紹介文
「教育」、英語で言えば“Education”という言葉は、もともと「子どもが生来もっている潜在的な能力を引き出し、伸ばす」という意味であったわけが、現在その理念は小学校~大学に至るまでの、「一般的な教養や思考力」を訓育するための学校制度によって具体化されている。我々は子どもの頃から、その極々「当たり前」のライフコースに従って生きているが、実は「子どもは一般的な教養や思考力を身につけるために、教育されるべき存在である」という考えは近代的以降にようやく確定的になったにすぎなかった。アリエスは「教育」が誕生した背景には、「避妊」、「死生観」、「子どもへの態度」、「学校に求められるもの」などさまざまな要素の変遷があったことを、4つの論考によって明らかにする。そして、「教育」が誕生したことによって、もうひとつの「近代的な人間像」が誕生するのであった…。本書の概要
本書は、1948年~1978年の間に著者フィリップ・アリエスが発表した5本の論文を、「教育の誕生」というテーマのもとに、1冊の本にまとめたものである。しかし、序章「心性史とは何か」(1978)はどちらかと言えば、アリエスの活動全体、あるいは歴史研究のついての方針などを論じたものであって、「教育」というキーワードに関連するのは、第1章「避妊の起源」(1953)、第2章「生と死への態度」(1949)、第3章「家族の中の子ども」(1948)、第4章「教育の問題」(1972)の4つである。ただし、基本的には別々に書かれた論文であるため、「教育の誕生史」を理解するためには、提供された情報を少々整理する必要がある。
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先程も述べたとおり、本書のメインテーマは「教育の誕生」である。今日では、「教育」(Education)という言葉によって、初等・中等教育や学習塾、大学、しつけなど、さまざまな現象や制度を思い浮かべることができるが、アリエスが本書で述べているのは、まさにそのイメージだ。すなわち、「だいたい6~7歳くらいで小学校に入学し、中学校、高校と経て、大学での一般教養と専門の勉強に至る」という一般的なライフコース、ないしそのライフコースを可能にする制度は、いかなる変遷を経て誕生したのかということである。本書でアリエスが提供した情報を整理すれば、「教育」が誕生した背景には、①「子ども」に対する態度の変化と②中心的な教育内容の変遷があるということができる。では、この2点について具体的にどういうことなのかを見ていくことにしよう。
「子ども」に対する態度の変化
家族像の変化という主題は、アリエスが中心的に研究したテーマであるが、「子どもを中心として、すべての人生設計が計算されていく家族像」=「近代家族」は文字どおり高々ここ2~3世紀の間に誕生したものにすぎない。近代以前においては、大人にとって子どもは「汚らわしく、役立たずで、非常に厄介な存在」とされていた。この認識は、基本的に貴族であっても農民であっても変わらない。その理由は基本的には「育てるのが大変」、あるいは「経済的な負担が大きいにもかかわらず、生産性が低い」というものである。何故そうなるのかということだが、ここに近代以前の事情がある。アリエスの話によれば「中世から少なくとも17世紀にいたるまでのヨーロッパ社会では、避妊の処置がとられていなかったことについては、議論の余地のないこととされている」そうだが、そのために人々は「セックスをすれば、ほとんど必ず妊娠・出産をしなければならない」状況に置かれていた。だからこそ、ひとつの家族に子どもが9人も10人もいることはある意味で普通のことであって、結婚するからには覚悟しなければならないことであった。それだけの子どもがいれば、とても両親も面倒を見きれず、とりわけ貧しい農村の家族であれば、それだけ食い扶持が増えることになる。それゆえに子どもは、「厄介者」と認識され、基本的に財産を受け継ぐ長男以外の子どもは、10歳かそこらの年齢で奉公に行くなり、軍隊に入るなりして、家庭からは追い払われていたのである。
ところが、時代が下るにつれて、人々の考え方(=心性)に2つの変化が生じてくる。ひとつは、「避妊」について、もうひとつは「生と死のコントロール」についてである。
