紹介文
前著『形の合成に関するノート』から10年の沈黙を破り、ようやく発表されることになった「建築と計画に対する全く新しい姿勢を述べた一連の著作」のうちの「第1の書」。本書では、これ以降彼の建築思想を支える重要な核となる「パタン」や「ランゲージ」、「無名の質」、「不滅の特性」といったキーワードが紹介されている。彼は本書の中で「パタンとは無名の質の具現化であり、我々の生活は出来事のパタンの繰り返しによって構成されている」と言う。ある空間や町並みは出来事のパタンと密接に結びついているがゆえに、強固であり、また美しい。しかし、無名の質にもとづいていない規格化・標準化されたパタンはその生命力を失い、人々の内的な真の生を満足させてはくれない。そして最後に彼は、「すべての固定観念や凝り固まったイメージを捨て、無心で自分自身と向きあうことの重要性」を説く。革新的なアレグザンダーの建築思想の第1弾。
本書の概要:アレグザンダー思想の第1弾
本書は、著者クリストファー・アレグザンダーが前著『形の合成に関するノート』(1964-1965)から10年の沈黙を破り、ようやく発表されることになった「建築と計画に対する全く新しい姿勢を述べた一連の著作」のうちの「第1の書」という位置づけになっている。その意図は本人曰く「このシリーズは、建築、建設、計画についての今日の考え方とは別の、ある実際的な代案を示すことを意図している―しかもそれが、今日の理論や実践に、しだいにとって代わることを、私たちは願っている」とのことである。なお、本書は1979年に公表されているが、「第3の書」である『オレゴン大学の実験』が1975年に、「第2の書」である『パタン・ランゲージ:町・建物・施工環境設計の手引』が1977年に出版されていることから、発表された順番としては「3→2→1」ということなのだが、本書の内容が、以後アレグザンダーの設計思想の中心的な概念となる「パタン」や「ランゲージ」、「無名の質」、「不滅の特性」といったキーワードの紹介とそれらについての説明で占められていることを考えれば、たしかに本書が「第1の書」なのだろう。アレグザンダーは沈黙の10年間の間に、多くの人々が共通して受け入れるさまざまなパタンを収集・発明し、それにもとづいた建築の創造を実践してきた。そのパタン収集の成果が「第2の書」である『パタン・ランゲージ:町・建物・施工 環境設計の手引』であり、具体的な実践事例の紹介したのが「第3の書」である『オレゴン大学の実験』となっている。それでは前置きはこれくらいにして、いよいよ「パタン」の真髄を見ていくことにしよう。
パタン:無名の質の具現化
アレグザンダーは、これ以降彼の建築思想を支える重要な核となる「パタン」という概念の重要性を訴えている。その「パタン」とは、彼が本書の中で言っていることを整理すれば、「人間の生を豊かにする『無名の質』が実世界に具現化され、実体をもつように、あるいは可視的になったもの」ということになる。「無名の質」とは、彼曰く非常に言語化が困難で、充実感や高揚感、喜びなど特定の言葉で表現しようとするとたちまち片手落ちになってしまう感覚のことである。彼は「とても言葉では説明できない」と言いつつなんとかそれを言葉で描写しようと試みるわけだが、それを敢えて一言で表現しようとすれば「人間や動植物、物質、物理現象などに内在する『自然のエネルギーや法則』のようなもの」ということになる。それは「私たちの人生で何にもまして最も大切な質」、「私たちの内なる力が気ままに振る舞える瞬間」、「事物の自然なプロセスを妨げるようなイメージがそこに存在しないときに無意識に生まれるもの」であり、それによって「建物や町、その人々の魅力が本質的に性格づけられる」。無名の質は、それが自然に従って生まれたのであれば、植物や陽光、風、水などだけではなく、建物や町、空間の中にも宿ることができる。例えば、野原の場合は、「草の種の発芽、吹き抜ける風、草花の開花、虫たちの行動、昆虫の孵化…」といった出来事として、家庭の場合は、「さりげない愛情、朝食、お決まりの口げんかと仲直り、家族全体とひとりひとりの愛すべき体質…」といった「そこで繰り返し起きる出来事」として具現化される。町のあちこちで「いっぱいに広げた腕のように世界を受けとめ、確信に満ち、おおらかで…華を抱きしめる子供の腕…。おもむろにタバコに火をつける老人の確としてゆるぎのない休息。膝に両手をおき悠然とくつろぎ、耳を傾けながらじっと待つ」といった行動や光景として現れる。アレグザンダーはこうしたパタンを「出来事のパタン」と呼んでいる。
