所有関係に立つ人々から構成される、と考えられている》が、政治思想・政治哲学の系譜においては、3つの「階級」と「財産所有」に関する考え方が存在する。すなわち、「無階級社会」、「一階級社会」、「階級分割社会」である。無階級社会とは、《(今日の共産主義と同様に)、生産的な土地ないし資本の個人的所有をともなわない社会、したがってまた所有諸階級をもたない社会》のことであり、「すべての財産は共同体の共有物である」ことがポイントである。また、一階級社会とは、《生産的な土地と資本の個人的所有が存在し、そこでは万人がこのような財産を所有し、あるいは所有する立場にある》社会のことであり、「すべての財産を(ほぼ)平等・均等に分割し、個人が所有する」という点が重要である。最後の階級分割社会とは、《生産的な土地と資本の個人的所有が存在し、万人ではなく一部の人々のみがこのような財産を所有するような社会》のことであり、「財産は基本的に個人に所有権が認められていて、財産の偏在が見られる」といいかえてもよい。こうしたあるべき財産・階級制度のモデルは、《異なった統治形態のひとつの重要な基準であり、さらにはどんな統治形態が成立し作動し得るかのひとつの重要な決定因でさえあるという見解》は、アリストテレスやマキャヴェリの時代から保持されていたという。

いまだ封建制が優勢であった時代には、どれだけ激しい民衆の反乱であっても、それは選挙権についてのいかなる要求も含んでおらず、反乱の主目的が選挙によって達せられるなどとは考えもしなかった。なぜなら、権力は《世襲のものであれ、武力によって獲得されたものであれ、身分に依拠していた》からであり、民衆は「そういうものだ」と改めて振り返ってみることがなかったからである。しかし、時代が下り16~17世紀になると民主主義思想の萌芽のようなものが見られるようになる。それがトマス・モアの『ユートピア』(1516年)とゲラード・ウィンスタンリィの『自由の法』(1652年)であるが、これらの人々は、《一切の階級的権力制度を攻撃する》ために、《階級抑圧と搾取の基礎が私有財産制度の中にあると考えて、私有財産制度を、共同財産と共同労働によっておきかえた》。それは、《統治の枠組の処方筆であるのみならず、根本的に平等で非抑圧的な社会のヴィジョンでもあった。このような社会は階級なき社会でなければならなかったし、無階級的であるためには、私有財産抜きでなければならなかった》。こうした民主主義体制をマクファースンは、ユートピア的民主主義と言う。

さらに時代が下ると、「搾取的な私有財産制度」の腐敗を批判する人々が現れた。その代表格がジャン=ジャック・ルソーである。しかし、ルソーにとって、私的財産制度は問題ではなく、むしろ自然権のひとつであり、《神聖な個人権》ですらあった。もっとも、《所有者が残りの人たちを搾取することができるような大私有財産は、自然権の否定》であり、《無制限の財産権は、搾取と不自由の源泉であり、かつそれらの絶えざる手段である。制限された権利のみが道徳的に正当化し得る。〔…〕人は自らの生存のために必要とされる量だけを占取しなければならぬ。そして…財産は、空虚な儀式によってではなく、労働と耕作によって得られねばならぬ》。こうしてルソーは、《市民、すなわち自由人にとっての恒久的規則として、自由な賃労働の売買を禁止》している。彼がそうした原則を打ち出すのは、彼が主張していた「一般意思」の理念にとって必要であったからである。「一般意思」とは、その社会を構成するすべての人々の間に形成される合意のことであり、特定の個人・団体の利益ではなく社会全体の利益のためになされる意思決定と言うことができる。しかし、《人々が財産の相違によって敵対的利害をもつ階級に分割される場合には、人々は、全体社会に対しては特殊利益である階級的利害によって導かれる》ことになる。この「私有財産制の容認」と「財産の偏在の拒否」を両立させれば、先に挙げた「一階級社会」という形態が導かれることになる。もっとも、共産主義的な政治・経済体制とは異なり、政府の役割は《富をその所有者から奪い取ることではなく、富を蓄積する手段を万人から奪うこと、貧乏人のために病院を建てることではなく、市民たちが貧乏にならないよう保障すること》によって、財産の極端な不平等を防止しようとしている点には注意が必要である。このような考え方は、トマス・ジェファスンの思想においても見出される。彼は、《万人が経済的に独立している社会を必要》としており、《利用し得る自由な土地があるから、賃金取得者も農夫と同様に独立的であるという理由から賃金労働に反対しなかった》。ジェファスンが民主主義にとっての必要条件としたのは、ルソーの場合と同様、一階級によって構成される社会であった。

だが、マクファースンは、上に述べたような2つの政治体制を自由民主主義の系譜には含めていない。その理由は単純で、この2つのあり方はたしかに「民主主義」ではあっても、それが自由主義と混じり合った形態である「自由民主主義」ではないからである。彼の理解によれば、自由民主主義と呼べる政治理論には、すべからく《資本主義的な市場関係=階級分割社会の受容》が含まれていた。この点にこそ、本書を理解するうえでのポイントがあると言える。先にも述べたように、19世紀に至るまで民主主義的な政治思想は主張されてきたものの、実際には封建制が維持され、また自由主義的な政治理論が言論界においても力をもっていたため、《自由民主主義の概念がようやく実現可能になったのは、理論家たち―始めは少数の、後にはほとんどの自由主義的な理論家たち―が、「1人、1票」は財産にとって、あるいは階級分割社会の存続にとって危険でないと信ずるに足る理由を見出したときから》にすぎない。それゆえ彼は、《階級分割社会を受容・承認し、そのような社会に1つの民主主義的な構造を適合させるつもりで仕事に着手した》ジェレミー・ベンサムやジェームズ・ミルを自由民主主義の端緒ととらえ、現在に至るまでの自由民主主義のあり方を3つのモデルとして分析している。具体的には、1.防御的民主主義、2.発展的民主主義、3.均衡的民主主義であるが、以下でそれぞれの詳細を見ていくことにしよう。

モデル1 防御的民主主義

自由民主主義に限らず、なんらかの理論的方針が現実に推進される場合、それは人間の理性に照らして間違っていないことが求められる。自由民主主義思想もその例外ではなく、マクファースンは、自由民主主義が実現可能であるためには、2つの条件が必要となると言う。すなわち、《(1)それを運用する人間の欲求や能力からかけ離れていてはならないということ、したがって民主主義のモデルは人間のモデルを含んで(あるいは当然のこととして前提して)いなければならないこと》、そして、《(2)それは、全般的な同意と支持を必要とするから、そのモデルは明白にか暗々裡にか、倫理的な正当化の理論を含んでいなければならないこと》である。それが現実の世界を違わず表現しているか否かはともかくとして、純粋に論理を構築するにあたっては、ある現象をモデル化して、分かりやすく把握し、そのモデルを土台として論理を展開していくという方法が採られることがある。政治理論では、まさにそういったモデル化によって「一般的な人間、ならびにその集合体である社会」を把握し、そこで明らかになった人間の本性から論理的に導かれる政治形態の正しさが主張される。

