紹介文
「動物と戯れるように、小さな淫らな猿でもあるかのように、人びとは子供と戯れた」、「子供が死亡した場合、すぐに別の子供が代りに生れてこようと受けとられていた」、「学級には10歳の子供と20歳の青年とが一緒に通っていた」…。こんな感覚は、現代から見ればにわかには信じがたい。しかし、中世においてそれはなんら疑問視されず、むしろ非常に自然なことであった。本書はそんな、我々とはまるで違う中世の習俗が如何にして現代かくあるような、「子供」という存在を核にした「家族のあり方」と「教育制度」が生まれてきたのかということを分析する。そこでは、師弟制度や、モラリストたちの社会的・宗教的な改革、公的生活と私的生活の分離、そして学校での教育機関の延長といったことが、次々と人々に影響を与えていった。そして近現代に入り、それまでには見られなかったある人生の時期が確立され、人々は新しい悩みを抱えるのであった…。
あまりに当然な近代的な教育制度と家族観の歴史
本書のテーマは、「子供」という存在を核にした「家族のあり方」と「教育制度」の変遷についてである。近代を通過し、現代を生きる我々にとって、現在かくあるような教育制度と家族観はあまりにも日常に溶け込みすぎていて、逆にその特徴が分からない。しかし、アリエスによればこうしたものは紆余曲折を経た後、近代になってようやく確立されたものにすぎない。つまり、家族観については、「ひとつの家庭に1人から、多くても3人くらいまでの少数の子供がいて、家族の関心は専ら子供の成長と教育に注がれる」という家族のあり方。教育制度については、「だいたい7歳前後で小学校に入学し、12歳くらいで中学校、15歳で高校、その後は多くの人が18歳頃に大学へ進学する」、「基本的に、初等・中等教育では入学できる年齢に制限があり、それを超えてしまうと入学が認められない」、「ひとつのクラスは30~40人くらいに分けられ、各学級が固有の教室を有している」、「年齢別に学年が分けられ、ほぼすべての子供が1年間に1学年ずつ進級する」、「各学年では、段階を分けたプログラムによって易しいものから徐々に難易度が上がっていき、より高度とされる学問は、後の方でようやく教えられることになる」、「初等・中等教育の先生は、知識の伝達だけではなく、子供たちをよく管理し、人格形成にも寄与することが求められる」、「初等教育においては、読み方、書き方、計算など、いかなる職業につき、いかなる身分に属そうと人生をそれなりに渡っていくために知っていることが不可欠なものが教えられる」、「およそ小学校の間が子供期前期、中学校の段階で子供期後期、高校生になると思春期、大学生~社会人になるまでは青年期という発達区分に分類される」、「基本的には、初等~高等教育を受けている間、子供たちは社会に出ることなく、ひたすら勉学に勤しんで、社会にでる準備をして、社会に出てから実地で職業的アイデンティティを形成していく」といったものである。では、ここから、近代に至るまでの流れを見ていくことにしよう。なお、本書は主に中世頃~近代までが分析の対象となっている。
中世(15世紀頃まで)
子供:侮られ、虐げられた「小さな大人」
中世において、子供は非常に侮られ、現代の感覚からすれば大事にされてはいなかった。本書の中の表現を用いれば、「子供はたんに『赤ん坊』、『鼻たれ小僧』でしかなく、感情のままに戯れの対象となるおかしな、かわいらしい小さな人間にすぎない。〔…〕ちょうど動物と戯れるように、小さな淫らな猿でもあるかのように、人びとは子供と戯れた」。「子供期に相当する期間は、『小さな大人』がひとりで自分の用を足すにはいたらない期間、最もか弱い状態で過す期間」であった。
それどころか、とりわけ女性にとって子供の存在はある意味で疎ましく思われてもいた。というのも、この頃はまだ避妊が実践されておらず、キリスト教的な道徳が強い影響力をもっていたため、性交渉をした場合、中絶や堕胎はできなかった。そのため、よほどの禁欲をしない限り毎年のように子供が生まれてきて、上流階級でも下流階級でも、9人や10人子供がいることは当たり前だったからである。子供というのは基本的に綿密に目をかけていないといけない存在であるが、何人もの子供の面倒を同時に見なければならないとなるとさすがに誰であってもしんどいものだ。だから、極端な場合においては、「十分な存在をほとんどあたえられるに至っていない嬰児を、自然を装った仕方で葬る」ことすら行われていた。「それは教会、国家の倫理により否認されている道徳的でないことの一部ではあるが、意思と忘却と不手際との境界に位置するようななかば意識されることもないところで、ひそかに行われていたし、あえて行っても恥ずべきことともみなされなかった」。「だから、子供の生命はちょうど今日の胎児の生命と同じようなあいまいさのうちで考えられていた」のである。こうした極端な例でなくとも「子供が死亡したばあい、一部の人びとは悲嘆に暮れはしたが、一般的には子供にたいしてあまり保護はなされず、すぐに別の子供が代りに生れてこようと受けとられていた」。
なぜこれほどまでに子供は侮られ、虐げられていたのであろうか?その理由を理解するためには当然ながら、当時のヨーロッパ社会の価値観や貴賎さまざまな身分の家族が置かれていた状況を知る必要がある。その際にキーワードとなるのが、(1)師弟制度による社会化と(2)人々にとっての「家」や「公共」の重要性である。
師弟制度:子供から直接大人へ
中世からおよそ17世紀頃まで、子供は如何に社会化(職業を営む知識やノウハウを覚える、処世術を身につけるなど)されていたかといえば、それはひとえに大人の社会の中で揉まれることによってであった。基本的に当時の子供たちは、生まれてから5~6年間を家庭で過ごした後は、子供はなんらの移行期もなく、大人たちの間に溶けこんでいった。それは、軍人や法律家、召使い、職人などどんな職業を選択することになろうとも、まずは見習いとして職業の現場に入り、日々の仕事をこなしていく中で一人前の知識と技術を身につけていくのである。そういう、子供ないし若い大人が大人たちと混在する徒弟修業の場において、「子供期という観念は従属・依存の観念に結びつけられていた。依存から、少なくとも従属関係の最低の位置から放け出ることでしか、子供期から脱出することはできなかった」。しかし、子供はたしかに、未熟で役に立たない存在ではあったが、同時にそれは、大人たちが子供のことを、「やがて成長し、自分たちの世界に完全に溶け込むであろう仲間」とみなしているということでもあった。だからこそ、「身体的に大人とみなされるとすぐに、できる限り早い時期から子供は大人たちと一緒にされ、人が働いているところならどこにでも、また人が遊んでいるところならどこにでも、芳しくない評判の居酒屋の中までも、子供たちは大人たちと混じり、仕事や遊びを共にした。〔…〕圧倒的多数派は遊びの共有について道徳的には無関心であった」。このような状況では、「子供期を性的成熟によって上限を区切るという思考法は見られず」、結婚で身をかためれば、なおさら立派な大人とみなされた。
公共の重要性①:老若男女、貴賎の別なき混濁