しかし、万物、とりわけ人間に宿る無名の質は出来事のパタンとしてだけこの世界に具現化されるわけではない。それだけではなく、そうした出来事が発生し、繰り返されることを可能にするためにある物理的な形をともなって出現することもある。例えば、人々が生活する家は、ドアや窓、階段、キッチン、ダイニング、テレビ、パソコンなどさまざまな物によって構成されている。あるいは、人々が暮らす町は、住宅、街路、店舗、仕事場、工場、公園などでできているし、アメリカ大都市地域は、工業地区、高速道路、中心業務地区、高層住宅、幹線道路などで形成されている。こうしたある物質的な形態をとったパタンは、それがあるからこそ、ある出来事が発生することができる。つまり、ダイニングのない建物には「食事中の楽しげな会話」という出来事のパタンを生まれないし、教会堂がない地域には、「ミサを行う光景」という出来事は生じない。このように、ある空間の形態はそこで起こる出来事のパタンと密接に結びついていて、ある出来事を行うために空間が形成されるだけではなく、空間そのものが、ある出来事の継続的な発生をうながすという相互前提的、相互依存的な関係にある。アレグザンダーの言葉で言えば、「建物や町で生じる生活は、空間に深く根ざしているばかりか、空間そのものからも形成される。初めは建物とか町とかが生命のない幾何学に見えたのが、実は生命のある敏感なシステムであり、空間の出来事のパタンが相互にからみ合うひとつの集合体であることが分かる。各パタンは一定の出来事を何回もくり返すが、場所を占めるから空間に固定される」ということである。
共有されたパタン=文化、風習、町、地域
パタンは個々人が自らの中で生成し、それに気づいていくものであるが、それはときに他者と共有することができる。例えば、ある時代のある地域では狩猟による食料確保という行動パタンが現れ、それが複数の人に共有されると狩猟はその地域の人々にとって、ひとつの文化になる。虫を食べるという行動パタンが共有されれば、虫を食べる文化が生まれるし、土着の神様を崇拝するパタンが共有されれば、それは地域の風習になる。より多くの人々の欲求を満足させるパタンもあれば、ごく少数の人に共有されるパタンもある。少数の人々にだけ共有されるようなパタンは、一般的にサブ・カルチャーなどと称することができるだろう。それと同じように、パタンが建物の形態や配置として現れれば、それは独特の町並みや空間構成になる。ある行動のパタンを実現したり、効率良くないし効果的に行うために、建物や空間のパタンが生じ、そしてそういった空間のパタンが、今度は逆に共有された行動のパタンを呼び起こすことになる。例えば、キリストを崇拝し、祈りを捧げるために教会堂が建てられ、人々のさまざまな欲求に応えるうちに洗練され、より快適な空間体験、より良い宗教体験が可能になる。すると、人々はそれを繰り返すようになり、それは習慣となり、そして空間と行動が一体となった文化となる。逆に、その教義が人々の欲求を満たしてくれなかったり、空間があまりにも不快であれば、その宗教的な行為はやがて廃れてしまう。そのように「個々の町や近隣や建物には、それぞれの文化に特有な出来事のパタンの組合せが存在する。〔…〕繰り返し発生する出来事のパタンは、つねに空間にがっちりと組み込まれている」のである。だから、それぞれの民族や地域、社会によって、どのパタンが共有されるかは異なり、それゆえに、それぞれの地域でまるで違う光景が現れ、個性的な都市や農村ができあがる。また、同じ『歩道』というパタンであっても、文化が異なれば見方も異なる。「つまり、異なるパタンを記憶していれば、結果として歩道で異なる行動をとることになる。例えば、ニューヨークの歩道は主に歩いたり、人を押し分けたり、敏速に移動するための場所である。ところがジャマイカやインドの歩道は、おもに座り込んだり、話し込んだり、場合によっては音楽を奏でたり、おまけに眠ったりする場所である。この2つの歩道を同一物と解釈するのは正しくないのである」。
