クリストファー・アレグザンダー『オレゴン大学の実験』(1975年)

公開日: 更新日:

建築・都市論

この記事をシェアする
  • B!

紹介文

アレグザンダーによる「建築と計画に対する全く新しい姿勢を述べた一連の著作」の第3の書である本書では、彼が提唱した「パタン・ランゲージ」を用いた設計思想の実践例が紹介されている。アレグザンダーは本書の冒頭で「現在認められているようなマスター・プランが、ある全体を創造し得ないこと、つまり、ある総体性を創造できても、全体性は創造できず、また全体義的秩序を生み出し得ても、有機的秩序は生み出し得ないことを論じてみたい」と述べ、マスター・プランによる大規模集中計画に代わる、有機的秩序を創造するための6つの原理を提唱する。「計画者による設計ではなく、当事者たちの参加」。「ひとつの大きなプロジェクトではなく、無数の小さな変化の積み重ね」。「一度完成すれば放置される建築ではなく、常に修正され、進化していく空間」。オレゴン大学というコミュニティをフィールドにした、アレグザンダー思想の実践編第1弾。

本書の概要:アレグザンダーの設計思想・実践編 第1弾

本書は、「建築と計画に対する全く新しい姿勢を述べた一連の著作」のうちの「第3の書」である。第1の書『時を超えた建設の道』が彼の設計思想の抽象的な一般論を、第2の書『パタン・ランゲージ:町・建物・施工 環境設計の手引』が『時を超えた建設の道』で提示したパタンやランゲージの具体例を論じたものであるとすれば、本書は、そうしたパタン・ランゲージを用いた建築設計、ないし地域づくりの、初の具体的な実践事例を紹介した本であると言える。本書についてアレグザンダーは「“The Timeless way of Building”(『時を超えた建設の道』)での議論を進めて、現在認められているようなマスター・プランが、ある全体を創造し得ないこと、つまり、ある総体性を創造できても、全体性は創造できず、また全体義的秩序を生み出し得ても、有機的秩序は生み出し得ないことを論じてみたい」と述べている。つまり本書は、個々の建築というよりも、そういった建築が集まってできる地域やコミュニティを有機的に構築していくための本であるということだ。この本では、アレグザンダーが携わったオレゴン大学の改修プロジェクトをフィールドとしているが、彼の提唱するプロセスは「単一の所有者と、単一の中央集中化予算を有するすべてのコミュニティにも十分適用されるものとなろう」。それでは、内容に入っていくことにしよう。

マスター・プランの弊害と6つの原理

マスター・プランとは、比較的広範囲にわたる物理的空間や地域を、いっぺんに刷新、ないし再開発するために立てられる計画のことであるが、そこには、「コミュニティの将来の成長を明細に記し、土地利用、用途、高度など、各地域の建設内容を定めるための多様な性質を規定するマップを有する」という特徴がある。しかし、そうした大規模な計画はあくまでも空から見た「全体性」を実現し得ても、より詳細な、より日常的な使用に耐え得る「全一性」を生み出してはくれない。真に優れた建築群、あるいは地域とは、個々が内部で完全に自立し、単独でも十分に機能を果たせるくらい洗練されていて、なおかつ全体として集まったときに、個々の集合以上の効果を発揮するようなものである。しかし「今日の成長、発展のプロセスは、個別的な部分の重要性と全体としての環境の統一性との間に、このような微妙な均衡を生み出すことは決してない。例えば、バークレーのカリフォルニア大学では、その建築物はそれぞれ相異なり、それぞれの偏狭な課題に左右された形をとっているため街路は混雑し、サーキュレーションは混乱して、全体的なキャンパスのレベルにおいて機能上の瓦解が生じている。一方、イリノイ大学のシカゴ・サークルキャンパスでは、窓がないなど、任意に形づくられた建築物の部屋の段階で、機能上の破綻が生じている。全体におけるある種の秩序は存在するが、部分における秩序の可能性は存在しない」。このようなマスター・プランの弊害に対して、アレグザンダーは次の6つの原理によって、建築が行われるよう提唱している。