こうした(1)師弟制度による社会化と、互いに支えあう関係にあった習俗が(2)人々にとっての「家」や「公共」の重要性である。この時代において、「家族は、家産の維持、職業を代々伝えていくこと、男性やとくに女性のばあい孤立しては生存していけない世界においての日常的な相互扶助、そして危機状況において名誉と生命を防衛することなど、はっきり感知された使命を有していた」。たしかに、「それは愛情が存在していなかったというのではなく、逆に共同の生活により創り出され支えられる愛の感情がはっきりと認めることができる」。しかし、夫婦間・親子間の感情は必要不可欠な要素ではなかった。なぜなら、「感情の交流や社会的なコミュニケーションは家庭の外にあって、隣人、友人、親方や奉公人、子供と老人、女性や男性から構成されているきわめて濃密かつ熱い「環境」によって保証されていたのであり、そこで愛情関係をもつことにはたいした拘束もなかったから」である。「集団生活の活動は何者にも孤独とプライバシーの時間を残すことなくあらゆる年代や身分の者たちを同じ流れの中に引きずりこんでいた。こうしたあまりに濃密な、あまりに集合的な生活にあっては、私的生活のための場所はなかった。こうした状況のもとで、子供は身分にかかわらず、ごく早期に自分の生れた家族のもとを離れていたのであり、後に大人になってそこに戻ることがあったにしても、それも常にそうだとは限らなかったのである。したがって、この時代に家族は、親子の間で深い実存的な感情を培うことはできなかった」。
このように、大人と子供が入り混じり、さまざまな人々同士の対面的なコミュニケーションによって人々の感情生活が満たされていた時代にあっては、「高い身分の者、あるいは富裕者は貧民と隣りあわせでいたし、悪と徳、醜閲と献身も一緒くたに存在していた。騒々しきにもかかわらず、この雑多な混濁は人を驚かすことはなかった。それは自然な所与として受け容れることが相応しいものであるこの世界の多様さに属していた」。
公共の重要性②:生命と財産=家名・姓名の維持・繁栄と長子相続
それが富裕者の場合、なによりも重要なのは、「家産の繁栄や家名の名誉を守り、姓名を伝える」ことであり、情緒的な家族の観念は、古い系族関係がよびおこすものによって支えられていた。しかし、13世紀に、系族の連帯が衰退し、反対に富の流動性が大きくなることによって脅かされ、家産の統合がもはや共有制度によっては保護されなくなり、細分化の危険が生じたとき、その危険を避けるために長子相続の慣行が普及した(中世末から17世紀まで家族結合の根底に見出される)。それゆえ、10人近くいる次男以下の子供たちは、基本的に大切にされることもなく、一般的な人々と同じく保護すべき期間を過ぎれば世間に放り出された。
学校の主な目的:実務的なラテン語の習得
中世初期における、学校の起源とされるものは世俗の人々に対して開放されてはおらず、中世の学校は髪を剃り落した人々、聖職者、宗教関係者たちのためのものであった。そこでは基本的に聖書や古代の人々の著した書物を読みこなすために必要なラテン語の習得が目指されていた。こうしたラテン語や神学、法学の勉強を行う機関は自由学問の学校と呼ばれる。だが、自由学問はそれ自身では不十分なものであり、他の教育への準備を行うにすぎないとされていた。真に実践的な学問の習得は、基本的に聖職者になる人々がより上級の学術研究・教育機関である大学(上級学部)で行っていた。しかし、時代が進むにつれて、神学と法学とが専門分化し上級学部の管轄となったため、神学はもはや自由学問の学校では教えられなくなった。そしてその後「詩篇集と聖歌の教育を主限とした中世の学校に、「形式科」の3学(ラテン語文法、修辞学、論理学〉、「実質科」の四学(幾何学、算術、天文学、音楽)が加えられ、最後に神学教育によって完全なものとさせられることになる(ここでいう神学とは聖書と教会法の研究のことである)」。しかし、そこで研究・教授される内容はあくまでもそれだけであって、文学と自然科学の高等教育は存在していなかった。「神学、法学、医学の上級学部は存在していたが、ヘレニスム世界に存在していた本質的にいって自然科学、修辞学、哲学などの高等教育に比しうるもの、あるいは19世紀初頭にナポレオン的大学体制とともに誕生する大学の文学部、理学部に相当するものは、この時代のフランスには存在していなかった」。
やや冗長となったが、ようするに中世初期の時代には、聖職者や宗教関係者を目指す人全員が通う基礎コースの「自由学問の学校」と、その中でも特にエリートの人々だけが進むことになる応用・実践コースの「大学(上級学部)」という2種類の学校が存在していたということである。しかし、大多数の人は上級学校には進まず、基本的には自由学部でラテン語を習得すればそれで満足であった。また、「このラテン語学校には、道徳的かつ社会的な教育の役割をあたえようとは考えられておらず、あくまでも聖職者に必要な知識をあたえるための一種の実務学校」であった。だから、必ずしもすべての人が学校に通ったわけではないし、「その生徒が到達したいと欲している地位や身分で必要とされている程度のラテン語の使用が可能となれば、その生徒にとって学校の効用はなくなる。〔…〕貧乏貴族、あるいは職人などの小市民は必要に迫られて、あるいは子供たちにラテン語の知識をわずかにあたえることに幸福を感じた」。
ひとつの空間にごたまぜにされる受講者たち
このように学校の目的が一種の実務教育であり、また師弟制度による子供の社会科が当然のこととされ、大人と子供がさまざまな場で空間を共にすることが自然だったがゆえに、「中世の学校はなんら子供を保護するなどという配慮はなしに、子供、青年、大人など、早すぎるとか遅すぎるとすることなく同じように、教壇の下へ集めてきた。〔…〕さまざまな年齢のものが各々の学級の内部に存在していて、学級には10歳から13歳ぐらいの子供と15歳から20歳の青年とが一緒に通っていた。〔…〕15世紀の初頭には、助手をひとりもっているばあい、文法学教師とその助手とは、年齢の相違にもかかわらず完全に一緒に混濁されている数十人ないし数百人の生徒たちに、ひとつの部屋のなかで反復学習させていた」。
そもそもこの時代には、まだひとつの大きな集約的校舎は存在していなかった。学校が誕生した最初期にあっては、教会の関係者が教師の役割を担い、直接ラテン語などを教えていたが、やがて需要が増大するにつれて、教会の認可を受けた一般の教育者による教育も認めるようになった。そうした状況にあって、学校制度の中心には、ジェスイット会土たちによって建設された、「同信生徒」のようにごく稀な金持の息子たちだけを対象とした(寄宿舎完備の)「学院」という施設があった。しかし、一方で一般の教育者たちによる教育も行われており、その際、基本的に教師は「教会の回廊に寄生し屋台を広げている商人たちを退去させたあとの場所か、教会堂のなか、あるいは教会の戸口」を居場所として、各自が自由に教えていた。さらに「もっと後になって、認可された学校の数が増大してくると、十分な資力を欠いている教師は街角を居場所とすることで満足した」。ようするに、この時代の学校には、中央のエリート養成のための「学院」と周辺にある、今で言う個人経営の小さな塾のようなかたちの教室の2種類があり、それらが併存していたのである。
ごたまぜにされた理由①:生涯学習としての人文科学
以上のような年齢を考慮しない混濁にはいくつかの理由がある。まず1つ目に挙げられるのが、「教育と教養とを閃一のものとして考え、教育を人生のすべてにわたる期間にまで拡大し、いかなる年齢のときに教育をうけるかを特定化することがなかった」ということがある。この時代での、教育(すべき)内容を決めていたのは、聖職者の中でも特に「人文主義者」と呼ばれる人々であった。人文主義者たちにとって、自由学部で教えられる内容は「人生の期間全体に広がる人間の教養」であり、「人文主義者に特有の学問の観念に従うと、それは決して青少年のためのものでなく、人生のもっと後の時期にいたるまで、学校を超えての教養として、さらに学ばれるものなのである」。だから、キリスト教的教養を身につけるのに早すぎるも遅すぎるもなく、人は可能なときに学校へ行ったし、また学校の側も希望者たちを分け隔てなく受け入れた。