マクファースンは、自由民主主義思想の最初の形態を防御的民主主義と呼ぶ。この防御的民主主義をはじめて体系的に主張したのは、18世紀初頭のジェレミー・ベンサムとジェームズ・ミルであるが、この理論に共通しているのは、《人間は無限の消費者であり、彼の最も重要な動機は社会から彼自身へと向う満足ないし効用の流出を極大化することであり、国民社会はこのような諸個人の単なる集合であるという仮定》を基礎に据えていることである。

ベンサムの考案した功利主義の考え方によれば、社会全体としての善、つまり最も良い状態が実現されるためには、有名な「最大多数の最大幸福」の状態になればよい。彼は幸福を《苦痛を差し引いた個人の快楽の量》として定義し、《社会全体の純幸福量の総和を計算する際に、各個人は1人として数えられた》。しかし、個人にとっての「幸福」とは非常に主観的で、同じ現象が起こったときでも個々人によって感じ方は異なる。だが、それでもベンサムは《多くの非物質的快楽を含めて、快楽の種類についての長いリストを提示》し、そのうえで《物質的財貨の所有がその他いっさいの満足の達成にとって非常に基本的なものだから、物質的財貨の所有だけでも、その他いっさいの満足の尺度として採用され得る》と考えた。ひとことで言えば、「お金はさまざまな物やサービス、体験を買うための客観的で平等な指標であり、生活の豊かさが幸福と言えるのだから、富を手に入れるのが人間にとって良いことである」ということになろうか。そして、彼自身が考える人間の本性は《各人は彼自身の富を無制限に極大化しようと努める》というものであるから、すなわち「人々は各々、より多くの富を得るために行動するだろう」ということになる。だが、誰しも自分ひとりでは生産力=富を生み出す源泉に限りがある。そこで《万人が自分自身の楽しみを増やすために、自分の同胞のサービスを使用しようと躍起になる》。それはつまり、自分の指示に従ってほかの人に働いてもらい、その成果を独り占めしようとするということであるが、そこに生じるものは「権力」と「従属」にほかならない。だからこそ、《権力への強烈で普遍的な喝望と同様に、従属への一般的な嫌悪が生じてくる》。だが、こうしたホッブズ的な自然状態を放置していては、社会は社会としてまとまることなどできない。だからこそ、法が必要となってくるわけだが、ベンサムは《最大多数の最大幸福を産み出すための最善の権利と義務の配分》を主目的とした立法という行為は、4つの副次的な目的に分割され得ると考える。すなわち、《「生活手段を提供すること、富裕さを産み出すこと、平等を促進すること、安全を継持すること」》である。ただ、彼の功利主義的な自由民主主義理論において、社会の作為によって対策を講じるべきなのは実質的に「安全を継持すること」だけである。彼は、《法は、万人に提供すべき十分な生活手段の生産を確保するために、なにごともなす必要はない。〔…〕個人を励まして物質的財貨の富裕さを産み出すためには、いかなる立法も必要とされない。自然な刺激で十分である》と考える。なぜなら、生活を成り立たせるためには生産活動に従事することが必要であるが、その動機(罰ないし報奨)は、人々を放置していれば自然に芽生えてくるからである。動機としての罰は、ベンサムの言葉で言えば《飢えの恐怖》であり、動機としての報奨は、彼の採用する人間モデル(=彼自身の富を無制限に極大化しようと努める)から自明である。

ベンサムはたしかに「平等を促進すること」を目的として立法を行うべきであると言う。彼の言う「平等」とは、私たちがイメージするように《すべての個人が等しい富をもつこと》である。なぜなら、《富(ないしなんらかの物質的財貨)が漸増する場合、それぞれ同量の増加分がその所有者にもたらす満足の量は漸減するということ、あるいは他人の10倍、100倍の富を持つ人間が他人の10倍、100倍の快楽をもつわけではない》ことを彼が知っていたからである。ひとりの人に100の富が集中していても、この《効用逓減の法則》によって、社会全体の幸福は最大化されない。そうではなく、《幸福量の総和は、富の配分が平等に近づけば近づくほどより大きくなる》という彼の原理である最大多数の最大幸福の原則にもとづき、彼は平等を実現する必要性にたどり着くのである。

だが、そうした議論を経たとしても、平等は最大の関心事ではない。ベンサムにとって最大の関心事は、最後に残された「安全の確保」にほかならない。ベンサムが言うには、《自分の労働の成果としての財産の安全なしには、文明はありえない。自らの労働の成果を直接に受け取ったり使用したりできないなら、誰もなんらかの人生計画を立てたり、なんらかの労働を企てることはしないだろう。もし収穫物が自分のものになるということが確かでなければ、単純な土地の耕作さえも企てられることがなかろう。それゆえ、法は個人の財産を安全に保たねばならない。そして人間は能力と精力において違っているのであるから、ある者は他の者よりもより多くの財産を得るであろう。もし法が両者の財産を平等にならしてしまおうと企てるなら、生産性向上への刺激は破壊されるであろう。ここからして平等と安全との関係については、法はどんな躊躇もしてはならない》。それゆえに、《働く人々の安全、労働の成果の保障、かかるものが法の恩恵》であることになる。

政治問題とは、マクファースンによれば《政府、つまり法の作成者と法の施行者の組合せを選択し権威づけるひとつのシステムを発見すること》である。ベンサムは彼の功利主義的な自由民主主義思想にとって、理想的には2つの条件を満たすことが必要であると考えた。つまり、《自由な市場社会を確立し育てあげるような政府を生み出す》こと、そして、《強欲な政府から市民を防御しなければならない》ということである。人間が政治を行い、そして本性として(富の最大化の手段としての)権力を追い求める以上、《それ自身の利益になるか、あるいはそうすることが不可能だということでなければ》政府は必ず強欲になる。こうした懸念に対して、ベンサムは、まず《投票を投票者の意思の自由で実効的な表現たらしめる、秘密投票、頻繁な選挙、新聞の自由》といった制度を考える。だが、当時のイングランドでは、《立法部と行政部が総選挙において投票者によって定期的に選出され、したがって定期的に取り替えられること、公務員(と軍部)は政府に従属することにより選挙民に責任を負うことなどの憲法上の規定を、当然のこととして受け取ることができた》ため、この点については変更を加える必要はなかった。問題となったのは、選挙権の範囲である。彼は、人間を利己的な存在としてとらえていたため、特定の団体が権力の座に就けば、社会的善を自分たちの都合の良いように解釈し、自分たちの利益に結びつくような政策を推し進めると考えた。それゆえ、《政府が人民の残り全部から強奪するのを防ぐ唯一の道は、全人民の多数によって統治者をしばしば交替させること》と彼は述べる。ベンサムにとって統治とは、《ゼロ・サム・ゲーム》であり、政治に望む人々の姿勢は、他者に出し抜かれたり、利益を独占されないように警戒する、《純粋に防御的な議論》でしかない。そして彼は、数のうえでは多数を占める貧者や女性、若者といったカテゴリーに属する人々による衆愚政治を警戒したため、基本的に制限選挙権(男子普通選挙)を主張した(ただし、アメリカにおいて《貧乏人が彼らの選挙権を、財産を平準化したり破壊したりするためには用いない》ことを自分で得心してからは、民主主義的選挙権の原則に移行している)。