【1.有機的秩序の原理】
計画や施工は、全体を個別的な行為から徐々に生み出してゆくようなプロセスによって導かれること
【2.参加の原理】
建設内容や建設方法に関するすべての決定は利用者の手に委ねること
【3.漸進的成長の原理】
各予算年度に企画される建設は、小規模なプロジェクトに特に重点を置くこと
【4.パタンの原理】
すべての設計と建設は、正式に採択されたパタンと呼ばれる計画原理の集合によって指導されること
【5.診断の原理】
コミュニティ全体の健康状態は、コミュニティの変遷のどの時点でも、どのスペースが生かされ、どのスペースが生かされていないか、を詳しく説明する定期的な診断に基づいて保護されること
【6.調整の原理】
最後に、全体における有機的秩序の緩やかな生成は、利用者の推進する個々のプロジェクトの流れに制御を施す財政的処置によって確実なものとされること

1.有機的秩序の原理:全体主義的秩序形成という誤り

まずはじめに、アレグザンダーは大原則として、「計画と施工は、全体を個別的な行為から徐々に生み出してゆくようなプロセスによって誘導されること」という有機的秩序の原理を打ち出す。マスター・プランは、ある意味で複雑で把握しきれない自然発生的な出来事によって構成されている世界に、把握可能で制御できる秩序を生み出そうとする試みであった。しかし、実際にはやはり将来の利用者の要望や財源を正確に予想することは不可能だし、それは単に次々に生じてくる管理上の要求を一蹴して、余計な手間を省く口実としてしか機能していない。だが、そうした面倒くさい手間がかかることを嫌った大規模計画は、費用をかけて利用者の不満を生み出し、地域を衰退させるだけの、この上ない無駄にほかならない。それゆえ、「コミュニティはいかなる形式の物理的マスター・プランも採用しないこと」が求められる。そして、「そのプロセスの最も基本的な事柄は、固定された未来のマップからではなく共有のパタン・ランゲージからコミュニティがその秩序を得ることを可能にすることである」と言う。彼の言うパタン・ランゲージは、決して一度確立したら未来永劫有効な不滅の存在ではない。そうではなく、むしろ絶え間ない修正や進化によってその生命が保たれる代物である。だから、その建物や空間を構成するパタンは、常に診断され、更新される必要がある。こうした作業を可能にするためには、「そのプロセスは、コミュニティを代表する10人以下のメンバーからなる1つの計画評議会によって管理されること。そのメンバーは双方ほぽ同数の利用者と管理者、そして1人の計画ディレクターから構成されること」が望ましい。これはまず、大きなコミュニティの中に派閥や勢力の強弱、権力の大小がある場合に、力をもっているグループの意見ばかりが優先されてしまう可能性があるからである。また、あまりにも大きな委員会だと、1人の代表者が多くの人の利益を代表しているため、議論の妥結点が見出だせず、結局抽象的な議論に終始して、中途半端な妥協案やそもそも結論が出ないという事態に陥ってしまう。さらに、最終的な予算権限をもつ管理者もそうした、数が多くて抽象的な議論にもとづいて決断しなければならないとなれば、公平な判断を下すため、管理者の個人的な意見に影響されざるを得ない。しかし、具体的な計画やプロジェクトは管理者ではなく、実際にそこを使う利用者がによって企画されなければ、真に効果的なものにはならない。それゆえ、小規模の計画評議会に計画の決定権を与え、自分たちの事情をいちばんよく分かっている利用者の企画を通しやすくすることが必要になる。だが、実際にプロジェクトを実行するにあたって、プロセスに必要な日常的な作業にまで関わることはおそらく不可能であるため、計画評議会はスタッフの手を借りなければならない。したがって、「計画ディレクターは、2000人に1人の割合でコミュニティの建設行為を指導するためのスタッフを有することになろう」。現実には、大学の予算で10人も20人もの専門スタッフを雇うことは難しいが、その役割を有志の学生や教職員で賄うことも可能である。ただし、その中には少なくとも1人は建築家や施工者など専門知識をもつスタッフを含めなければならない。