避妊とは、「性交の際に妊娠しないようにする」ということであるが、先述のように、近代以前の人々にとって「性交」と「妊娠」は不可分のものであった。アリエスは、この「性交と妊娠は不可分」という考え方があったという事実について、①「そのようなことは考えも及ばなかった」という考え方、あるいは②「技術的には可能で、やろうと思えばできたが、当時のキリスト教的道徳がその実行を阻んだ」という2つの考え得る考え方のうち、①の立場に立ち、「それを全く知らないにしろ、あるいは、自分たちとはかかわりのない好奇心の対象としてかろうじて知っていたにしろ、彼らは、ことに及ぶことを考えもしなかった」と述べ、「快楽の獲得や夫婦間の愛情の確認を、妊娠=子育てのリスクなしに行う」という発想がなかったと主張する。しかし、依然として子ども=子育てはうっとおしいものであり、かといって堕胎は女性の身体的負担が大きいものであるという不満は燻っていた。それゆえに、そんな不満が時代を経るにつれてだんだんと増していった結果、あるときを境に「避妊」という考え方に思い至り、その欲求によってやがて避妊の方法が開発されることになる。これが、「避妊」についての人々の考え方(=心性)の変化である。
一方、人々の死生観や健康意識もまた、大きな変化を経験することになる。近代以前の人々にとって、「生命の正規の運行に干渉することができるといった、今日のわれわれにならごく『自然な』ことに思われている観念が、存在していなかった」。そして、医学というものは「一方では学問と教育によって、他方では地上と精神界の王侯たちの自由にできるたいへんに贅沢な技術として、存在していた」にすぎず、それゆえに普通の人々は、死に至る病を発見し死期を悟ったら、社会的な活動から引退し、ただ死をまつのみであった。つまり、人間の誕生にせよ、死や健康にせよ、そういったものはある意味で「神の思し召し」に従うべきものであり、それを自分たちがコントロールしようとはしなかったのである。しかし、時代が下るにつれてそういった人間の生死を医学によって、ある程度コントロールしようという発想が広がっていった。ここに、「生と死のコントロール」についての考え方(=心性)の変化がある。この2つの考え方(=心性)の変化によって、人々は「避妊による出産の制限と計画的な妊娠」の実践が可能となったのだが、子どもが教育の対象となるためには、もうひとつの状況の変化が必要となる。
妊娠と出産をコントロールすることがなかった時代においては、「家族は、まず何よりも、世襲財産の維持とよき習俗への尊敬、すなわちよき社会秩序の維持という役目を帯びたひとつの社会制度であった」。しかし、それゆえに「ひとりかふたりの男の子だけが、父の遺産を確実に継ぐために、父の側に残された。事実上、これらの子どもだけが、ずっと家族のメンバーを構成し続けることになり、他の子どもたちは、戻るあてもなくどこかへ消え去った」。無論、消え去った先は、先程述べたように、「軍隊」なり、「奉公」なりである。しかし、時が流れ、18世紀になる頃には、「すべての子どもに平等に財産を相続させる」という考え方の方が一般的となる。この点、財産がたんまりとあって、分割相続しても個々の子どもの生活、あるいは財産の管理に困らない王侯貴族や伝統的な価値観の残っている貧しい人々にとっては、別段の影響はなかった。だが、さらなる出世を目指したり、財産をきちんと浪費せずに管理しなければ家が没落しかねないような貴族階級の人々にとっては、平等な相続の一般化は、ある種の問題となった。そこで思い至ったのが、「避妊による出産の制限と計画的な妊娠」と「自らの有する資産を自らの子どもに一極集中して投資をすることで、世襲財産と家柄の維持を図る」という方法であった。このときになってはじめて、子どもは教育の対象となり、「節度と気品をもった人格」と「財産を適切に管理・運用していく知識や思考力」を身につけることが求められるようになったのだ。ここに、「最初からひとりかふたりの子どもしかつくらない代わりに、その少数の子どもの育成に、自分の家の未来をすべて託す」という家族が誕生した。それゆえに、「両親の全生活は、子どもたちの成功のために必要なあらゆる物質的手段――教育・財産・結婚――を求めることに向けられる」ようになり、いわゆる「近代家族」が誕生することになるのである。
中心的な教育内容の変遷
「避妊」と「生と死のコントロール」についての考え方(=心性)が変化したことで「避妊による出産の制限と計画的な妊娠」となり、さらに家産の管理と維持の要請から、子どもが教育の対象(=家の未来を背負って立つ者、両親の期待の対象)となったわけだが、それらをもって、「一般的な知識や思考力の強化」という意味での「教育」という概念が生まれたわけではなかった。歴史の中で、そのような「教育」の概念が誕生し、制度が整備されていくためには、主に階級間の勢力争いによる社会変動が起こらなければならなかったのである。