防御的民主主義への批判

防御的民主主義の代表的な思想家のもうひとりとして挙げられているジェームズ・ミルもベンサムとほぼ同じ議論をしている。もっとも彼は、《1832年の選挙法改正法案以前、〔社会と政府を〕完全に牛耳っていた少数の地主・金融階級の支配的で邪悪な利益を掘りくずす》ことを目指していたため、本来であれば《財産資格制限なしの完全な男子普通選挙権》を理想とはしていたが、それでは《大方の中間階級の世論をおぴえさせることとなり、この階級の支持を失う》ことになることを予想したため、あまりに急進的な理論を打ち出すことができなかった。それゆえに、まず《すべての婦人、40歳以下のすべての男子、および40歳以上の男性の中でもっとも貧しい3分の1の人々を排除(成年人口のうち、おおよそ12分の10。性によって半分、年齢によって少なくとも残りの半分、残った4分の1のうち財産によってその3分の1が排除された)》することで、既得権益層に「『数の暴力』に抑圧されることはない」と安心させ、《労働者階級の圧倒的多数が、「かの知的で有徳の身分」つまり、中間階級の忠告と模範に従うことは確かだと指摘》することで、少しずつ理想を達成しようとしたのである。

しかし、ベンサムらのこの理屈はさまざまに批判を受けることとなる。その批判の内容をひとことで言えば、《資本主義のエートスにあまりにもとっぷりつかっていた》ということになる。彼は、「飢えへの恐れがあるから、生活手段を用意するためにはなにも必要ない」と言っている。しかし、《万人の不断の労働が必要とされた(そして万人によって必要であるとみなされた)低い水準の生産技術を持つ原始社会》においては、たしかにそれは妥当であったかもしれないが、《ベンサムの時代のイギリスにおけるように、生産技術が高くて万人による不断のこのような労働なしでも万人に対して生活手段を提供し得る社会においては、飢えの恐怖はそれ自体で十分な刺激たりえない》。なぜなら、人々は自分たちで食べるよりも多くの食料を少ない人手で生産できるようになったので、状況としては働かなくても他者の分け前にあずかれば、生きていける人が出てくるはずだからである。事実、原始共産制社会においては、獲得した食料をその成員に無償で分け与えることは当然とされていたから、上の理屈は現実のものとして観察されたことだろう。それでもベンサムの言うように、飢えへの恐れが生じるのは、ただ、そうした社会の成員同士の紐帯が途切れて、個人的な財産権を主張するようになった社会において、《土地や作動する資本へのいっさいの所有権をもたず、自分たちを助けてくれるよう社会に請求する権利ももたず、そこからして彼らの労働(力)を売るか、さもなくば飢え死しなければならない》階級が生じた場合だけである。また、彼は「人間はその本性からして自己の利益を最大化することを目的として行動する」と言うが、それは《資本家的企業者やおそらくは自営独立生産者》には妥当かもしれないが、《「常に貧窮すれすれのところにいる」賃金取得者には非常にうまくは適用されえない》。貧者はそうした「本性」にもとづく競争から排除され、ただ「飢えへの恐れ」から働き、そして生きるだけである。さらに彼は、「(財産の)安全は平等に対して絶対に優先する」と主張するが、《財産の安全が、不平等を永続化させながらも、生産性を極大化するということは、財産の安全が、快楽ないし効用の総和を極大化するということとは違う》。ベンサム自身が言うように、《効用逓減という彼自身の原理によって、平等に配分されたより小さな国富は、不平等に配分されたより大きな国富よりも、より大きな効用の総和を産み得る》。この矛盾を知ってか知らずかベンサムが無視するのは、彼が《彼の論題を効用の総和から富の総和》にすり替えているからである。つまりベンサムは、《富の極大化を支持し、それを効用の極大化と同一視している資本主義のエートスにあまりにも、とっぷりつかっていたために、両者の相違を認めなかった》と評することができるのである。

モデル2 発展的民主主義

19世紀および20世紀のヒューマニストたちは、防御的民主主義の資本家寄りの理屈に反発し、その理論を批判した。その際、対案として出されたのが、「発展的民主主義」の理論である。この理論は、ジョン・ステュアート・ミルをはじめとして、ウッドロー・ウィルソン、ジョン・デューイ、R・M・マッキーヴァーといった人々も賛同した理論であるが、マクファースンは、J.S.ミルとそれ以降の人々との違いを見出し、J.S.ミルの理論を「モデル2A」、それ以外の人々の理論を「モデル2B」として区別している。これら2つの理論に共通しているのは、自由民主主義という制度を単に「財産の安全を保障するための道具」として消極的にとらえているのではなく、《人々の人格的発展と道義的共同社会》を実現するための制度としようとした点にある。

J.S.ミルが民主主義という制度に積極的な意味を見出そうとしたのは、当時の労働者階級の人々が置かれている状況があまりにも非人間的であったからである。彼は、《労働者階級が、自分たちのことを不可避的に貧困すれすれの線上にあるよう運命づけられているとしたベンサムの見解》を唯々諾々と受け入れることは不可能であるし、また彼がそうした現状を目の当たりにすることによって感じた《道徳的な不快さ》からそうすべきではないと考えた。そして彼は、《労働者階級が自分たちの惨めな条件から自らはい上がることができると考え、また実際に労働者階級がそうすることを切望していた》。それを実現するためには、自由民主主義の考え方を変えていく必要がある。たしかに彼は、《人類は、彼らの自衛の能力を持ち、実際に自衡をしているのに比例してのみ、他人の手による害悪を免れる》と考え、自由民主主義の防御的な側面を否定はしなかったが、同時に彼はそれによって《知性、徳性、実践上の積極性と能率性における…共同社会の前進》というより望ましい未来を実現することが可能であると考えたのである。この《人類の向上可能性とまだ達成されていない自由で平等な社会についての道徳的ヴィジョンをもっていること》という点が、J.S.ミルのモデルとそのほかのモデルを最も鋭く区別する。J.S.ミルにとって、人間は《人間は自らのカと潜在能力を発展させることのできる存在であり、本質的に消費者、領有者ではなく、自らの潜在的能力の行使者、開発者、享受者》である。そして、彼にとっての良き社会とは、《自らの潜在的能力の行使者、開発者として、さらにその行使と発展の享受者として万人がふるまうことを認め奨励するような社会》であった。その社会において、選挙権を獲得した人々は、《政府の行動に対する直接的利害関心をもち、そしてまた少なくとも政府を支持したり、それに反対して投票する程度にまで、さらには望むらくは、自己を啓発し、他人との討論を通じて自らの意見を形成する程度にまで、積極的に参加する》ようになるとの理想を彼は抱いた。J.S.ミルは、所有する富の多少によって数量的に快楽、ないし効用を測定したベンサムの立場を批判し、《快楽には質的な相違があると主張し、最大の幸福量の総和を最大限の生産性と等置することを拒否した》。そうではなく、彼は《最大の幸福量の総和は、個人が自らを発展させることを許し励ますことによって得られるべきもの》と考えた。彼は、《既存の富と経済権カの配分が、労働者階級の大部分の成員にとっては、そもそも彼ら自身を発展させることも、さらには人間的に生きることさえも、不可能にしていること》を認識し、当時の「報酬と努力の均衡」の原則は歪められていると批判した。なぜなら、彼の理解によれば、私有財産制は、《個人に「他人の労働および禁欲の果実」ではなく、「彼ら自身の労働および禁欲が生む果実」を保証する》かぎりにおいてのみ正当化し得る代物であり、労働者の搾取を容認するものではないからである。