2.参加の原理:事情を最も知る人による創造

マスター・プランによる大規模な再開発は、通常、学長や事務局長など「権限」のある少数の人だけが意思決定に参与し、決定されている。しかし、そうした権限のある人は往々にしていくつもある地域の事情に精通せず、そこを利用する人々の求めているものを把握しきれていない。しかも設置する施設が専門的になれば、結局計画家の言うことを丸呑みせざるを得ないし、そういったよく分からないこと、自分にはあまり関係のないことについて抽象的に、長々と議論をしていると、次第に疲れてきて、速断を下しがちである。だが、アレグザンダーにしてみれば、本来設計行為というものは、個々人本人が自分の理想像、あるいはそこを利用している姿を徹底的に想像して、パタンを0から創造していく必要のある行為である。そうしてこそ、真に利用者が望む建築や町を創ることができるのである。だからこそ、建設すべきものやその方法についての決定権は、実際にそこを使う人々に委ねられることが必要となる。そして、実際に建設プロジェクトを企画し、それを実行するためにいくつかの利用者設計チームを組織し、どの利用者やグループが提案を行ってもよいこととする。財政的な権限をもつ者はそういったチームの存在を認め、適切な資金措置を講じて、プロジェクトの実施を支援する。計画スタッフは、利用者が設計や診断にあたって必要となる知識やパタンを教えて、援助する。また、利用者が積極的に建設活動に参加できるように、利用者がプロジェクトを進めるに必要な時間は、彼らの正式な業務や学業の一環として認める。

この際、注意すべき点は「個々の建設やプロジェクトが極度に大規模になること」である。なぜなら、例えばチームの人数があまりにも多すぎると、意見を言う機会を逃してしまう人が出てくるかもしれないし、その分各自の責任意識も希薄化してしまう可能性がある。そのため、共同作業を行うチームは、1グループあたり10人以下が望ましい。また、自分が普段使わないような場所までも含めた設計範囲になると、マスター・プランにおいて中心的な「事情をあまり知らない人」とあまり立場は変わらなくなる。それゆえ、あくまでも「自分の環境」と感じる範囲内のことにだけ参加してもらうようにする。さらに、できるだけ当事者意識をもち、協力して作業を進めてもらえるよう、利害関係を共にする者、あるいは近い仲間同士でチームを組んでもらう。これは、彼ら自身に個人的親近感を感じてもらうことで、具体的かつ時間をかけた議論を行ってもらうためである。彼によれば、「酸化は人々の連帯を強め、彼らをその世界の中に包み込む。また、彼らの周囲の世界とは誰かが作ろうとするものであるから、その世界と人々との間に、ある情感を生み出す。〔…〕建築物の日常的な利用者とは、誰よりも自分の要求を熟知しているものである。そのため、参加というプロセスは、中央で管理される計画プロセスよりも、より人間の機能に適応した場所を創造しやすといえる」。

3.漸進的成長の原理:有機的な連鎖反応を惹起する

通常のマスター・プランによる大規模集中計画は、いわば古くなった型を廃棄し、最新の型に買い換えるようなものである。そこで建設され「完成」した建築物は限定した無限の寿命をもつものと考えられる。環境の成長過程とは、長期間の小康状態(プラトー)から一気に上昇する段々型をしている。寿命が来た建築物は取り壊され、新しい大規模建築に取り替えられて、再び一定の寿命をもつに至る。そうした建物群は完成と同時に設計者に放棄され、後はただ朽ちていくのみである。しかし、このような放置や不変の状態は、それぞれのパタン同士が想定したとおりにうまく結合せず、パタンが死んでしまっている場合、その悪い状態を放置し続けることにもつながり、それがコミュニティの衰退を招く。こういった大規模集中計画の弊害に対し、アレグザンダーは「漸進的成長」の必要性を主張する。漸進的成長とは、「ごく小さな歩調で前進してゆくような成長」のことであり、いくつもの小規模な修正や変化をもたらすプロジェクトの連鎖反応によって、地域の全一性の形成と有機的成長をうながしてくという考え方である。先程も述べたように、建物は時々刻々劣化し、またつくってみて初めて分かる不都合も次々に明らかになってくるだろう。しかし例えば、どこかの壁が壊れたり、落書きが見つかったとしても、大規模集中計画によってまとめてそれらの問題を処理しようとすれば、予算を獲得できるまで長いの間、不便さや不都合に耐えなければならない。だが、そうした不便さや不都合は、人々をその場所から遠ざけてしまい、ひいてはその地域のスラム化を招くことになる。また、そうした一括集中の予算配分方式は、通りの緑化や植樹、オープン・カフェスペースの設営といったより良い環境を生み出すことも遅らせる。大規模集中計画はある意味で、「完璧なる建築物の建設が可能であるという誤った考え」を前提としているが、実際のところは「建築物には欠陥がつきもの」であり、より良い環境の構築とは、有機体の場合と同じく、「絶え間のない修復、化学的領域での調整、細胞の代謝」などによってのみ可能になる。だからこそ、常に建物や空間の修正、復原、拡張、改善を図り、それを伝統としてきた地域は機能的にも審美的にも美しくなる。