ごたまぜにされた理由②:師弟制度と生徒たちの居住環境
年齢を考慮しない混濁が許容されていた理由の2つ目は、「事実上、年齢を重ねてからはじめて入学するのも仕方がなかったから」である。この時代は、基本的に子供の社会化は師弟制度による実地の経験が担っていた。あくまでもラテン語学校などは、よりハイレベルの教養に過ぎなかった。だからこそ、ある意味義務ともいえる見習い修行を終えてから学校に入ることは別段不自然なことではなかった。それゆえに、「16歳になるまで職人の見習修業のなかで過したことはかれのその後の生涯になんら関係しない。それというのもこの年齢になって、かれは学院での初歩から人生をやり直すことができたからである」。
また、長男以外の子供たちは早い時期から世間に放り出されて、あまり手をかけられなかった時代にあっては、経済的な面からいってもそれは非常に合理的であった。当時、お金持ちの人々の間でも「彼らの両親の家に住んでいた生徒は極めて稀で、他の生徒たちは下宿か、教師の家か、下級聖職者、あるいは司教座聖堂参事会員の家に、徒弟修業契約とよく似た契約に定められたところに従って生活していた」。だが、職人や労働者の息子たちといった「大部分の生徒たちは、それが可能であるばあい、都市住民から部屋を借り、一室に数人で住んでいた。そしてここでもまた成人の学生が幼い生徒と一緒に過していた」。それは、「息子たちが家族をはなれた都市で、市の立つ日にときどき持ってこられるわずかな食物を得るほかは、息子たちがひとりで生活を切り盛りしていける年齢になるまで待たなければならなかった」からであり、「もっと幼い年齢であれば、誰かが一緒に住みよりよく面倒を見、したがって高価につく下宿が必要であった」からである。だから、「子供たちは年齢によって分離されるどころか、彼らの関係は子供たちを成人しているものと密接に近づける入門の儀礼の伝統によって規制されていたのである」。
こうした理由があったからこそ、人々は「彼らの息子たちをもっと早い時期に学院に入れさせるのを妨げていた」し、「人々の習俗は学校生活を遅ればせに過すのになんら抵抗を示さなかったのである」。
学問内部の段階の欠如と難易性の異なる学問の混濁
では、基本的に聖書や古典を読みこなすために必要なラテン語の習得が目指されていた学校では、具体的にどのように人々は教育されていたのだろうか。その答えは、最もストレートかつシンプルに、「学ぶべき文献を理解できるようになるまで反復して読み続ける」という方法だった。それは(1)筆写書物の稀少さゆえに、主として記憶に頼ることが必要とされ、くどくどと反復し習得することを余儀なくされたから、(2)生涯学習であるならば、学習すべき期限などなかろうからである。だから、「最も容易で近づきやすい科目から始めて、難易性にしたがって学業上の科目を配列するという、段階化されたプログラムに従う教育という思想は、中世の学校には存在していなかった」。実際に、「15世紀以来今日まで、初等教育のうちに含まれるものと考えているラテン語文法は、ひとつの学問であり、現在の文献学に対応するようなきわめて難解な学問であった。ラテン語における性・数・格による語尾変化、不規則変化、比較級、冠詞と性、過去時制、目標表示的動名詞、欠如および変格動詞、動認の四形、他動詞、再帰動詞、相互動詞の構成、短形と長形、強調形、詞姿をその内容としていた」。ようするに、ラテン語の文法は紙の上で学ぶべきものではなく、基本的に文法などは気にせずに、文献を丸暗記して暗唱できるようになることが求められたということである。
また、「諸学問はその内容に従って分類されていたけれど、学業期間のうちで継起的に学ぶように配置されていたわけではなく、自由学問の諸学科のうちでは、少なくとも文法学と論理学とのあいだでは、上下関係は存在していなかった」。だから、「古参学生と新来の生徒とは学んでいる教科内容のちがいで区分されることはなく(どちらの学生も同一教科を学ぶのだから)、同一教科が幾度反復して学習されたかの回数で区別されるのであった〔…〕『このような学間は、規則に定められることはより少なく、諸々の学級にふり分けられることもないもの』なのである」。
教師の役割=同輩の中の人生における先輩
このような状況の中で、教師たちは「すでに13世紀にみられるのと同様に、名声の高い学者=教師たちは、あるものは文法学、他のものは修辞学、別の教師は弁証術と論理学、さらに他の教師は「実質科」四学というように、学問分野ごとに専門分化していた。だが、どこでも完全にこの分化がみられたわけではない。一般には同一の教師が、得手とし深い造詣を有する学問をもっていたにせよ、(ちょうど今日の小学校教師が全教科を教えるのと同様に)同じ教師が自由学問の全科目を、少なくとも文法学、論理学、「実質科」四学を教えるようになった」。しかし、当時の教師たちに求められていたのはあくまでも、大人の世界(この場合は聖職者として)の先輩として、後輩に知識の伝達することであり、例えば子供のしつけを担当するということはなかった。「ときとして補助教師により手助けされているにすぎず、たったひとつの教室を自由にしているにすぎないこの孤立した教師は、とても生徒たちの日常生活をコントロールするような立場にはなかった。生徒たちは授業が終ってしまえば、教師の権威からは逃れ去る。だから、学校の起源において生徒たちの知っていたのは、教師のこの権威であり、教室での教師の『力』だけであった」。
そして、「人文主義者たちは人生の期間全体に広がる人間の教養ということに執着するにとどまっていて、子供たちだけを対象とする教育にはほとんど関心を払わなかった。彼らは世俗の学校にたいして、入門課程を意味していた「ドナトクス」程度以上のすべての教育を禁止することで満足していた。難易性の異なる学間を同時に教え、またいく度もくりかえし聴講する中世の方式は、たえざる混漏をひきおこし、年齢ごとにあるいは能力ごとのカテゴリーに編成しようというすべての試みを禁じたのであった」。
アンシャン・レジーム期(16~18世紀前半頃まで)
貴族たちによる要求の拡大:より広い職能教育の必要性
しかし、およそ17世紀末葉以来から最終的かつ決定的な仕方で、習俗にかなり重大な変化が生じた。中世における人文主義者の意向を中心とした学校は、今まで見てきたように「学院は聖職者や人文主義者たちのための長期にわたる勉学のためのものと理解されており、人文主義のすべての知識に通じることを理想」としていた。しかし、それゆえにほんのわずかなエリートになるつもりのない「16世紀に青年たちは、完全な学校の学業課程、あるいは多くのばあい短縮されたそれを過ごした後で、法曹界、教会、医学へ向うのでないかぎり、大学へ行っても仕方なかった。〔…〕17世紀の中頃では法曹界あるいは聖職者の世界へ進もうとする人間だけが、最上級まで、つまり哲学級の第2年・第3年までの授業を受けたが(この学級は今日の大学の学部段階に対応している)、。それ以外の生徒は、工芸家になるにせよ軍人になるにせよ、これ以前に学業をやめていた」。しかし、それゆえに上級学校は衰退し、「法学部はその後退廃していた。それ以外の状況としては、青年たちは見習者として、軍隊、大貴族の執務所、あるいは商人のところに入っていった。学院の外には、部分的に類落の目立つ専門学部の他には全く存在せず、見習修業しかなかったのである」。