だが同時に、彼はマルクスのように資本の所有を排撃するようなことはせず、《資本の所有者は生産物の分け前を得なければならないと考えた》。彼は、資本の所有を《単に以前の労働および禁欲の産物であるのだから、このことは公正の原則と矛盾しない》と主張し、《資本を、過去の労働によってそれをつくり出した人々からの不正な強奪によってよりも、贈与ないし自発的契約によって獲得した「確率がずっと高い」と述べることによって、ミルは、自分が労働と資本との間の配分を支持するに十分な理由づけを与えている》と考えた。彼にとっての問題は、ただ富の《本源的な暴力的財産配分》であり、それは市場競争によって決定されるべきであるとの主張した以上のことはしなかった。

J.S.ミルのジレンマ:市場社会の強大さ

だが、彼の理想はマクファースンから見れば、永遠のジレンマに陥る運命にあった。なぜなら、彼は資本主義という経済体制そのものを受け入れてしまったからである。おりしもJ.S.ミルが彼の自由民主主義理論を構築していた頃、企業家たちも《労働者階級が財産にとって危険な存在》と思い始め、表面上1人1票を掲げていた防御的民主主義理論に変革が必要であると考えていた。チャーティスト運動を端緒として、1848年にヨーロッパ各地で起こった革命(1848年革命)において、労働者階級は資本家階級の打倒を目指し、逆に資本家階級は、労働者階級には封じ込めが必要であると思い始めた。既存の競争的市場社会によって形成されたものとしての人間は、互いに自己の利益を実現するため、相手を支配しようと対立的になる。そこにあるのは、《労資間の恒常的不和》でしかない。J.S.ミルにとっての理想は、《相対立する利害のために闘う階級対立から万人に共通する利益の追求における友誼に満ちた競争への人間生活の転換であり、労働の尊厳性の高揚であり、労働階級における新しい安定感および独立性であり、すべての人間の日々の営みの、社会的共感および実際的知性を学ぶ学校への転化》であった。彼は、《資本主義的原則は富、収入、権力の既存の不公平配分にはどのような意味でも責任がなく、さらにそれは漸次的に不公平配分を減じつつある》とさえ考えたが、資本主義とは根本的に、《もともとの不公平な配分を高めるにしろ、元に戻すにしろ、その関係は、資本に対して、現行の労働によってつけ加えられた価値の一部を与え、かくして着実に資本量を増大させる》ものである。J.S.ミルは、《人々は自分自身のための利益の自己中心的な獲得者以外の何者かになり得ると信じたが、しかし彼らの大部分はまだその域をたいして越えてはいない》と考え、労働者階級の大部分が政治的なカを賢明に行使できないと思っていた。その時点で普通選挙や平等選挙を認めれば、先に待ち受けているのは衆愚政治以外のものではなく、また、現在力をもっている上流階級を説得できるものでもない。だから彼はジレンマを抱えつつ、《完全な選挙制度は、万人が1票を持つと同時に、若干の人々が1票より多い投票権を持つことを要請すると主張し、これらの条件のどちらも他方なしでは認められない》(1859年『議会改革に関する考察』)と述べた。だが、彼はそこに留まらず、《若干の人々に複数選挙権を与えることとならんで、他の若干の人々は選挙権から全く排除されるべきだ》(1861年『代議政体論』)と主張し、救貧扶助を受けている人々、免責未決済破産者、直接税を払わないすべての人々、読み、書き、計算のできない人々といった《市場における失敗者》を選挙から排除すべきであることを認めた。たしかに彼は、《社会は初等教育を、それを欲するすべての人々の手の届く範囲に置く義務を有する》と主張したが、結果として、「未熟練労働者が1票の権利をもつとき、理性・知性の発達具合に比例して最大で6票分の投票権を有する人がいてもよい」と言わざるを得なかった。それゆえ、マクファースンにとって、J.S.ミルは《完全な平等主義者として位置づけることはできない》。最終的にJ.S.ミルは、万人が自らの理性を陶冶し、政治的議論に参加することを理想としていたにもかかわらず、少数の知識人に政治の趨勢を任せることは《少なくとも消極的に、より良き社会に資するだろう》と不平等を擁護せざるを得なかったのである。だが、そうした政治的有効性感覚の(当初からの)剥奪は、当然のことながら《労働者階級の意思が支配的にはなりえないことを知り、こうして参加へのより大きな刺激を感じなくなり、その結果、より発展したものにはならない》であろう。彼は、「鶏と卵」の問題に直面し、資本主義的市場社会という既成の現実に、ついに抗うことができなかった。