こうしたことから、各予算年に企画される建設は、「小規機なプロジェクトに特に重点を置くことが必要となる」。そしてこの目的のために、「ごく小規模の建築物の増殖が数量的に優位を占めることを保証するよう一定の予算期間内において、大・中・小それぞれの建設プロジェクトに対して資金は均等に費やされるべき」である。なぜなら、50万ドルの大型プロジェクト1個と1000ドルの小規模プロジェクト500個ではかかる費用は同じ50万ドルだが、後者の方がより有機的秩序の創造に寄与するからである。また、「オレゴン大学の場合のように、資金がコミュニティの外部から出る場合、これらの資金を供出する政体は、資金の用途を大・中・小それぞれの建役プロジェクトに対して同等の割合になるように指定して、この原理を守らねばならない」。これは、外部との交渉によって予算を獲得する場合、どうしてもより多くの資金を獲得するために、大きな目玉プロジェクトをひとつプレゼンし、手間を省こうとしがちだからである。しかし、資金を提供する側も獲得する側もそういった、簡便性に惑わされることなく、真に有効な予算執行に寄与するものに正しく予算を配分せねばならない。そして、「小規機プロジェクトの部門に対しては、個々の事業の特定の細部にとらわれることなく、政体はその資金をまとめて放出すべきこと」。たしかに大規模で多額の予算を必要とするプロジェクトは、それが失敗しないように慎重に審査しなければならないだろう。しかし、個々の小規模プロジェクトについては、それを逐一審査していては作業量が膨大になり、時間や人員がいくらあっても足りなくなる。また、通常審査が完了するのには年単位の時間がかかるが、それではタイム・ラグが大きすぎる。そんなに時間がかかってしまっては、人々のやる気や責任感が削がれ、場合によってはプロジェクトを提案した人が卒業したり、どこかへ異動したりしてしまうかもしれない。だから、たまに発生する無駄や不正には目をつむり、まとめて小規模プロジェクト用の全体の予算を配分する必要がある。