不滅のパタン
パタンは、それが人間の自然な感情から生まれたものである限り、いかなる社会的圧力によっても消滅してしまうことはない。「先日ある放送局でボーイスカウトの宣伝を流していた。『子供が仲間と町角に座り込んでいるのは不健全です―すべての子供たちのあこがれ―長距離ハイキングや魚釣りや水泳など―のチャンスをあなたの子供にも与えよう』。これは宗教的な熱情を伴って示された意見表明である―だが、これは少年たちのあるがままの姿に反して、厳格な倫理信奉者たちが考える少年のあるべき姿の、巧妙な押しつけであることは明白である。現実の少年たちが、時には泳ぎに行きたいと思うのは当然である―だが、仲間と町角をぶらつきたいこともあるし、女の子あさりもしたいのである。こんなことにかかずらうのは『不健全』だと信じている人間は、少年の生活に現実に働く力を決して理解できまい」。事実こうした意図を実現するために設けられた遊技場や専用の遊び場は子供たちに使われることなく、それどころか良識派が「不健全の局地」とでもいうような、決闘や薬物の使用の場となることもあった。「そ一方的な世界観を勝ち取ろうとする試みは、たとえ自分の世界観が勝利したかに見えても、どの道うまくいかないのである。無視されたからといっても、決してその力は消滅しないのである。それは欲求不満のまま深く潜伏し、遅かれ早かれ激しく噴出し、勝利したかに見えるシステムがもっと悲劇的な危険にさらされるのである。パタンが本当にイキイキとし状況の発生を促す唯一の方法は、現実に存在する力をすべて認めることであり、さらに、それらの力が少しずつ解消していくような世界を見つけ出すことである」。
生きているパタンと死んだパタン:関係性としてのパタンとランゲージの生成
パタンは、無名の質を元にたいていの場合人が具現化することによって誕生する。しかし、実体の形態や洗練度によって、良いパタンと悪いパタンに分かれる。例えば、私たちが「プライバシーを確保したい」とか「誰かが勝手に入ってこないようにしたい」という欲求を満たすために「ドア」と呼ぶパタンを考えるとする。このとき、あまりにも扉が重いと自分が普段生活するときも不便だし、あまりにも勢い良く閉まってしまうと自分や家族が怪我をしてしまって危ない。この場合、そのドアは悪いパタンである。しかしやがて、ドア枠や蝶番といった部分を洗練していくことにより、使い勝手が良いドアの形態に落ち着く。これが良いドアのパタンである。建物これと同様に、例えば「ゴシックの大聖堂では、身廓の側面に沿って側廓が走る。身廓と側廓に直角に翼廓が取り付く。周歩廊は後陣の外周部に包み込まれる。柱は身廓と側廓の分割線上に、垂直に、等間隔に配置される。各ヴォールトは4本の柱を結合し、個性的な形状をし、平面は十字形で、凹形の空間をもつ。側廓の外側の柱ぞいに控え壁が下がり、ヴォールトが伝える荷重を支持する。身廓はつねに細長い長方形で―その比率は1:3ないし1:6であり、決して1:2とか1:20になることはない。側廓はつねに身廓より狭い」。それはそうした関係性が中での活動にとって最も合理的だからである。
こうしたことから、大小さまざまな良いパタンは「その要素以上に、各要素間の関係の一定のパタンによって定義される」ことが分かる。ようするに、「ドアのパタンは、ドア枠と蝶番とドア自体との関係であり、さらに、これらの部分がより小さな部分でできている。ドア枠は縦額縁と横額縁と接合部を覆う繰形とからできており、ドアは縦框と横框から、また蝶番は羽板と軸ピンからできている。だが、これらの『部分』と称するもの自体が実はパタンでもあり、いずれも―ものとして定義される基本的な関係領域を失うことなく―形状や色彩や寸法はほとんど無限に変化するのである。パタンは、単なる関係のパタンではなく、他のより小さなパタン間の関係のパタンであり、その関係のパタン自体がさらに他のパタンをつなぎ合わせている―そして結局、世界全体が、すべてこのような非物質的なパタンの結合や組合せで構成されていることが分かるのである。さらに、空間内の各パタンはそれに関連する出来事のパタンをもっている」。こうしたパタンが進化していくためには、私たちが自分たちの感情や感覚、直感に素直になって、「これは使いづらい」とか「これは使えない」といったことを自覚し、より良い個々の要素内部、そして要素間の関係性を考えなければならない。