20世紀の発展的民主主義者たち

マクファースンによって、モデル2Bに分類されている民主主義の思想家たちは、資本主義のもたらす階級制と自分たちの理想との矛盾について、《J.S.ミル以下の認識しか示さなかった》。彼らは、階級によって分断されることのない社会という、彼らの理想を達成するためには《少なくとも規制・福祉国家を包含する民主主義が、良き社会を実現するためになされ得ることのほとんどと、なされる必要があることのほとんどとをなし得る》と考えていた。そのためには《「民主主義的な諸原則…の産業の統治への適用」》が必要であり、《資本による既存の生産統制を完全に受け容れたわけではなかったが、独占的企業に対する若干の統制をすれば、企業の民主的統制にとって十分だと考えた》。モデル2A・2Bのどちらにせよ、発展的民主主義の理想は、「一階級社会の実現」と「すべての市民が一般意志を形成するために必要な、理性の陶冶と意見表明の機会の確保」という点に集約されるが、モデル2Bの思想家たちは、独占的な企業に対する課税と財の再分配という「福祉・規制国家」政策、あるいは多元主義的な社会集団の林立という当時の現実によって、階級的な争点は非常に減退させられたと考えたのである。彼らにとっての根本的な困難は、《政治機構にあるなんらかの欠陥》ではなく、《民主主義的公衆が「なお概して未完成で未組織」であり、自らがいかなる経済的・技術的な組織の諸カに直面しているのか理解し得ていないという事実》であった。それゆえ、本質的に必要とされたのは、まず各々の理性を発達させるためのより良い教育である。しかし、それだけではなく、より根本的には《実験的方法と「協力的知性の方法」を適用することによる社会科学の進歩》が必要であった。民主主義という《生活様式》は、もはや政治や経済制度の中だけで改善できるものではなく、《科学、芸術、教育、道徳、宗教など、我々の文化のあらゆる領域》での実践と、そこから得られる経験=(科学的)知識によって着実に改善されるべきものと彼らは考えたのである。それゆえ、彼らは大恐慌という状況下にあっても、《自発的協定による、しかしおそらくは「工業界・金融界の大立物が、産業活動の規制を立案するために労働界の代表や公務員と会合を開くような調整・指導評議会」という手段による、「産業発展の計画化された調整」の必要》を論じたのだった。

「飼いならされた民主的選挙権」:政党政治の真実についての誤解

モデル2Bの思想家たちは、労働や日常生活の場面で民主主義的な実践の経験値を積めば、やがてすべての国民が互いに議論し合えるくらいに理性や説得の技術を発達させ、少数の富裕者に富と権力の偏在が起こらない平等な社会が実現されると思っていた。しかし、マクファースンの見立てによれば、現実はそうならなかった。マクファースンによれば、《19世紀においてはいかなる国でも、普通選挙権は言うに及ばず、男子普通選挙権によって選出された政府もなかった》。それゆえ、政治思想家たちは、まず第一に《万人にとって、少なくとも保護、そして最善の場合には自己発展を達成する》ために必要なものとして、普通選挙制や教育機会の確保などを主張していればよかった。しかし、《20世紀の前半までには、少なくとも完全な男子普通選挙権が先進西欧諸国において一般的になった》ため、モデル2Bの思想家たちは、現実に即して、自分たちの理想(万人の積極的な意見の表明)を達成するために必要なものを分析・提言しなければならなかった。たしかに、選挙権の拡大によって人々の形式的な意志を表明する機会は確保されたかもしれない。しかし、その形成過程において、現実はモデル2Bの思想家たちが想定したように、「小さな集団内部で各々が意見を出し合い、議論と説得によって万人が納得できる結論に達し、それを代表者がより大きな議論の場(議会)に上げていく」ということにはなっていなかった。マクファースンはその原因を政党制という政治制度に求めている。

政党制とは、簡単に言えば、「同じ考え方を共有する人々(の代表者)が結社をつくり、国家レベルでの議会の場で法を制定していくこと」である。マクファースンの分析では、政党制の主要な機能は、《安定した政治的均衡を生み出すだけではなくて、ひとつの特殊な種類の均衡を生み出すことにある》。それは《政党制が民主的選挙権の開始以来、西側民主主義諸国で実際に遂行してきた機能は、懸念された、あるいは起こり得る階級対立の鋭さをぼかしてしまうことにあった―あるいは、お好みなら、既存の財産制度および市場制度を実効的攻撃から救うために、階級的諸利害の対立を緩和し和らげることにあった》。そして、この機能は、政党の数や規模に左右されることなく、結局おなじような現象を引き起こすことになる。

彼は、(1)イギリスの労働党と保守党のような《2つの対立する階級利益を代表することが意図されている》二大政党制、(2)アメリカやカナダの主要政党のように、《それぞれ多くの地域的および局地的利益のゆるやかな組織であるような》二大政党制、(3)ほとんどの西ヨーロッパの諸国における、《政府が1つの連合〔政府〕でなければならないような、多くの政党をもつ多党制》を分析している。(1)の場合、より多くの得票を目指し、議会に対して安定的に影響力を発揮し続けるためには、いずれかの階級の利益に、過大に与するような政策を掲げることができない。(2)の場合はその圧力がさらに強くなり、そもそもが「地域=特定少数の人々=他者の理解なしには、議会で自分たちの要求を通すことができない存在」であるゆえ、《各党は、すべての人間に万事を約束するような、したがって非常に漠然とした政綱を提示しなければならない》。(3)の場合は、(2)と状況的に似ているが、この場合は《どの政党も選挙民に対して明確な約束を与えることができない》。なぜなら、《その政党も選挙民もともに、その党が連合政府において不断の妥協をせざるを得ないことを知っているからである》。それゆえ、以上3つのいずれの場合でも、特定集団の利益を強硬に主張する人がいたとしても、「次の選挙」のことを考えれば、自重せざるを得なくなるのである。

さらに、政党政治体制において選挙権が拡大すれば、その分だけ議員は《必然的に選挙民に対してより無責任なものになる》。《選挙権が有産階級に限定されているかぎり、各選挙区における相対的に少数の有権者が、彼らの選出した構成員〔議員〕に対してかなりの影響力、さらには統制を行使することが可能だった》。それは、議員とその支持者に具体的で個人的な接触があったからである。その場合、自分たちの要求を通すことができない議員を見限ると脅せば、それでよかった。しかし、特定の誰のためにというわけではない場合、誰かの支持を失ってもまた別の誰かの支持を得られれば、議員は安心して議席を保持し続けることができる。それゆえ、議員は抽象的な「国民」に対し、無責任になる。

くわえて、政党制は、中央執行部の権力を強めることにもつながった。先程述べたように、議員となる人間が将来の仕事のために気を配らなければならないのは、少数の支持母体となる集団の人々であり、その集団からの支持の有無が「次の選挙」以降の地位を決定する。それゆえ、同じ政党に属していたとしても、各々の議員は個人的に意見を表明する。しかし、選挙権が拡大され、大量の市民を相手にするようになると、まず政党は《議会党の外によく組織された全国的政党を形成することが必要とされた。組織が有効であるためには中央集権的に統制された政党機構が必要となった》。すると、《政党機構によって公認されることが議会に選出される実質的に唯一の方法になった》。そのため、政党≒内閣(影の内閣)の中央執行部は、《党からの除名の脅しと、議会を議員任期満了前に解散して新しい選挙を強制するという脅しをかける権力》を握るようになり、内閣が高度に議会を支配するようになった。