このような「一部のエリートしか通わないような上級学部を準備するための学校の、オマケのような存在」でしかなかった、ブルジョア家族や法服貴族、教会関係者の人々が不満を漏らし、「学業を職種や進路にもっとよく適合させるという」考えを表明するようになった。すなわち、ベルニの回顧録にある次のような考えである。「例えば商人の子供に対してはギリシャ語やラテン語の詩文をつづることを教えるよりも、算術を教える方がよいのでないだろうか。私は各々の子供が、その身分に従い、またかれが社会においてみたすべき仕事と関係あるような仕方で、育てられることを望むものである。すべての人間に共通していなければならぬ教育としては、それにより救済さるべき宗教、自分自身と他人の財産を守るための法律の学習、それによって健康さを保てようと期待しうる医学(今日ではむしろ衛生学といわれよう)の3つのものしか考えられない」。これは、「ブルジョワや貴族に割りあてられている職業につくことによって上流階級に入っていくという欲望を、教育と学校とによって達成しようとする」考えが出てきたことを示している。「ラテン語の学業課程は、それより早い時期からそれぞれの職業や身分の見習修業に入れられている子供に対し遅れをとらせ、したがってはやく見習をすませたこれら競争相手の少年たちより不利な立場におかせると、しだいに考えられるようになったため、多くの若い貴族は学院に不満を示し、アカデミーを無視し、それらの修了を待つことなく、地方の軍隊に参加した」。実際に、「ルイ14世の治世の終りごろ、14歳の中尉が軍隊には存在した。シュヴェールは11歳で入営している。士官たちおよび17世紀の人間に共通していることだが、この早熟は軍隊に入る人間のもとではなお長期にわたって存続する。」。
また、「16世紀の後半、教養のうちにかぞえられる主要言語としてのイタリア語やスペイン語のみならず、ドイツ語までもが求められた(ドイツ語が求められたのは、傭兵たちはドイツ語圏の諸国から募集されたためであり、また未来の将校はこの言語を話せることに対する実利的関心によるのだろうと私は想像している)。外国語の他には、いささか野心をもった宮廷人にとって同様軍人にも、地理と近代史の知識が要ったし、さらに数学も、この時代の表現でいう「築城術」も、戦争がしだいに科学的になってきた時代には、必要であった」。当時そのような知識や教養は、子供たちを外国へ旅行させることによって習得されていたが、「このような外国への旅行は非常に高くつき、貴族の収入やいつでも使える手元金が滅小していく時代に、逆にどんどん発展し増大していくラテン語教育以外の実践的な教育の必要を、貴族は満たしていくことができなくなっていった」。「17世紀において子供は、気晴しの主人公でなければ、社会にあって家族の地位の向上を図るための結婚ならびに職業上の投機の道具であった」。
学院の範疇に入らなかった女性たち:結婚というライフコース
「17世紀には学校生活はあるひとつの社会階級に独占されていなかったとしても、それは男性によって独占されたものであった。女性たちのもとにおいてもまた、早熟と非常に短期間の子供期という慣習は、中世から17世紀に至るまで変化しないままであった。家事の修業の他には、少女たちは何らうけとることがなかった。つまり、いかなる教育もあたえられなかったのである。少年たちが学院に行く家庭においても、彼女たちはどこにも所属しなかった」。なぜなら、この時代の女性たちは、結婚することを求められていたからだ。この時代では、「大抵のばあい婚約は4歳から6歳のときに行われ、10歳を過きると、少女たちはすでに一人前の若い女性であった」。だから彼女たちには実社会で必要な知識や技能ではなく、主に家政のそれを習得させることが求められた。それゆえ、「女性はごく大ざっぱな言葉のつづりさえ書けないし、手紙の形式さえも知っていない。〔…〕人々は少女たちについては、無知で慎みのない母親のふるまいに盲目的に従うよう放置しておくのを、当然のことのように考えている」。
子供:か弱く、しかし純粋な存在
また、このアンシャン・レジーム期においては、「ジェスイット会士、オラトリオ会土、それにジャンセニストたち」といった「理性と知をそなえた人々」によって、子供の認識に対して変化がもたらされた。それは、「子供の純粋性と無力さ」についての主張である。もともと彼らモラリストたちは、子供と大人が共有する遊びのうちいくつかのものに対し、道徳的な意味で批判していた。やがて彼らは、そうした師弟制度に根本的とも言える「子供と大人の混濁」について疑問を呈し始め、「元来無垢でか弱き性質をもっている子供たちが、大人の悪い習俗によって汚染されていく」という見解を示すようになった。そしてそれゆえに、「子供を保護し防衛するのは大人の義務という感覚から、その著作や趣意書は、彼ら修道会土たちが魂を担当していること、彼らが神の前での子供たちの魂と、なによりも子供たちの身体とに責任を有していることを、親たちに理解させようとしていた」。したがって、彼らは「子供は人生に入っていくためには十分成熟していないこと、子供を大人たちと一緒にし混治するに先立って、ある特殊な体制のもとに、世間から隔離された体制のもとに置いておく必要があること」を主張し、悪い習俗から隔離された環境で、キリスト教的道徳を身につけ、良い習俗と理性を育んでいく必要があると訴えた。「彼らの教育は中世の説教者や托鉢修道会士たちのような大人に対してなされるものではもはやなくて、本質的に子供と青年にたいしなされるものとなった」のである。
学寮普及の萌芽―学寮の評判
そういったモラリストたちの主張が社会的影響力を及ぼし始めていた頃、学院ではその理念を実現するためにおあつらえ向きの現象が起きていた。それが、学寮の効用である。元々、学寮=寄宿舎は、中世においてはあまりにも遠方に実家があるために、通ってくることができない少数のお金持ちの人々のために造られた施設であったが、その後貧しい人や成績が優秀な「給付生」も入居を許可されるようになっていた。そこで生徒たちは共同生活をするわけだが、ある時、そこで生活していた者は、とりわけキリスト教的道徳をよく理解し、内面化していることが発見された。とはいえ、この最初の段階では社会的影響力を増大し、自分たちの理想とする道徳を普及するために、「ジェスイット会士たちは決して彼らの寮学生の数を増大させようとはしなかった」。なぜなら、「通学生の制度が彼らの理想だった」からである。
そもそも、「アンシャン・レジーム期の生活条件において、家族とともに生活しているカテゴリーの生徒は、ごく少数の部分しか代表していない。生徒たちの人口はたんに学校が位置している都市からのみ編入されてくるのでなく、反対に回舎にいる人々、多くは夕方に自分の家に戻るにはあまりに遠いか、歩いて往復するには一日では不十分であるようなところに住んでいる村人、城館の住人、農民、聖職者、郷紳といった人々から構成されていたのである。したがって多くの生徒たちは、家族から遠く離れて、あるいは学院の構内に寄宿生、小使、召使などとして、あるいは通学生、「通いの燕」外来生として都市住民の家に住んでいた」。
また、「社会の全般的な風土も、生徒たちを完全に寮に収容することは心よく思わなかったと考えられる。食糧岨、運搬、健康などの条件は、あまりに多数の生徒たちをひと所に集中させ、全体的に面倒をみることと馴染まなかった。疫病や騒動、傷害さわぎの危険ということも小さくみられではならない。というのも、年齢もさまざまなこれら生徒たちは、粗野で乱暴で、すぐ感情に走る少年たちであったからである」。
子供の不平等への異議、あるいは道徳的告発