そして「あるパタンがその時点で最も合理的で自然と思われるものになったとき、そこには一定の法則が出現する」とアレグザンダーは言う。彼はこの法則のことを「ランゲージ」と呼ぶ。言語学的に言えば、例えば"There is a tree on the ground"という文は、"There"や"tree"といった単語から構成されている。この基本的な語順は、考え得る7!通りの組み合わせの中から最も言いやすく、合理的であると思われるために、このような語順になっている。"Tree a the there ground is on"という語順、つまり個々の単語の関係性も考えられなくはないが、こういった語順はスラスラ言うのは難しい。また、"ground" という単語は、"tree"という単語のイメージと整合性があるが、 例えば"sea"や"sky"という単語と結びつく場合、それは相当特殊な事態を表現するために結びついていることになる。これと同様に、人間が具現化する行動や物体のパタンもその組み合わせいかんによっては、お互いが有機的に関係しあえず、個々のパタンも全体も死んでしまうことがある。このように、「ランゲージの構造は、個々のパタンの関係のネットワークによって生み出される。ランゲージ全体の生死は、個々のパタンがどれだけ全体の形成に役立っているかによって決まる」。
また、個々のパタンは単独で孤立していては、あまり大きな意味をなさない。例えば、独立住宅の車庫を考える際に、「我々がそれを車庫と認定するには、それが車の入る大きさであること小さな窓がひとつあるか無窓であること、間口いっぱいに広い入口がついていることなどが必要になる。しかし、車庫のパタンとその下位のパタンでは車庫を完全に定義するには十分ではない。これと同じパタンの組合せの建物が船の上に乗っているとすれば屋形船とは呼んでも決して車庫とは呼ぶまい。あるいは道路も通じない野原の真っただ中にそれが建っているとしたら農具小屋や納屋であっても決して車庫ではあるまい。ある建物が車庫であるためには、そこに車道が通じている必要があるし、たぶん家の正面や裏ではなく家の片側に建ち、それもすぐ脇に一家に直結する通路を介して建っているであろう。パタンはひとつひとつでは不完全であり、意味をもつには他のパタンとの前後関係を必要としている」。
独立していて、完璧なパタンの結合としての完全なランゲージ
例えば、キリスト教的道徳と豊かな教養を兼ね備えた人材を育成するための教育システムというランゲージを考えるとする。そのとき、神学の授業、法律の授業、ラテン語の授業、哲学の授業、教室、校舎、寄宿舎、教師たちといった個々のパタンによってその教育システムは成り立っている。しかし、もしも数学者になるつもりがない人ばかりいるのに、数学の授業ばかりに時間を割いて、そのほかの勉教をする時間が削られてしまえば、それは「時間配分」という観点において、個々の授業同士の関係性やバランスが悪いということになってしまい、結果として上に挙げた目的のためのランゲージとしては、死んでしまうことになる。だから数学は「自然科学」の一部として教えることが適切ということになるかもしれない。また、仮に授業のカリキュラムが難易度別で構成されておらず、いきなり難しいものを教えているようでは、生徒が理解できずに、「豊かな教養」を身につけるための良いパタンにはなり得ない。あるいは、「神学の理解を助けるために自然科学を学ぶ」という意図があるとすると、その自然科学を教える教師の教え方が下手であれば、結果として神学の深い理解にもつながらないだろう。