また、この時期、西洋列強の各国では、《既存の財産制度および市場的競争の制度を支持する人々とそれを拒否しそうに見える人々との間の予期された両極分割を弱める諸要素が存在した》。それが、植民地政策と帝国主義である。つまり、19世紀の北アメリカにおいては、《植民地域の膨張と自由土地の存在のために、最大の階級である独立自営農民と他の勤労小所有者》が、自ら生産手段をもつ小ブルジョア階級となることができたため、《市場経済が商業中心地の資本家たちのために不正に操作されないという条件さえあれば、私的資本主義と市場経済を欲した》のである。同様に、19世紀末から20世紀初頭には、《イギリスと西ヨーロッパ諸国のほとんどが没頭していた帝国主義的膨張のおかげで、これらの国の政府は彼らの選挙民に施し物を与えることができたため、根本的改革を求める労働者階級の圧力はそれによって減じられた》。

以上がマクファースンの分析する政党政治の姿である。モデル2Bの思想家たちが理解したように、たしかに《労働者階級が中間階級の指導》に従うことになった。だが、それは民主的な議論と説得によるものではなく、どちらも似たり寄ったりの主張しかしない候補者の中からどちらかを選ばざるを得ない状況に立たされ、結局自分の主張を伝えても、党利党則に縛られた議員しか生まれない現実に冷めきっていたゆえに生じた現象であったのである。このような意味において、モデル2Bの思想家たちは、《活動的個人を市民として発展させ、道徳的な共同社会を促進することに失敗した》。

モデル3 均衡的民主主義

マクファースンは、自由民主主義の3つ目のモデルを「均衡的民主主義」と呼ぶ。このモデルは、1942年にヨーゼフ・シュンペーターが公刊した『資本主義、社会主義、民主主義』の分析によって提示されたモデルであるが、その内容は政治制度のあるべき姿を説いたものではなく、むしろ現状を追認したものである。それは、《道徳的主張を放棄し、そのかわりに、多くの民衆の参加なしで均衡を生み出すエリート間の競争としての民主主義の記述(と正当化)》を与えているにすぎない。マクファースンによれば、均衡的民主主義は本質的に《多元的エリート主義的均衡モデル》と表現することができるという。つまり、《各人が自らの多くの利益によって多くの方向に引っぱられ、今は彼の仲間の1つの集団と一緒になり、次にはまた別の集団と一緒になるというような個人から構成されている社会》という意味で「多元的」であり、《政治過程における主要な役割を、自己選抜的な指導者の集団に割り当てている》点で「エリート主義的」であり、《民主主義的過程を、政治的財の需給間の均衡を維持するシステム》であるから「均衡モデル」であるということである。

現在の均衡的民主主義において、《参加はそれ自体が価値ではないし、より高次の、より社会的な意識をもつような人間を形成するうえで助けとなる価値でさえない》。民主主義の目的は、《あるがままの人民の欲求を登録することであって、人民がそうあり得るかもしれないもの、あるいはそうあることを欲するかもしれないものに貢献することではない》。そこでは、民主主義は単に《ひとつの市場メカニズム》にすぎない。つまり、有権者は選挙の際に、政党から提示される政策(=商品)を吟味し、その中から最も良いと思われるものを選び出しているだけである。有権者の役割は、《政治的争点を決定し、ついでこの決定を履行する代表者たちを選ぶことにあるのではなくて、むしろ決定を行う人々を選出することである》。市民が専制から保護されるのは、定期的な選挙によって《ある政府を別の政府に取り替える能力をもっている》ためであり、ある程度の選択肢が存在するのは、競争的な場が存在するからである。そこでは、考え得る最高の制度や政策が練り上げられるのではなく、有権者=消費者にとっての「費用対効果」の最適化が図られる。つまり、議論に参加し、自分たちにとって最善のものを発見・形成していくのには、非常に多くの労力や時間がかかる。しかも、必ずしも結果は最大限満足できるものとは限らず、誰にとっても中途半端なものになる可能性もある。均衡的民主主義の場合、公務員が国民の要望を聞き取り、意思決定に専門的に従事してくれる。国民は最低限、「投票に行く」というコストを支払うだけで、後は自動的に官僚機構が政策=商品を提供してくれるというわけである。しかし一方で、そうであるからこそ、人々の要望は政府によってコントロールされるとも言える。今や完全な普通選挙が実現されているため、ひとくちに「国民」と言っても各々の立場や抱える事情などは多種多様であり、普通に考えればすべての人々を満足させるような政策を考えることはできない。例えば、経済、社会保障、環境保全、安全保障、外交など、世の中にはさまざまな政治的争点となり得る領域があり、人々はそれぞれの問題に対してさまざまな意見の組み合わせがある。ある人は、「経済成長を最優先として、外交は融和路線で、環境保護はできなくても仕方ない」と考えるかもしれないし、また別の人は、「環境保全こそが最大の課題。また、外交政策としては強硬路線で行くべき」と考えるかもしれない。こうした多様性を目の前にしたとき、《需要のどんな自然的ないし自発的な組合せも、明確な多数の立場を生み出すことは期待され得ないということを前提とすれば、そして民主主義においては、政府は多数の意思を表明すべきだという前提に立てば、〔…〕これらのさまざまな需要から多数意思を生み出す、あるいは、たくさんのさまざまな個人の需要にもっとも適合的な、少なくとも反しないような一組の決定を生み出すような装置が必要である》という結論に至る。1960年代に安全保障が問題となった際、自民党政権は安全保障を一時棚上げし、経済成長路線へと舵をきった。これは、「生活水準の向上」という誰にでも分かりやすいメリットと引き換えに、アメリカとの将来的な安全保障上の協力関係を残しておくことをセットにしたと解釈することができる。均衡的民主主義における政府は、それぞれ矛盾する問題(手厚い福祉と減税など)のバランスを取ったり、あるいはうがった見方をすれば、自分たちの本当の目的を、誰にでも分かりやすい争点の陰に隠して実現する存在と言うことができる。

最良の市場≠最良の民主主義:均衡的民主主義への批判

そのような均衡的民主主義は、たしかに現実を正確に反映した良い記述モデルである。しかし、マクファースンは、このモデルを民主主義のあるべき姿とは考えていない。ポール・ラザースフェルドが明らかにしたように、現実の有権者は議論と説得によって理性的に投票先を決めているのではない。「家族がそこに投票していたから」、「バイト先のお客さんの話を聞いて、その人がそこに投票しそうだったから」というように、確固たる意志ではなしに、ただ「なんとなく」投票しているし、既に態度が固まっている人は、立場の異なる人の意見になど端から耳を傾けようとはしないのである。そういう意味で、現実の人々は発展的民主主義の理想のように、十分に理性を発達させておらず、費用対効果を考えれば、政治参加をすることなく、提供される結果にフリーライドすることが最も合理的ではある。