しかし、世間では既にモラリストたちによって、「他の兄弟を犠牲にして子供たちのうちのひとり、通常は長男だけを特別扱いすることを許していた旧い習俗」の非道徳性、不平等性が糾弾し始められていた。『子供のキリスト教教育論』は、「出生順位によって、あるいは個人の資質によって、父母たちに一層気に入られている子供たちに家産を継がせることしか考慮されていないのである。親たちは、これら一部の子供たちが家族の将来によく役立つがゆえに『気に入っている』のである。人々は、自分の子供たち全体のあいだで平等に財産を共有させるならば、家族の繁栄と栄光を望み通りに高められないのではないかと懸念している」と言っている。「事実、17世紀後半以降になると、モラリストの教育者たちはこの慣行の正統性に異議を申し立てるのである。それは平等の原則を損ない、家族感情のうちにある権利の平等という新しい意識を嫌うものであるし、またそれは聖職禄の世俗的慣行にともなうものであり、これらモラリストたちは、宗教上の改革者たちであったからである」。こうした状況下において、子供をもつ貴族の親たちは、あまり子供を差別し「お前には財産はやらん。自分のことは、見習い修行に行って自分で何とかしろ」とは言いづらくなっていた。そんなときに渡りに船だったのが、学寮の評判であった。すなわち親たちはこのように考えたのだ。「もし兄弟姉妹が長男と同額の財産を所有することになれば、長男は、人々がかれから得ようとしている役職や仕事を、所有することも維持することもできないかもしれない。それゆえに、長男以外の子供たちは、この権利を長男と争うことがない状態に置かれる必要がある。彼らをその意に反して修道院に送りこみ、この世と虚栄とに人々が向ける関心を、彼らには早い時期から捨てさせる必要がある」。もちろんそんな打算的な考えをもたず、真に敬虔な信仰心から子供を学寮にやる人もいただろう。しかし、いずれにせよこの時期に学寮、ないし寄宿舎が併設された学院の人気が高まっていくのである。
段階化されたプログラムの誕生と難易性の異なる学問の分離
このような生徒の通学形態、ないし日常生活の変化があった時期に、教育方法にも変化が起こった。すなわち、中世=人文主義者たちが中心となっていた時代にはなかった学問内、学問間の難易度の区別である。実際に、「各教師たちは生徒たちを多くひき寄せようとして、生徒たちにとって適切なものではなく、生徒たちの最も喜ぶものを教えていた。そして理性よりも生徒の趣味の方を尊重したのであった。これらの教師たちは、生徒たちの年齢に適しい程度をこえた著作家たちを読解したが、このような授業は習俗と判断力にとっても害をなすものでさえあった」と考えられていた。さらにまた、「あまりにも自由を享受しているこれら教師たちに対し、ある権威を確立する必要があったため、学校長を確立し、授業、訓練その他すべての学業をかれの監督下に置いた」。
一定数の生徒ごとの空間の分離=学級の誕生
またその時期には、ひとつの空間に何十~何百人もの生徒をごたまぜにしている状況も改革されることになる。それまでの時代においては、「一ヶ所に数多く集っていることは、模範生により大きな力を与えるし、自ら学業努力にはげもうとする機会を多く与えるのである。〔…〕あまりに多数に集合した子供たちがひとつ以上の教室を要求するのでないかぎり、生徒たちをひとつの部屋に集めておく必要がある」という理論によって事態は正当化されていたが、やがて「生徒人口の増大の結果というひとつの必要に強いられ」、試みとして、あるいは自然発生的に「均質化されていない生徒人口は教師たちの共通のコントロールのもとであいかわらずひとつ部屋のなかにいるが、知識の程度ごとにいくつかの集団に分割されるようになり、教師たちもこうして分けられた各々の集団ごとに語りかけるようになる」。その後、「少数の生徒たちごとにひとつの教室を与えることが規律のうえで良い効果をもつことが次第に気づかれる」ことになったため、授業の部屋を学級ごとに分離することが定着していった。
年齢による区分、早熟の拒否
しかし、こうした区分はあくまでも「知識の程度」、ないし「習熟度」を元にしていたため、まだ年齢の異なる人々の混濁は続いていた。そしてそれゆえに、早熟な子供は飛び級してどんどん高度な学級に入ることが認められていた。しかし、こうした年齢に対する無配慮はある問題を放置する結果となり、やがてその問題が真剣に考えられるようになってくる。その問題とは、「精神的に未熟な者が、みんなの邪魔をする」という問題であった。実際に、「教師たちは2歳ないし3歳年上の仲間たちのなかに、年下の少年が入りいたずらし撹乱するのをよく思わなかった」。「おしゃべりの習慣のぬけないこの生徒の極度の際悦さ」は彼がこの学級に不適なことを示している。「かれは年齢と見合った第3学級に所属すべきように恩われる」。この生徒は第2学級を重複することになろう。〔…〕14歳半であってさえも、第3学級の生徒を第2学級に上げるのはためらわれた。『第3学級はかなり高度な、とくに学年末に近い時期には高度になる学級である。判断力が必要とされるし、思索力もその役割を果し始めている必要がある。この生徒の若さは、かれの能力は十分に発展していないとしか考えさせない』。〔…〕年齢、能力、学級との対応が厳密に認められ、この関係を修正すること、とくに過度の早熟ゆえにそうすることはよくないと見なされるのである」。こうした配慮の本質は、基本的に「精神年齢の発達度」であるがゆえに、実年齢では青年と呼ばれていいような人でも、授業中に喚き散らせば当然のごとく嫌われ、学級から排除された。それゆえに、「17世紀において、小さい学校においても学院の初級の学級においても同じように、5・6歳から10・11歳の年齢の子供たちが人口学的に分化されてくるようになり、子供たちはより年長の少年から隔てられる」ようになった。とはいえ、「18世紀を通じて、神童ないし早熟児の事例がみられなくなるとしても、遅ればせの年長者についてはより後まで存続がみられる」。
標準的な入学年齢の設定と規則的な進級リズムの確立、そして…
こうして、早熟な子供であってもほかの生徒の迷惑になると考えられる以上、適切な年齢になるまで彼は学級から排除されることになった。具体的には、まずあまりにも幼すぎる年齢の場合、「その幼少な子供の弱さ、幼稚さ、能力の不足」のゆえに学院への入学を拒否され、適切な年齢になるまで入学が延期された。また、既に入学してしまっていた場合には、「最下級の学級に踏み留まらせておくか、上級の学級、とくに修辞学の学級を反復して過させるかして年齢の調整を行った」。それゆえに、この時期には「男の子が幼児期として扱われなくなり、母親、乳母ないし召使たちから離れる、5歳~6歳の年齢に達した後、7歳で少年は学校に入るが、第5学級に入ることもあった。そのあとで、学齢は、少なくとも文法学の初めの3学級に入る年齢は、9~10歳ぐらいとされていた。したがって、生れてから最初の10年間ほどは学院から排除されていた」という具合に、学院への入学適齢期の下限がおおまかに決まってきた。それと同時に、「17世紀以後になると、1年に1学級進級するという正規化されたリズムに従うようになる」。そしてこうした制度の確立は、「幼児と固有の学齢期の少年とを区別する新しい感覚」を生み出し、幼児期と子供期を分離させるきっかけとなった。
小さな学校、慈善学校=周辺、田舎