そもそも、中世のヨーロッパ社会において、子どもの能力開発は専ら、仕事の手伝いの中での実践によって行われていた。すなわち、「農村的で口承的な文明の中では、年齢階層内部で、日常生活を通して与えられた。各人は、各人の年齢と性によって分けられた階層に属する伝統的な知識を教えられた。彼らは、後の時代の徒弟奉公の場合のように、ただ単に、教えを受動的に受け取ったのではなかった。彼らは直接に宗教的・社会的・技術的な仕事に加わり、そのなかで自ら経験を積み、それによって集団のなかに自分の位置を与えられた」。つまり、「教育は行為と切り離されないものであった」のである。これは基本的に貴族階級の子どもであってもあまり事情は変わらない。その頃には、一応ラテン語学校のようなものがあったのだが、これは基本的に聖書を読みこなすためにラテン語が必要であったという理由でラテン語が教えられているにすぎず、神学的な研究はそれぞれの学者が自由に弟子を受け入れて行われていたのである。
しかし、「王やそのとりまきたちは、ずっと以前から、知育(といっても、つまりラテン語の教育だけだが) の必要性を理解していた」ために、「十三世紀になると、貴族の親たちは、王の息子は、荒々しい訓練から遠ざけられて、「ラテン学者」あるいは教育者」に預けられるようになる。ここに、「知育」と「生業のための技術の習得」との分離の萌芽を見ることができる。そして、教会の権威が増していくにつれて、やがて神学を中心とした、体系的な知識を効率的に教授するための制度、すなわち時間割やカリキュラムのようなにもとづいた、現在のような「学校」が誕生するようになる。しかし、この段階ではまだ「教育」の概念の誕生には至っていない。なぜなら、そこで行われるのは、基本的に「将来聖職者となる者を養成するための訓練」にすぎなかったからだ。「司教座聖堂学校や、僧会教会の学校(これらは上級学校と呼ばれた)は、すでに聖職を約束されたエリートの聖職者しか受け入れなかった。〔…〕教会参事会員の養成を目指していたのである」というわけだ。それゆえこの時点では、まだ「学校」は聖職者とその候補生にしか開かれてはおらず、その他周辺の人々は、そこでの訓育とは無縁であった。
しかし、やがて「人口の増加、都市の成長、宮廷や領主の尚書局の教育ある書記―聖職者―の需要の増大、教会制度と教会の学問―神学や教会法―の発達、書類の使用の増大、司教座聖堂参事会の衰退にともない、学校に関するイニシアティブは、参事会から奪われてい」くことになり、さらに貴族階級の台頭やさらなる専門的な職業の誕生などの要因によって、学校で教えられる内容は、文法・修辞学(文学)、弁証学(あるいは論理学)、音楽、算術、幾何、天文学などを含むようになり、だんだんと増えていった。
くわえて、ジャン=ジャック・ルソーに代表されるような、「子ども特有の善き性質」の発見によって、学校での経験に求められるものも、単なる「将来のために必要な知識の習得」に留まらず、より広く、「普遍的教養」を身につけることによる「人格の陶冶」にまで広がっていった。ここに、子どものライフコースの変化が垣間見える。すなわち、それまでの社会において、基本的に子どもは「参事会員や司教、弁護士などの家での家内見習奉公」を通じて、「大人の社会で揉まれる」ことによって成長するのが常であった。しかし、「このころから家族は、子どもがあまりに早くから、大人の激しい世界にひたるのを嫌うようになった。人びとは職業をではなく、人間としての形成を与えることのできるような準備教育のための避難所というものの価値を発見するにいたったのである」。この価値の発見によって、現在のような「小・中・高から大学卒業に至るまで、職業訓練から離れて勉強だけに集中する」という生き方が可能になったのである。アリエスの言葉で言えば「教育は、子どもに「学問」(l'ecolage)と「よき習俗」(見習奉公)とを同時に与えるために、大人の社会から子どもたちを引き離す様式である」ということだ。