だが、そうした現実はマクファースンにとって《かなり良い種類の市場》ではあるが、決して民主主義的ではない。均衡的民主主義の問題点は2つある。それが(1)寡占的市場の問題と(2)政治へのアクセス能力の格差の問題である。均衡的民主主義という市場とのアナロジーで民主主義を考える場合、「国民主権」には「消費者主権」と同様の問題が生ずる。人々が、専門家集団によって商品を供給される場合、参入する企業=主体の数が無制限で、消費者が簡単に代替物を選択できるとき(完全競争市場)、消費者と企業との間には均衡的な関係が生じ、消費者はメリットを最大化することができる。しかし、現実の政党政治は、決して完全競争市場ではなく、ごく少数の政党しか存在しない寡占的な市場である。このような場合、政党や政治家は《完全競争制度においてそうしなければならないように、買い手の需要に応える必要はないし、また実際に応えない》。企業(政党)は消費者(国民)の奉仕者であることをやめ、逆に自らの権力を利用して、自らの都合の良い状況をつくり出そうとさえする。「人気商品であるAを売る際には、在庫となったBと抱き合わせでなければ売らない」とか、「技術的には可能だけど、大人の事情があるから『洗剤いらずの洗濯機』は発売しない」と企業が、自らの都合によって人々の需要をコントロールするように、政党もまた自らの利益のために、できる政策をあえて隠したり、また最善策を考える努力を放棄するようになる。マクファースンが《寡占的市場においては、需要は自律的なものではないし、独立の与件ではない》と言うように、消費者の需要は、企業側が提示する条件の範囲内での(選択の)自由であり、意思決定の主導権は消費者の手には存在しない。これが(1)寡占的市場の問題である。

第2に、政治へのアクセス能力の格差の問題がある。たしかに多元主義的な社会において、結社や団体をつくり、そこを通じて意見を主張すれば、政治参加の機会や発言権は保証されるのだから、《政治的エネルギーの投入に比例する報酬ほど公正なものはなく、無関心である市民は、より行動的な市民と同量の報酬をたしかに期待すべきではない》と言うことができるだろう。しかし、実際には政治的無関心は《それぞれの場合に、自分の時間とエネルギーのもっとも利得の多い使用法を政治的参加とその他の事柄のあいだで天秤にかけるような、個人による極大化を目指す決定の結果》でもないし、《すべての個人が、彼が政治に献げる各々の時間が、他の人々が献げる時間と同じ価値を持つ、つまり、政治的市場において同じ購買力を持つことが期待し得る》わけでもない。なぜなら、政治参加の可能性はほとんど《購買力》=経済力によって決まるからである。財力に余裕のある人々は、《選挙運動で政党や候補者を支え、圧力団体を組織し、マス・メディアにおいて空間ないし時間を買う(あるいはマス・メディアの若干を所有する)》ことができる。しかし、都市社会において、原子化された貧困者たちは、そんなことはできない。政治活動や集会のために時間を割いても生活できる人もいれば、1日のうちに1時間ですら、そんなことをせずに働かなければ生活が立ち行かない人もいる。たとえ、街角で声を上げたとしても、強力なマス・メディアの影響力の前には無力である。このように、《その教育の程度と職業のために、効果的な参加のために必要とされる情報を獲得し整理し比較考量することが他の人々にくらべてより困難な人々》は、明らかに不利な立場に立たされる。彼らは政治的有効性感覚を喪失し、無関心を貫くことになる。マクファースンは、《無関心は独立した与件ではく、社会的不平等が政治的無関心を創り出す》と考えるのであり、それはやはり「富める者がより富む」ために有利なゲームのルールである。

モデル4 参加民主主義

均衡的民主主義は、本質的にエリート主義的で民主主義とは相容れない。しかも、1960年代および70年代に石油危機などを原因とするスタグフレーションに、国家は対応しきれなかった。その時代は、彼にすれば《国家によって規制された資本主義の諸帰結に対する幻滅が増大》した時代であり、《モデル3の適切性がますます疑問視》され始めた時代であった。そのときに、新左翼学生運動のスローガンとして提唱されたのが、マクファースン自身も主張する「参加民主主義」である。彼は、この参加民主主義が現実的に実現するためには、1つの前提と2つの条件が必要であると言う。

前提となるのは、「完全な直接民主制ではダメだろう」ということである。政党政治の機能のひとつに、「争点設定機能」というものがある。それは、「国内外で問題となっている現象を分析し、要点を整理し、具体的なかたちの対応策を提示し、その是非を問う」というやり方のことである。たしかにこの方法では、専門家によって恣意的に課題が設定される可能性があるとはいえ、意思決定の効率を考えれば一定の合理性を認めることができる。もし、根本的に「何を問題とすべきか」というところから議論を始めようとすると、そこでも意見の多様性があり、意見をまとめるのが困難になる。また、例えば「発展途上国への支援」が問題になるとして、次に《先進諸国は低開発国に対してどのくらいの、どのような種類の援助を与えるべきか》ということが問題になる。こうした問題は、実際に議論してみれば内容は複雑であり、考え方によって、どのような答えでも合理的になり得るだろう。そして、その結論が本当に正しいのか、効果があるのかを判断できる人は誰もいない。この種の問題は、《民衆の発議による定式化に、ただちにはなじまないものであり、それゆえ問題の定式化は、政府機関に委託されねばならない》と彼は考える。 ここから、マクファースンは、間接民主制が妥当であるとの結論に至る。それでは、民衆の政治参加のために必要な2つの条件とはなんだろうか。

まず1つ目は、J.S.ミルが考えたように、自らを本質的に「消費者」とみなし行動する主体から、《自らを自分自身の潜在能力の行使と開発の行使者・享受者とみなし行動する》主体へと人々の意識を変えていくことである。このような自己意識は、互いに「競争的で敵対的な関係」から人々を解放し、《共同社会意識》をもたらすことになるだろう。人々が議論をするためには、少なくとも敵対的な関係ではいけない。そして、そのためには、階級による社会の分断を減じなければならないから《現在の社会的・経済的な不平等を大いに減じること》が2つ目に必要となる。

だが、この理屈は現実的には《悪循環》に陥ることが予想される。それは、J.S.ミルも陥ったジレンマである。つまり、《共同の政治行動に実際に参加することを通じてのみ、人々は消費者および領有者としての自己意識を超えることができる》のであり、《社会的不平等や意識における事前の変化なしにはより民主主義的な参加を達成し得ない一方、われわれは民主主義的参加の事前の増大なしには社会的不平等や意識における変化を達成し得ない》と考えられる。

このような鶏と卵の問題は、どちらかの前提を強引に成立させてしまうか、2つの要素をじわじわと両立させていく必要がある。この点、彼は人々が《前には勘定しなかった若干のコスト》に対する市民の危機感に注目し、市民の政治参加の芽は既に出つつあると考えている。つまり、《空気、水、地球汚染のコスト》といった環境問題に関する市民運動のことである。また、彼は《職場における決定作成への民主主義的参加を求める運動》にも注目しており、《実際に行われているそのいくつかの例は、前途有望である》との期待を示している。