このような、寄宿舎を備えた学院が中心に整備される一方、周辺にはまだ、個人が教えるラテン語学校が多く分布していた。つまり、「学院やラテン語教師たちは、完全な授業課程を有している大きな学院を中心に放射状にネット・ワークをつくり出し、その密度は周辺部にいくに従い希薄になっていた。それは初級課程しか教えないラテン語教師たちが粉のように散っているところで終わるようなかたちで、構成されていた」ということである。しかし、これは基本的に現在の中等教育にあたる教育を行っている場所であり、読み書きなどを教える「小さな学校」と呼ばれる学校が生まれることになった。小さな学校とは、基本的に教会が慈善授業として設立したものであり、当初は「乞食の子供たちを対象とするに限定しているときにのみ、慈善学校の存在を許可した。小さい学校は中等教育が閉ざされてしまった人口のうち、より底辺のカテゴリーの人々向けのものであった」。こういった小さな学校の存在について、アリエスは「17世紀を通じて、小さい学校は、学院において第6学級ないしそれ以下の学級が発展していくのと平行して、発展していった。これらの成長は、それ以前には無視されることの多かった5歳から7歳ぐらいの子供たちに学校で初等教育をあたえることへの特別な配慮が生じてきたことを証言している」との見解を示している。
この時代においては、「学校人口の中心的な核をなすのがブルジョア家族、法服貴族、それに教会関係のものであることには疑問の余地はないけど、貴族のうちでも学校生徒にならぬものもいたし、逆に職人や農民の子供も学校にいた。〔…〕すべての人間が学院へ行ったわけでもないし、小さい学校に行ったわけでない。学院になど行ったこともないか、あるいはほんのわずかな期間だけ(1年か2年の間だけ)いたことのある人々もいた」。だが、この時期の学校運営の目的は、先程から見ているように、主に「子供を大人から少しでも長く分離することで悪い習俗を覚えさせないようにすると同時に、キリスト教的道徳をより多くの人々に身につけさせる」という布教的な側面が強い。だから「学院もその他の学校も生徒たちをある特定の社会層からだけ募集するということはなかったし、上流家庭の子供も下層階級の子供も、ある空間のなかで接近していて、同一の長椅子の上とはいわずとも、同一の教室の内部にいて、不可避的に子供たちが親しくなることが、なんら反発されないでいた」。事実、社会経営の理論的にも、「学院において、子供たちは彼ら本来の財産から、祖国や家族や友人たちの名誉をつくり出す職人となる」という認識が主流となって、「教育の中に、乞食の子たちを道徳化し、召使や労働者に節度と規律をもたせ、しかして諸々の職業によき労働力を供給する唯一の手段を認めていた」。
また、この時期に「7歳から12歳のあいだにそこに入り、20歳ぐらいで卒業していく少女たちのための近代的な制度のモデルを提供すむ。共学の小さい学校がなげかけた波紋は、女性を学校で教育する方向に向う一般的傾向を示すものであるが、それが実行に移されるにはなお2世紀を待たねばならなかった」。
教育内容の拡充と学校に通う期間の長期化=子共期の延長と青年期の萌芽
今まで述べてきた変革によって、「学院はもはや聖職者や人文主義者たちのための長期にわたる勉学のためのものとは理解されていない。それは教育、人間形成の手段となるのであり、実際生活を準備するものであり、それに先行するものとなる。とはいえ学院はいまだ、世俗の生徒たちが学院にかよう慣行をもつに先立って存在していた別の種類の人間形成と教育とに、つまり往時に聖職者のためにとっておかれた見習修業に、置きかわったわけではない」。だが、学院関係者は「自分たちの下に、少しでも長く子供たちを匿い、きっちりと徳育を施す」という自分たちの目的の実現を、より強固にする変革に打って出た。それが、教育内容の拡充である。先に、主に貴族たちの間でより広い職能教育の需要が高まってきていたことを見たが、まさに学院はそういった需要に応え、「従来の学問だけでなく、馬術ないし騎兵操法、剣術、舞踏、数学、築城術、絵画、舞踏、リュートなど嗜みのさまざまな技芸」を教えるようになった。つまり、「貴族の若い子息たちに、とりわけ(といっても排他的にではない)外国へ滞在させる費用を支えきれぬような家庭出身の未来の将校たちに対して、学院と実生活とのちょうど媒介をなすような、学院終了後の教育の必要に応えたのである」。
こうして貴賎の別なく幅広い人々を受け入れ、またその要求を満たしてきた学院は、ごく一部のエリートの養成を目的としていた上級の諸学部の衰退を尻目に、ますます威信を高めていった。それに呼応して人々はより自分たちの子供を、より安価に将来必要な技能を身につけさせてくれる学院に預けていくようになり、17世紀初めには、学院はそれまで師弟制度に任されていた、初等教育の内容(読み、書き、母語の文法など)まで引き受けるようになると同時に、上級学部の領域もまた守備範囲とすることになった。そしてそうやって学校に行く期間が延長されにつれて子供期が拡大していき、「他方、18世紀になると、将校たちはほぼ完全に学院での学業課程を終えたあとでか、あるいはさらに特別の土官学校を経てしか軍役に入れぬようになる」。このような学院による子供たちの囲い込みが社会に浸透していくにつれて、「教育の手段として、学校が徒弟修業にとってかわり、子供は大人たちの中に混ざり、大人と接触するうちで直接に人生について学ぶことをやめた」。と同時に、「アカデミーの時期が、生徒の生活と大人の生活との中間に位置する時期となり青年期を大雑把にであるが分離させることになった」。
学寮への幽閉:規律、無菌室培養
そして社会的な信頼、ないし影響力を獲得していった学院の中でも、とりわけ寄宿舎での共同生活のシステムには人気が集まった。それは、保護者にとっても聖職者にとっても、より良い道徳を身につけさせることができるからである。しかし、そこにはひとつの問題があった。それは、子供たちの方がその意図に完全に従っていたわけではなかったという問題である。先にも少し触れたが、この時代の人々は激しやすく、決闘や暴力沙汰、教師への襲撃などが割りと日常茶飯事であった。それは、当時の人々の根本的な気性に帰すべきか、はたまた「能力を越えて長男たちを一人前にするために他の子供たちを犠牲にし、その子供たちに何の相談もなくまたその適性も見極めずに、修道院に閉じこめてしまう…。神父たちも同じく彼らを愛さず、神の思し召しのない場所で差別を行なう」といった扱いを受けていることへの不満に帰すべきかは分からないが、そのような過激な行動に出ずとも、親にも学院関係者にも告げず、学校から逃げ出し、放浪の旅に出てしまう人も続出していた。こうした状況に対し、学院側は厳しい規律を導入することによって対処した。子供たちは常に教師たちの監視の目に曝され、規則正しい生活を送らされた。しかし、「この規律は学校内でのよき治安によってのみ表現されるもののみでなく、家族たちに学院の修業課程をすべて完全に過させるようにと強いていくことにある。規律は恒常的、組織的なものであり、ほとんど尊敬されていない権威により行使される暴力とは全く別のものである。法律家たちは、彼らが動かしている騒乱さわぎの好きな社会にきびしい一撃を加える必要があると知っていたが、規律はそれとは全く別な伝統から来るのである。学校の規律は、教会ないし修道院の規律に由来する」。つまり、学院側は逸脱的な行動をする一部の人々に対し、匙を投げることなく、規律を導入することによって、強引にでも自分たちの良い習俗の側に引きこもうとしたのである。