この「普遍的教養」と「人格の陶冶」という発想にもとづく教育機関が誕生すれば、あとはそこで教えられる内容と教わる人々の拡充を見ていけば、現在までの「教育」の歴史はだいたい把握することができる。すなわち、19世紀から20世紀にかけて、大衆の影響力が増大する一方、科学・技術を産業に応用したことによって「国民教育」と「理工系大学」という制度が整えられていったということである。産業革命以降の資本主義社会の急速な成長とそれにともなう人々の生活水準の向上、あるいは第三次産業部門の拡大、都市網の増大による技術や管理や組織化の仕事の増大は、大学進学率を上昇させた。アリエスによれば、それは「自分たちの受けた教育よりもっと完全な教育を子どもたちに与えようという親たちの意志にあり、そうした親たちがますますその数を増してきたため」である。そしてそれは、「長期にわたる教育の、突然の、しかも大衆的な規模での普及は、社会の深い急速な変化のしるし」であり、「それをわたくしたちはやっと認識しはじめたところ」だ。現在かくあるような「一般教養と専門教育の両方を行う大学」というものは、ともすれば「普遍的教養」による人格の陶冶を目指した学校が、現代の専門分化した産業社会の要請によって変化した結果生まれたものなのだ。
「教育」の子ども~「青年」の誕生~
以上に見てきたように、本書でアリエスは現在の「教育」がいかにして誕生したかを明らかにした。むろん、ここまでの話だけでもひとつの流れのあるストーリーとして面白いのだが、個人的に更に面白いと思ったのは、「教育」が生まれ、発展したことによってさらに別のものが生まれたことをアリエスが指摘している店である。子どもを、大人の集団内での養育から引き離し、純粋に勉学だけに勤しむ環境が整えられたことによって生じたもの、それは「青年」である。つまり、近代以前の師弟奉公制度が一般的であった社会において、子どもは、自分で生計をたてていけるだけの技術や経験を積めば、その時点で「大人」として認められるようになる。すなわち、当時の人生の時代区分は、「子ども」→「大人」という非常にシンプルな形態として認識されていた。しかし、産業社会が成長していくにつれて、ますます高度な専門的知識や技能が必要となり、個人が学習に費やすべき期間はどんどん延長されていった。「18世紀末には、人は17歳で行政官(ただし投票権をもたない)、15~16歳で将校になった」ところが、「今日では、若者たちは22~24歳で世間に出る」ということだ。
この「大人」でも「子ども」でもない、ほかからは区別されるべき特別な人生の一時期、すなわち「青年期」は、実は非常に現代的な現象の産物であり、現代に特有の人間のあり方と言っても過言ではないのだ。こういった主題がエリク・H・エリクソンの「アイデンティティ」や「モラトリアム」、あるいは「若者文化」といった主題につながっていく(消費経済においては、この集団は新聞やレコード、衣服、自動車などの重要な市場を形成している。またそれは、自分たち自身の制度である仲間集団を自らつくりはじめた。「若者が、まだ責任のない未成年者として扱われる家庭や学校という環境と、大人の責任ある人格の役割に到達する社会的環境との間に、仲間集団が特権的環境として存在している。仲間集団は若者に、集団や、自由な同意に基づく規律についての、ある種の道徳的意味を教えることによって、理解と信頼と評価を彼らに保証するのである」(ジャック・ジェニー))。
現在かくあるような初等~高等教育は、どちらかと言えば、一般的な知識や思考力の習得が目指されており、ある特定の職業に必要な知識や技能の習得はあまり目標とされてはいない(あるとすれば、専門学校という、相対的には進む人の少ない機関がその需要を満たしている)。現代の人々は、生まれた家によって自分の将来(の職業)が決められてはおらず、ある意味では非常に自由になった。しかし、まさにその「自由の刑」によって、青年は自らのアイデンティティを、手探りの状態の中で決めていかなければならない。そこでの精神的な苦悩や葛藤、迷いといったものが、エリクソンのいう「アイデンティティの危機」にほかならない。しかし、やがて人々は自らが意識的(あるいは流されるまま)に選択した状況に適応していき、自分の職業的・社会的アイデンティティを確立していき、精神の安定を得る。しかし、そうした現象は多分に近現代的であり、それゆえにエリクソンは、人類史上はじめての偉大な発見をすることができた。ある意味でエリク・H・エリクソンという人物の偉大さは、紆余曲折を経た「歴史」というものが生み出したのかもしれない。そういったバカバカしい考えにまで私を導いてくれたところに、本書の面白さがあるのだろう。
参考文献
フィリップ・アリエス 著『「教育」の誕生』,中内敏夫,森田伸子 編訳,藤原書店 ,1992.05.,(原書:1948-1978), 全258ページ
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