さらに、例えば「ラテン語の授業」というパタンは「語順」、「活用」、「比較級」、「単語」、「慣用句」、「言葉の意味の変化の歴史」などさまざまな下位のパタンによって構成されている。しかし、特別それが将来にわたって必要でなければ、「言葉の意味の変化の歴史」というパタンはあってもしょうがないことになる。また、例えば「これからの『優秀な人材』には、ドイツ語やスペイン語といった素養も求められる」ということになれば、それらのカリキュラムをパタンとして追加する必要が出てくる。だからこそ、完璧な教育システムとは、きちんと「易しいものから難しいものへ」というカリキュラムをもち、有限な時間を適切に配分した時間割があり、教え方が上手い優秀な教師をそろえ、子供たちがそこに長時間いても不快でない教室や校舎、寄宿舎などがなければならない。このように、そのランゲージが完璧であるためには、そのランゲージを構成する個々のパタン自体が洗練され、それ自体として独立していてもある程度の価値を有するくらいに「内的な力をすべて自己解消」できなければならない。つまり、「個々のパタンが不完全である限り、ランゲージ全体は完全になり得ず、個々のパタンの『下位』には、それを形態的に完全に満たすだけのパタンが必要であり、しかもそれが生成する問題を解消するだけのパタンが必要である。したがって、不完全なパタンの埋合せが必要であれば常に新たなパタンを案出せねばならない。〔…〕また、上位のパタンの主要構成要素となるパタンと、もっと下位にあっても差し支えないパタンとを見分けることが肝要である。」。
建築もこれと同じで、それが完全で、全一的なものとなるためには、「形態的にも機能的にも完全である必要がある。形態的に完全とは、個々のパタンがひとつにまとまり完全な構造を形成し、細部もすき間なく満たされている場合である。機能的に完全とは、パタンのシステムが独自の一貫性を保ちながら、パタンがシステムとしても自己解消できる力のみを生成する―その結果、自己破壊を起こす内的対立なしに、全体としてのシステムがイキイキとしている場合である。ランゲージが形態的に完全なのは、それによって生成される建物を、きわめて具体的に視覚化できる場合である。また、ランゲージが機能的に完全なのは、それによって定義されるパタンのシステムが、内的な力をすべて自己解消できる場合である」。例えば、「教室」というパタンについて考える場合、それは窓や机、黒板、照明、床、天井といったパタンによって構成されているだろう。形態的に完全というのは、例えば窓が容易に外れてしまったり、ガラスが割れやすかったりして、それ自体で問題を引き起こすことがないということである。また、機能的に完全というのは、例えば大きさが小さすぎて牢屋に閉じ込められているような圧迫感を感じさせたり、逆に大きすぎて日差しが室内に入りすぎたりすることで、生徒の集中を台無しにしないということである。このように、「それぞれのパタンについて、その下位のパタン群が機能的かつ形態的な問題を完全に解決するまで作業を続けねばならない。そして、個々のパタンが完全になるまで、いくつかのパタンを創出したり、削除することによって、ランゲージを完成することになるのである」。
進化するパタン・ランゲージ
そうしたパタン・ランゲージを用いて創造した建物や空間は、「それが人間集団の共通の先見であり、その集団の文化に極めて固有なものであり彼らの夢や希望を捕えるものであり、彼らの子供時代の数多くの記憶や土地固有のやり方を取り込んだもの」であるときに、イキイキとした生命力をもち、無名の質を発揮することになる。しかし、そうやって共有され、文化となったパタン・ランゲージは、それがいくつもの行動的・物質的パタンの有機的な結合であるがゆえに、その構成要素ひとつひとつの変化に応じて、別の要素もまた変化し、進化していかなければやがてそのパタン・ランゲージは死んでしまうことになる。例えば、ある家庭において、なんらかの理由で子供の数が急激に増えて、より大きな家にしなければならなくなったとき、元々あった「小さな家」というパタンに固執していては、家族のみんながストレスを感じながら生活しなければならなくなるだろう。