こうした対応に対し、親たちはむしろ好意的であった。なぜなら、従来行っていた見習い修行や研修のための外国旅行、通学生としての自由をつうじて曝される誘惑から、青年たちのモラルを守ることができるからであり、また、そうした規律の内面化は、学院を卒業した後に所属することになる軍隊での生活でも非常に役立つと考えられていたからである。こうして「子供が純粋無垢であるという理解にもとづいた二重の道徳的態度、すなわち、ひとつは生活の爛れから、ことに大人においては黙認されるか、さもなければ許容された性的なことから子供の無垢を保護することであり、もうひとつは、性格と理性を発達させながらそれを強化すること」が徹底されていった。そしてやがて、「この『完全な隔離』を休暇中にまで拡大することも推奨された。16世紀・17世紀には各家族はその家にいる人間すべてを夏の労働、とくにぶどうの収穫のために動員するのが普通のことであったが、1800年の学院は、小学校のばあいは19世紀とそれ以後に至っても保ちつづけるこの田園生活との関係を、全般に禁止してしまった」。
近現代(18世紀後半頃~)
子供:それは、家族のすべてに―近代家族の誕生
しかし、時代が近代にさしかかる時期になると、それまでの変化に呼応するように人々の心性に変化が生じるようになる。それは、人々にとっての「公共の重要性」の低下である。この点、アリエスは明言しているわけではないが、人々が子供を学校に長いこと閉じ込め、師弟制度にもとづく人間的なつながりが薄れていくことによって、人々の感情的な「紐帯感」や「所属感」を満たしてくれる存在が失われつつあったと考えられる。おそらくそうしたこともあってか、人々は公共の中で感情的欲求を満たすことが少なくなり、代わりに家族生活や私生活が人々の生活の中心を占めるようになってきた。こうした変化は「17世紀の末から18世紀に、日常生活は、街頭の騒音や無遠慮さからへだてられ、外皮となる壁にそって、四辺形に仕切られた建物の内部に集中されるようになった」とあるように、家の形にも影響を及ぼしている。
「彼らは古い人間関係や社交関係によって押しつけられる過度な親密さを厭い、孤立することのうちに幸福を見出し、家族以外の社会の残りの部分には無関心になってきた。こうした親子のまとまりは、友人、顧客、奉公人たちにたえず介入され世間に開かれていた17世紀の家族ではもはやない。家族の成員は、日々の悩みや喜びを分ち合うことによって、感情や慣れや生活様式によって結びつけられている。こうした変化に伴い、17世紀以降モラリストたちが訴えてきた『親子関係における子供たちの平等』の意識はますます正しいものとなり、両親たちはもはや、数多くの子供をつくり、そのうちのいく人かが生き残ればその他のものには無関心なままでいる、ということに満足しない。子供を亡くしても、しばしば子供を生み直すということはされなくなり、よりよく面倒をみるために子供の数を限定するのがよいとされるようになる。時代のモラルは人生に入るにあたっての準備を、決して長男のみでなくすべての子供たちに、17世紀末においては少女たちにさえも、与えるように強いるのである。家族は財産と姓名とを伝えていくようなたんなる私権の制度であることをやめ、道徳的かつ精神的な機能を主張するようになり、家族が魂と身体を形成する。子供は日常生活に欠かせない要素となり、人々はその教育や就職、将来を思いわずらう。この集団のエネルギーは、何らの集合的野心もなく、子供たち、ことに子供たちそれぞれの向上に費やされる。ブルジョワジーは自分たちだけ別に、同質的な人々からなる環境として、また彼ら閉鎖的な家族のあいだで、家族の親密さを配慮された住居のなかで、下層民衆の悪影響に染まることから完全に断たれている新しい市街区画のなかで、自分たちを組織しようとして、以前に過していた多様な側面をもっている社会から、引きこもるのである」。
学寮からの子供たちの救出
こうして、子供を含めた家族同士の紐帯が感情生活の重要な要素となる近代的な家族像が普及するにつれて、「近代の家族は、たとえ子供の教育を保障するためであっても、子供たちを隔離することは容認しない。〔…〕それは教育者の側からの道徳的厳格さにたいする新たな要請、すなわち若者を生れたばかりの無垢のなかにとどめておくために、大人たちの稼れた世界から隔離しようという配慮、あるいはまた大人たちの誘惑にたいし十分に抵抗するように若者を仕込もうという考え方と符合するものであったがそれはまた、自分たちの子供をもっと身近で監視し、自分たちのもっと近くにとどまらせ、たとえ一時的であろうともはや他人の家族にはまかせない、という親たちの欲求にも一致していた。こうして、子供たちは以前の時代よりももっと長い期間を家庭で過ごすようになる。〔…〕フランスでは19世紀の後半になると、寮制度は後退していき、18世紀の教育家たちがそこに帰属させていた精神的かつ人間的形成の価値を、寮制度は失っていく。家が遠方にあるとか、家族が問題を抱えているとか、グラン・ゼコールの受験準備といった必要なばあいにしか、察制度は利用されない。〔…〕精神的・道徳的な枠組をつくる役割において(さらにまた、これは学校の役割がしだいに職業教育において重要になってきた時期のことであるが)、家庭が学校に対して置きかわるのである」。
ブルジョワジーによる学校の占領
また、近代の主役たるブルジョワジーたちは、学院のみならず元々貧しい人々や下層階級の人々のための学校であった、小さな学校にも影響を及ぼした。というのも、事実上ブルジョアが民衆の子供たちを押しのけて、小さな学校を占拠してしまったのだ。小さな学校は基本的に慈善授業として行われていたため、授業料は徴収されなかった。そして、「そこでの教育はその信念に支えられてカルティエの学校の教師によるよりもずっと熱心な修道会の教師たちによってなされていた」。だからこそ、「17世紀の末には慈善学校は設立されるや直ちに、金持ちの職人、商人、ブルジョワたちを顧客としてひきよせ、ちょうど学院の初級の学級が小職人や農民の子供たちに侵蝕されるように、小ブルジョアに侵蝕された」。
こうした、ブルジョアたちしかいなくなった状況、つまり「身分にもとづく分離」は近代的な家族像を内面化したブルジョアの親たちの意向によってますますエスカレートしていくことになる。すなわち、「1人(ないし2人)しかいない可愛い我が子には、決して悪い習俗、自分たちが将来目指すべき身分に相応しくない言葉や習慣を覚えてほしくない」という考えである。「人々はもはや、出発点において最後の課程にまで修了し、ゲームの規則をすべて受け入れようと決めている生徒をそうでないものと共存させるほど寛容ではなくなった。というのは、学校であれ宗教団体であれ、閉さされたひとつの集合体の規則というものは、すべて同じようにそのゲーム以外のすべてを放棄させるからである。長期の学業課程を規則として課そうと考えられたときからその身分、親の職業、財産によって、その課程を続けることができないか、最後まで終えると保証できない子供たちのための余地は、なくなったのである。だが、この進化にはそれ以外の原因もある。コルベールは知識人の氾濫と肉体労働力の不足に不安の念を表明した。〔…〕社会においてはどこでも、有用な肉体労働者の不足と、非生産的人口の過剰に苦しんでいた。この世論は、さまざまな社会階級の子供を学校では一緒にしていることへの嫌悪の感情を、経済学の言語に表現したものである」。