4.パタンの原理:人々の意思疎通や共同を可能にする道具

今まで述べてきたように、コミュニティの有機的秩序の創造作業は、複数の人の共同によって行われ、そしてプロジェクトに関わった人々が去った後もそれが引き継がれなければならない。だがそのためには、空間設計や建物のイメージをするための共通言語のようなものが必要となる。その共通言語が、彼の言う「パタン・ランゲージ」である。パタン・ランゲージとは、「地区内交通区減」や「勉学のネットワーク」といった空間のパタンを組み合わせて形成される全体像のことで、彼曰く「あるコミュニティに共通の基本的合意事項を形成するもの」、「その探境に繰り返し出現する可能性のある課題を表わし、この課題の出現する背後の状況を記し、さらにとの課題を解決するのに必要なすべての建設や計画の一般的特質を提供するもの」、「あるコミュニティにおいて健全で個別的かつ社会的な生活を営むのに必要な前提条件を表わす、経験に根ざした要求」のことだそうだ。このパタンの具体的な例は第2の書『パタン・ランゲージ:町・建物・施工 環境設計の手引』に詳しく載っているが、このパタンの相互作用によってその建築や地域の生命力の強さが決定される。パタン同士が矛盾していたり、関係性をもたないと、コミュニティ全体がうまくいかなくなるし、全一性が台無しになってしまう。また、誰かが提案したパタンがほかのパタンと対立することも考えられる。それゆえに、「すべての設計と建設は、公的に採択されたパタンと呼ばれる計画原理の集合によって指導されること。この目的のため、計画スタッフは、公表されたパタン・ランゲージを、個別的要求に適合するようにそのパタンを削除、挿入して、修正するべきである」。この際、オープン・スペースや密度などのパタンは「コミュニティ全体に影響を及ぼす包括的なパタン」とし、個室や窓などのパタンは、「ただひとつのプロジェクトによって達成することのできる、詳細にわたるパタン」として区別することが必要である。なぜなら、詳細にわたるパタンは基本的にその部分として自己完結的だが、包括的なパタンは複数のパタンの結合や相互作用によって初めて成立するものだからである。このため、「コミュニティに対して包括的な影響を及ぽすこのパタンは、コミュニティを代表する計画評議会によって正式に採択されること」が必要となる。ようするに、その場でバラバラに併存しているパタン同士の関係を調整し、それぞれがうまく相互作用を及ぼせるように整えていくということだ。そして、「正式に採択されたパタンの集合は、公聴会において定期的に審理されるべきこと。公聴会では、コミュニティの櫨構成員は誰でも観察と経験を述べ、それにもとづいて新しいパタンを導入し、古いパタンを修正できる」。漸進的成長でも述べたとおり、個々のパタン内部においても、最初から完璧なものができるわけではないし、パタン同士の関係性についてもそうである。だから、微調整や微修正を重ねていくことによって、徐々に全一性を確立していかなければならない。「包括的秩序は各パタンが、より規模の大きいパタンに寄与するものとなるように常に作成されてゆくならば、幾千もの小さな建設活動でもより大きな包括的秩序を創造してゆくことができる」のである。

5.診断の原理の原理:パタンの進化と修正作業

アレグザンダーにとって、パタン・ランゲージとは一度構築してしまえば未来永劫不変の原則として形を保ち続けるのではなく、常に状況の変化に応じて追加されたり、削除されたり、交換されたり、洗練される必要があるものである。また、最初に構築したパタン・ランゲージや採用したパタンが間違っていたり、悪いパタンを採用してしまうことも十分に考えられる。だからこそ、コミュニティは変遷のどの時点でも、そのパタンが有機的に機能して「生きている」のか、それともあまり機能せずに「死んでいる」のかを定期的に診断する必要がある。このコミュニティの“健康診断”とでも言うべき行為は、「コミュニティ全域に対する診断マップによって定期的になされなければならない。なお、その診断マップは関係者を集めた公聴会を経た後、計画評議会において正式に採択され、そこで初めてプロジェクトを提案しようとする人が手にできるようにするべきである」。ただし、その際に注意すべき点は、「パタンのマップは常に不完全なものであり、よくても環境の健康状態に関して近似的な分析をもたらすにすぎない」ということを自覚することである。彼によれば、診断マップは「その場所のあるべき姿を描き出すもの」という意味でマスター・プランと同じであると思われるかもしれないが、マスター・プランは「その場所が未来において正しいとされる姿」を描くのに対し、診断マップ「現在において何が誤っているかを示す」という違いがある。そして診断を下す際には、既存の評価尺度や言語化・概念化された指標だけでなく、不満を感じる「感覚」を大切にしなければならない。なぜなら、既に確立、ないし概念化された評価尺度もまた、名もなき「違和感」から、やがて名前をつけられることによって、理性の支配下に置くことができたからだ。「ある何かが不足していることはわかるのだが、それが何であるか確信できない。しかし、生命ある環境に対する私たちの感覚は、現在の構成パタンよりも常に先行するのである」ということだ。