そうなれば、家族の紐帯というパタンも死んでしまうかもしれない。同様に、例えば科学・技術が発展し、都市化が進んでいるとしたとき、密集して住むというパタンを、限度を超えて墨守すれば、感染症のリスクや騒音の問題に曝されるかもしれない。アレグザンダーは「共通のパタン・ランゲージは、パタンの総体によって定義される」というが、総体を構成する個々のパタンは私的なものとしても生命力をもち、「個人的要素への具体的な対応、土地に育つ花、土地に吹く風、土地にふさわしい工場…」などといったかたちで具現化され、「その土地の習慣、気候、調理法、建築材料などに応じて具体的なものにする必要がある」のはもちろんのこと、「人々の生き方についての先見、個人の人格、両親や過去に対する感情の具現化し、それらを人々のもつ未来像に結びつけること」が必要になる。人々は常に、自分自身、あるいは自分の生きる社会のより良いあり方を模索し、それに応じてパタンやランゲージを進化させていかなければならないのである。
アレグザンダーは個々人の構築したランゲージを構成するパタンの集合を「パタンの総体」と呼ぶ。そうしたパタンの総体は、人の数だけ存在し、人と人との交流や相互作用によって、お互いのパタンは取り入れられ、模倣され、交換され、置き換えられ、ときには削除されていったりする。そうした刺激によってランゲージは進化していく。「こうした進化のプロセスは、つねにより深遠なもの、より全一的なものに向かって進むであろうが、決して終わることはない―つまり、いったん決めればそのまま続くような、静的で完璧なランゲージなど存在しない。どんなランゲージも決して完成しないのである」。
パタン・ランゲージを用いた建築の創造①:前準備=理想とするランゲージの構築
では、パタンやランゲージを用いて理想の建築を創造するためには具体的にどうしていけばいいのだろうか。この点、アレグザンダーはまず、「既存のパタンやランゲージのイメージや例えば庭なら庭、階段なら階段についての固定観念を全て捨て去り、徹底的に自分が理想とする光景を想像することが重要である」と言っている。「最も重要なのは、パタンに真剣に取り組むことである。口先だけでパタンを用いても、何の意味もない。事実、真剣に取り組みさえすれば個々のパタンによって驚くほどの独自性が生み出される」ということだ。先程も述べたとおり、ランゲージというものは共有することもできるし、ある文化に属する人が複数の重なりあうランゲージやパタンをもっていることも考えられるが、個人のランゲージはあくまでもその人に固有のものであって、最大公約数をとった標準的ランゲージや既存の空間のあり方がその人にとって最も合理的であるとは限らない。個人のランゲージはそれぞれ異なるし、また同じ個人の中でもランゲージは常に進化するのである。自分自身がそこに住む、あるいは頻繁に使用するであろう建物に、無名の質を宿らせるためには、まず設計の段階で理想像をイメージし、その創造したランゲージのイデアをそのまま具現化することが求められる。だから、通常の設計作業であれば既存のパタンの組み合わせによってランゲージを構築していくがゆえに、前準備の段階にはそれほど時間がかけられることがないが、アレグザンダーの場合は、そういったものを全て捨てて、0からパタンやランゲージを生み出していかなければならないので、前準備の段階に非常に時間がかかる。しかし、そこを妥協せずにやりきれば、後はただそれに従って作業を進めるだけなので比較的スムーズに事を進めることができる。以上のようなことをアレグザンダー本人の言で表現すれば次のようになる。