参加民主主義モデルの検討

そのような市民の政治参加を一般化し、参加民主主義という政治のあり方を定着させるためには、どのようなことが必要だろうか。マクファースンは、《基底においては直接民主主義を有し、その上のすべてのレヴェルにおいては代表民主主義を持つ、ピラミッド型の体制》が現実的であると考えている。そのモデルにおいては、《地域社会ないしは工場レヴェルにおける直接民主主義―実際の、面と面とむかいあっての討論と、合意ないし多数決による決定―と、その上のより包括的レヴェル、たとえば、自治市、行政区、郡区における地方議会を構成する代議員の選出〔…〕。代議員たちは、地方議会レヴェルで理にかなって民主的な決定を行えるよう、彼らを選んだ人々の声を十分に聞き、その人々に責任を負わねばならない》。だが、これは現状では、「階級分割によって阻害されてしまっている」と彼は言う。つまり、《資本主義的な諸関係は敵対的な諸階級を生産し再生産する》からである。この関係を根本的に解消するためには、《国民所得のよりいっそうの福祉国家的再配分では十分ではない》と彼は言うが、それ以上具体的な方策を彼は示してはいない。ただ、《完全に民主主義的な社会は、社会の蓄積資本およびその他の自然資源の使用法に対する民主主義的な政治統制を必要とする。〔…〕(福祉国家的再配分が)階級間の所得の不平等をどこまで減じえようとも、それは階級間の権力の不平等には触れえない》と言っていることから、まさに、「職場レヴェルでの政治参加」によって、雇用者と労働者の対等な権力関係を構築していくべきであると考えていると推測される。

もっとも、彼にとって最も重要な要素は、政党制との関係である。先に分析したように、現行の政党制は、党利党則による議員の支配を可能にしており、それが「国民不在の政治」を許す原因ともなっている。この政党制という制度との両立は可能なのだろうか。結論として、それは《おそらく避けることができないばかりではない。それは積極的に望ましいことでもあり得る》とするのが彼の考えである。彼の想定するように、まずさまざまな場での「参加」があって、階級分割が解消されたとしても《資源の全面的配分とか、環境および都市計画とか、人口および移民政策とか、外交政策、軍事政策とかの争点》はいずれにしても、政治的争点になり得る。その際、各意見の代表者の集まりとしての政党はやはり必要になってくる。彼が批判するは、政党制の「階級対立的な争点をウヤムヤにする機能」であって、階級対立のない多元主義的な社会であれば、政党は存在してもかまわないと考えているのである。

「生」の源泉としての「参加」

以上に見てきたように、本書は自由民主主義モデルの変遷と現代においてあるべき自由民主主義の姿を提示する書物であった。本書でマクファースンが主張した「参加」というキーワードは、「政治」という枠組みを超えてより広い意味でとらえれば、まさに「専門家システム」に対する批判であり、疎外されることのない「人間性」の回復を訴える思想であると言うことができる。そのような意味で言えば、イヴァン・イリイチの「医療、学校、交通などの分野における現代文明」批判やエーリッヒ・フロムの「資本主義社会による人間疎外」批判、クリストファー・アレグザンダーの「住人なき都市・建築生産」批判などに通じるものがある。冒頭に述べたように、民主主義とは「その社会を構成するすべての人民が、共同体としての意思決定に参加できるようにすることを目指す体制」のことである。たしかに、普通選挙制の実現によって、市民は形式的に意志を表明する権利が保証されてきたわけだが、彼らにとってそれだけでは十分ではない。「社会の進歩」を考えるのであれば、ある段階の課題をクリアし、それが「当たり前」となれば、次の段階へ進むために、また新たな課題を解決するため、既存の制度というものを変革していかなければならない。現時点において、その「新たな課題」にあたるのが、「専門家による知識と情報の独占」の問題である。情報や知識は、人間の思考と判断にとって決定的とも言えるくらい重要なものであるが、現在の官僚制的な意思決定システムにおいては、扱うべき問題の複雑化や情報の氾濫によって、結局のところ、特定の専門家が専門的に情報を処理し、専門家同士の連携によって問題解決における効率化が図られている。しかし、原発事故に象徴されるような「ムラ社会」の形成は、成員の責任感と良心を麻痺させ、閉鎖的な共同体の利益を中心に据えるよう、専門家を堕落させていく。アンソニー・ギデンズが「民主主義の民主化」という概念を用いるとき、それは、このような秘密主義と情報統制による国民のコントロールを打ち壊し、民衆が合理的な判断に必要な情報へのアクセス権を獲得してしかるべしということを意味している。それは、近代化の果てなき追求の結果として現れた、「再帰的近代化としての現在」がもつ歪であると言える。

しかし、おりしも現在は、「NGOや市民団体、国連機関といった集団が国際政治に与える影響力」が高まっている時代である。ウルリッヒ・ベックはこうした勢力のことを「サブ政治」と呼んでいるが、このサブ政治の拡大こそ、マクファースンの参加民主主義の実践にほかならない。こうしたモデルというものは、あくまでも「理念型」であり、新たなモデルの登場とともに、以前のモデルが消滅してしまうわけではない。ただ、その比率が変化するだけである。現状、強固に循環している社会制度を変革することは、非常な困難を伴う。マクファースンが言うように、雇用者‐労働者の対等な権力関係を確立し、賃金=生活水準を向上させ、ワーク・ライフ・バランスを正常化しなければ、人々は仕事の疲れやストレスに負けて、余暇に政治参加する気にはならないだろう。また現在、都市において、貧困者たちは原子化してしまっており、集結することが困難な状況に陥っている。このような「結集することのできない周辺の人々」を放置していれば、マクファースンが暗に前提としている「多元主義」に対する典型的な批判に応えることはできない。私が思うに、政治参加の原動力となるのは、「現状に対する強い不満や危機感」といった情動である(それはときに、「空っぽな自分」を埋めるための「八つ当たり」かもしれない)。社会の全員がそうした原動力をもっていれば、どこかで自分の思い通りにならない部分があるわけだから、人々はエミール・デュルケームの言うような「アノミー状態」に陥る。そう考えれば、人々はすべての政治的問題に関心をもつ必要はないし、また現実にどうしても「興味のない分野」が存在する以上、無理にそうすることはできない。マクファースンもおそらく、自分の興味・関心に沿って、「変えなければならない」と思う現実に対してのみ、学習し、情報にアクセスに、その成果を行動や議論に結びつけていけばよいと考えているのではないだろうか。マクファースンたちが理想とする世界において、政治とはこの上ない「生」の発露の場であり、人間的な充実感の源泉でもある。そして、それを現状から実現していくのは、ほかならぬ「参加」そのものである。

参考文献

  • C.B.マクファースン著『自由民主主義は生き残れるか』,田口富久治 訳,岩波書店, 1978.09(原書:1976),全202ページ

自己紹介

自分の写真

yama

大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

このブログを検索

QooQ