6.調整の原理の原理:現実的問題とのすりあわせ

最後にアレグザンダーは、財政における民主的で公正な手続きの方法を提案している。彼によれば、まず大学へ建設プロジェクトを提出するにあたっては、すべての利用者グループはそのプロジェクトの設計案、コスト、予定資金源などを記載した標準書式に記載しなければならないと言う。それは、計画評議会がその場でプロジェクト同士を比較できるようにするためでもあるが、より本質的にはすべての建設プロジェクトを統合的に把握できるようにするためである。なぜなら、通常日常的なメンテナンスや部分的な改修といった「極小規模」プロジェクトは「維持用の内部資金、住用資金、あるいは別の特別な資金に依存している」がゆえに、計画評議会にかけられることがない。しかし、そうやってバラバラにプロジェクトが施行されるともしかしたら、互いに矛盾が生じてきたり、より全一的な関係性が生まれなくなる可能性がある。だから、すべてのプロジェクトが余すことなく計画評議会の元に集まってくる必要があるのだ。しかし、現実的には予算の枠というものがあるから、プロジェクトに優先順位をつける必要が出てくる。その場合、公平性の確保や不正防止の為、その審議過程は公開され、最終的に公開の座上で最終案を作成しなければならない。優先順位を決める際には、できる限り、コミュニティ全体の全一性の構築に寄与するもの、あるいは診断マップによって「問題あり」とされた箇所を優先していくべきである。しかし、プロジェクトの規模が小さくなるほど、プロジェクトの数も増えてくることが予想されるので、予算額の程度によって優先順位の決定は年に1回~複数回行うという段階を設けた方がいい。

参加型民主主義としてのコミュニティづくり

本書でアレグザンダーが示したような地域・コミュニティ創造のプロセスは、政治学の用語で言えば「参加型民主主義」ということになろう。トマス・ホッブズによれば、国家とは個々人の力ではどうしようもない問題(他国の軍隊や自然災害に対する防衛など)に対処するために、個々人が自然権の一部を政体に移譲し、政体は課税権にもとづいて信託を受けた人民に奉仕することを求められる。そうした意味で言えば、宅地の造成や地域の再開発事業といった大規模な事業は、国家という単位でしか実現できない欲求ではある。しかし、行政国家化が進み、それにともない官僚機構が巨大化してくると、かえって個々の人や地域の事情といった「特殊性」は削ぎ落とされ、標準化した一般解の側に人々を適応させてしまいがちになる。たしかにそうした手法は、道路やダム、崖の舗装など、どこにでも必要なインフラを整備する場合には合理的なのかもしれないが、現在の先進国はそうした「一律の底上げ」の段階を通り過ぎて、個々の事情に適した地域課題の解決が求められてきている。そうした場合に、官僚制の弊害を乗り越え、真に有効な予算執行を可能にするのが、参加型民主主義である。アレグザンダーの取り組みもまさに、事情をよく知らない少数の人に任せるのではなく、自分たちのことは自分たちでやるという参加型民主主義の実践例であるといえよう。しかし、そうした取り組みは、やはり参加型民主主義という自治のあり方に共通した課題を抱えることになると思われる。つまり、みんなが積極的に「参加」してくれるかどうかという問題である。いいかえれば、その地域の人々の関心を惹くことができるかという問題と言ってもいいのかもしれない。社会における都市化や分業化が進み、人々は公共への関心が薄れ、専らそれぞれがそれぞれの私生活を送っている。そうした中では、街路の緑化や防犯パトロールへの参加といった公共的な事柄に関心を抱く人は少数で、一部の意識の高い人々によって、そうした活動は行われている。現代の人々は、公共的なことについては当事者意識が薄いのである。自発的な公共的プロジェクト活動は、面倒くさくて、できれば自分はごめんこうむりたい。そんな中で、いかに地域への愛着、公共的義務意識、当事者としての自覚を呼び覚まし、積極的な参加につなげていくのか。それは、建築設計だけの問題ではなく、より広く「コミュニティ」一般についての課題である。

参考文献

  • クリストファー・アレグザンダー著『オレゴン大学の実験』,宮本雅明 訳,鹿島出版会, 1977.12.(原書:1975),全203ページ

自己紹介

自分の写真

yama

大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

このブログを検索

QooQ