「建物を建設する際には、まず最初に、ランゲージを作成せねばならない。つまり、設計を決定するのはランゲージの構造と内容であり、個々の建物が生命をもつかどうかは、用いるランゲージの深遠さと全―性に左右されるからである。だが、それができさえすればそのランゲージが普遍性をもつのは当然である。ひとつの建物に生命を与える力があれば、それを何千回も用いて、何千もの建物に生命を与えることが可能になる。〔…〕パタンは意識的に作り出そうとしてはならない。そんなことをすれば頭にあるイメージや意図がパタンを歪め、それにとって代わろうとし、パタン自体があろがままに出現することは不可能であろう。その代わりに、そこにはいわゆる「デザイン」が残るだけである。頭に浮かんでくる意図は追い払うこと。雑誌で見た写真や友人の家も忘れ去ること…ひたすら、パタンだけにこだわっていればよい。その気になりさえすれば、さしたる努力もなしに、パタンと現実の局面が一体となって、頭の中に正しい形態が生み出されるのである。これこそが、ランゲージのもつ力であり、ランゲージが創造的であるゆえんである。〔…〕目前のランゲージ内のパタンでは、美しい庭や建物をつくるには不十分だと考えず、ランゲージは便利な道具にすぎないから、自分のつくる庭や建物は後で上手く処理をすれば美しくできると考えるようなら、そのランゲージには何か重大な欠陥があるので、自分で納得のいくまで修正を重ねる必要がある。したがって、どんな設計プロセスであれ、ランゲージの作成こそが実質的作業であり、個々の設計は、その後でランゲージから生成できるのである。〔…〕建物や庭の設計作業に時間がかかっても、設計プロセスの準備作業は短時間ですむと思われがちである。だが、ランゲージが正当な役割を果たすようなプロセスでは、これが逆転する。ランゲージの準備には数週間から数カ月、場合によっては数年といった長期間を必要とするであろう。だが、ランゲージの運用そのものは、 わずか数時間でこと足りるのである」。
パタン・ランゲージを用いた建築の創造②:分化のプロセス
アレグザンダーはこのような設計のプロセスを「分化のプロセス」と呼んでいる。従来の、とりわけ建築生産が工業化された社会においては、設計とは既存の広く普及した空間のパタンやそれを実現するための規格化された部材といった個々のパーツを組み合わせて、組み立てていく作業であった。しかし、それは一言で言えば「標準化」にほかならず、個々人の差異を無視して個人の方をひとつの「型」に適応させていくということである。住宅の例で言えば「建物を人に合わせる」のではなく、「人が建物に適応していく」ということである。それに対し、アレグザンダーの設計プロセスは、「個々の部分の合成」ではなく、逆に「先行したひとつの全体像が、それぞれの空間に分離し、境界線が確定していくプロセス」という意味で分化のプロセスなのである。アレグザンダーが自身の設計思想を実践した様子が描かれている『パタン・ランゲージによる住宅の建設(1985)』に出てくるメキシコの住宅を例にとれば、「自分たちは子供のことを考え、なるべく子供部屋を広く取りたかったから、その分ダイニングのスペースを狭くした。しかし、その狭いダイニングも、元々家族が寄り集まって食事をしたかったのだから問題ない」ということである。また、アレグザンダーは自身の住宅を建設する際にも、「ニセアカシアの木が生み出す影を活用するために、どうしてもテラスの寸法は3.6〔m〕にしたかったが、規格化された部材を用いていては、2.4〔m〕か4.8〔m〕になって、台無しになっていただろう」と言っている。これが「パタンは形態的な重要度の順に配列されているから、ランゲージを用いれば、全体が系列的に分化されることになりそこに設定された区分の結果として入れ子のように順々により小さな全体が出現してくる」ということであり、また「定義上、均一であり、全体に占める位置に応じてそれぞれが独自であることなど不可能な規格化された部分の合成のプロセス、または組合せのプロセスではない。〔…〕各部分とも、それがより大きな全体に占める位置によって、独特の形が決まってくる」ということである。
パタン・ランゲージを用いた建築の創造③:展開のプロセス