「これら啓蒙思想家たち、思想の世紀の人々は、その数と彼ら相互のあいだの関係のおかげで、過去において法律家、聖職者、知職人のいずれのグループも想像もできなかったほどの影響力を、世論に対して行使するようになった。彼らのうちでも、コンドルセのような一部の人々は、すべての人間へと拡大されている普遍的教育の概念に忠実なままでいた。けれども、啓蒙思想家の大部分は反対に、ジェスイット会土の追放以後、長期間にわたり、また主として古典について行われる教育をうける特権をある社会階級にのみ限定するように提唱し、民衆はもっぱら実用的なことにかんする第2地帯の教育へ閉じこめるように論じたのであった」。そして、「19世紀の初期には、とくに富裕者のためにつくられている学内寄宿生の制度の発達によって、また地方の子供たち(「頭陀袋をかついだ生徒」)を住民のもとに下宿させ、週に一度の食糧の補給によってわずかな費用で生徒を集めていた地方の学院があいついで消滅していくことによって、民衆階級はラテン語教育の学院から、排除されてしまうのである。彼らはそれ以後には主要都市にある大規模な学院へ子供を送ることはできなくなる。そこでは生活の費用は高くつくし、生徒を下宿させる中世からの伝統も消えていったし、また学校の権威も、家族のコントロールからも、学校の監視からも自由であった通学生にたいして寛容ではなくなっていた。民衆の子供たちを編入することは切りすててしまい、学院は完全にブルジョワのものとなるのである」。
遅ればせの年長者の排除と大学との住み分け
かくして身分の違う者を排除してしまったブルジョワジーたちは、同時に子供たちの時間の浪費についても口を出すようになる。先に、年齢による学級の区分が確立していく過程を見た際に、早熟の子供については同じことを反復して学習するよう求められ、低次の学級に留め置かれたのを見た。しかし、こうした措置に対し、「古参生徒のうちの一部のものは倦怠の兆候を示し、善良な教師の方もこの倦怠感もやむをえまいと認めていた。『この生徒は修辞学級を3度反復することに嫌悪の念を示している。かれは学院のこの学級で学ぶほどのものは何もないのであるからである。実際、このことはこの生徒に貴重な時間を浪費させることになると考えられる』と考えられた」。こうした状態は、しばらくの間は放置されていたが、「19世紀末になってようやく、自由職業につくために必要な資格となるグラン・ゼコール、ないし法学部と医学部の学土号や博士号の試験への準備が、生徒のために中等教育の期間を短縮するように促した」。しかし、こうした中等教育と高等教育の住み分けの意識は、「19世紀になって、ブルジョワジーのうちで大学ないしグラン・ゼコールなど高等教育が普及することで、中等教育と高等教育を分離させた。〔…〕15歳ぐらいまでのいわゆる生徒とされる年齢のものたちの学業と、公開授業の形式で成人年齢の人々にまで拡大されてなされる上級の学業とを、対置させている」。ここに「学生」と「生徒」という学校参加者の区分が徐々に確立されていくのであり、少年期後期と青年期が分離していくことになる。
こうした中等教育期間の縮小とだいたい同じ時期において、遅ればせの年長者が排除されるようになり、入学に年齢制限が課されるようになった。「25歳の第6学級生徒や40歳の修辞学級の生徒を抱えていた古いパリ大学の愚行に陥らぬように、配慮しなければならない」との考え方が普及し、19世紀初頭にはもはや異なる年齢の混濁は完全に認められなくなった。「今日では野心的な父親はすぐに息子を中等教育に入れようとしよう。だがもしその年齢時期を逸してしまえば、賭は終っていて、規定の年齢をこえた少年はリセへの入学を認められないであろう。従って現代の私たちの社会では、下層の階級には中等教育への接近、が閉ざされていることに加えて、法と慣行とによる年齢制限が存在しているのである」。
このように、19世紀を通じて、ブルジョワジーたちによる学校の独占が進んだことによって、「子供期後期と青春期とが未分維の状態にある、中等教育から遠ざけられている民衆階級の子供」と「規律によって、大人たちと同じ自由さを享受する民衆階級の子供とは違う存在である上流階級の子供」とが分離することになった。「一方には学校化された生徒たちが存在し、他方には背からの慣習に従って、歩行したり口をきいたりできるようになるとすぐに大人の世界に入っていく子供たちがいるようになった」のである。
青年期:新しい苦悩の時代
以上に見てきたように、年齢別の学級制度や初等・中等・高等教育の区分などの確立によって、おぼろげながら誕生してきた少年期と青年期の区分は、まず「少年期が、19世紀には、正確には18世紀末に、徴兵制によって、次いで兵役制によって、区別されるようになった」。そして、「子供時代、少年期、青年期は、最初は小学校とリセの諸学級、次いで中等教育から大学、あるいはグラン・ゼコー ル受験準備級へと継起する学校制度の位階構造の上に区分されるようになった」。そして、「青年の意識は1914年の大戦のときに、前線の戦闘兵たちが一団となって後方の老人世代に対立したのを承けて、普通にどこにでも見られる現象になった。この時から青年期の観念は砿張されていくことになる」。
「青年は自分の価値、自分の欲望、自分の慣習を主張する。このようにして、青年期なしの時代から青年期が好ましい年齢とされる時代へと移行する。人々はそこに少しでも早く到達しようと望み、そしてそこに少しでも長くとどまっていようと願うようになるのである。〔…〕結婚によって青春期がさえぎられてしまうことはなくなる」。しかし、同時に男女のどちらにおいても大学進学率が上昇したことによって、青年期を過ごす人の数は急激に増えることになる。そして、青年たちは社会の荒波からは隔絶された、学校制度の中でひたすら勉学に明け暮れることによって、自分のアイデンティティについての葛藤を抱えるようになった。ある人はそれを正面から乗り越え、ある人は享楽的な快楽に束の間の逃避を見出し、またある人はなにかの思想や信条を熱狂的に信奉することになり、別の人は、旧態依然とした体制に対する不満を爆発させることになる。青年は教育や心理学、文学、政治の世界で大きな関心事となり始めたのである。
アイデンティティの心理学―子供をめぐる歴史が生んだ危機
アリエスによれば、本書は発表当初フランスの歴史学界ではあまり注目されず、むしろアメリカの教育関係者や青年心理学者、発達心理学者などから大きな反響を受けたそうである。師弟制度が一般的で、基本的にはライフコースの選択肢が少なかった時代にあっては、人々は自由を奪われ、他人に自分の人生を支配される苦しみを背負っていた反面、自分のアイデンティティについて悩むことはあまりなかった。中世においては、いくらでも人生をやり直すことすらできたのである。しかし、近代に入り、人々の自由は拡大していった一方、人々は「自由の刑」に処されることになった。そんな「自由の刑」に苦しむ青年たちの心理的な危機に注目したのが、アメリカの心理学者エリク・H・エリクソンであった。現在、大学教育においては、社会人へとスムーズに移行できるようにさまざまな職業教育の試みがなされ、また起業の側でもインターンや職場見学に学生たちを受け入れ、ミスマッチを防ぐ試みがなされている。しかし、やはり20年近くも勉学に集中してしまい、忙しい大学生活を送る毎日の中では、自分のアイデンティティを見つめなおすきっかけ、あるいは道を決めるための決め手を欠いていることも多い。ノマド・ワーカーという生き方は、会社側にはありがたくない存在であるかもしれないが、それは青年の危機に対するひとつの回答なのかもしれない。それは現代に特有の悩みなのだ。
参考文献
フィリップ・アリエス著『<子供>の誕生:アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』,杉山光信,杉山恵美子 訳,みすず書房, 1980.12. (原書:1960), 全424ページ
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