このような分化のプロセス、ないしランゲージの構築にあたっては、1度に1つのパタンに集中することが重要である。たしかに、ランゲージの生命力は互いの関係性によって大きく左右される。だから、「自分の部屋とリビングの関係はどうしようか」とか「ダイニングとキッチンの面積の配分は…」といったことが頭に過ぎる。しかし、そうやって「自分の理想をいくつも考えてきたけど、結局まとめあげる段階で矛盾が生じてくるのではないか…」と不安がって、既に確立されているランゲージ=バランスに頼ろうとすることこそが、独自のランゲージを台無しにしてしまう。そうではなく、パタンというものは柔軟性に富んでいて、いかようにも修正することも変形することもできるのだから、シーケンスの後段に出てくるパタンも、それまでに進化した設計に確実に組み込めるのだ。「パタン同士を妥協させようと思うのは、すべてのパタンがひとつの変形のルールであることを忘れているからである。各パタンが変形のルールであるということは、つまり、各パタンが新しい形態を導入することにより、どんな形態をも変形させていく力を備えているということである。しかも、そこに以前からある形態のどんな基本要素も本質的には侵害することなく変形させるのである」。
パタン・ランゲージを用いた建築の創造④:建物群の形成、人々の共同
また、こうしたパタン・ランゲージを用いた建設プロセスは、個人がひとりで設計する時だけではなく、建築群を建設する時、あるいは複数の人が共同して設計に参加する時にも応用することができる。その際には、まず個々人が自分のランゲージを構築し、頻繁にすり合わせながらパタンを修正していけばいい。アレグザンダーは、例えば「住宅の中の各自の部屋」や「地域の中の住宅≒世帯」、「都市の中の地域」などより大きなパタンを構成する際に重要となる複数の主体のことを「クラスター」と呼ぶ。このクラスターは、ほかのクラスターの行動に応じて反応し、その反応によって、全体が全一的になっていく。「小さな行為を集積しながらより大きなパタンを漸進的に作り出すためには、個々の集団が責任をもってすぐ上位の集団を助けそれが必要とするより大きなパタンを作り出さねばならない。つまり自分の部屋をつくる場合はその部屋が属する住居や作業場のより大きなパタンの形成を促す、という明確な動機づけがなされ、その結果、中心部の共域、自分だけの部屋、親密度の変化、建物の外縁、正の屋外空間、光の入る棟といったパタンがじょじょに出現するのである。また家族で自宅を建てたり改造したりする場合にはそれが属するクラスターから明確な動機づけがなされ同時に自宅の周囲の環境一上位、下位、および同位のパタン―を改善する責任を担うことになる。このようにして、複合建物、段階的な動線領域、見えがくれの庭、小さな駐車場、見分けやすい入口の集まりといったパタンがクラスターの責任において徐々に出現するのである」。
都市や建築群の漸進的成長:私的で、自然発生的で、断片的な行為の連鎖反応
従来のまちづくりの理論においては、ひとつの主体による総合的で計画された秩序でなければ、町全体の秩序など生み出せないという前提から、マスター・プランの正当性がなんの疑問も抱かれることなく信じられてきた。「人々が局所的に、自分で好き勝手に行う何百万何千万という、無数の、そして個別の建設行為が統制されることなく行われれば、散漫で支離滅裂な混沌に陥ることなく、全一的な町ができあがるはずがない」というわけだ。マスター・プランによる巨大な再開発事業は、全体主義的秩序にもとづいて、比較的広範囲にわたる地域をいっぺんに刷新し、計画された大街区を生み出した。しかし、アレグザンダーが前著『形の合成に関するノート』の中で分析したように、ツリー構造として設計された都市は、個々の街区が関係性を失い、単一機能しかもたない街区は恒常的なにぎわいを失ってしまった。ようするに各パタン同士が相互の関係性を失い、ほとんどのパタンが想定通りに機能せずに死んでしまっているのである。このような巨大計画の失敗に対し、自然な町は「あたかも、無から突然無名の質が生じるように、共通ランゲージの枠組のなかで何百万もの建設行為が一丸となり生成されていく」。その際、重要なのが、「漸進的にではあるが分化のプロセスと同じような成果を生み出す補足的な第2のプロセスの存在」である。彼はこのプロセスを「漸進的成長」と呼び、次のように説明する。「場所が成長しいろいろなものが少しずつ追加されるにつれ、より大きなパタンの形成を促していく時どの段階をとってもその場所は全一的である―だがこの場合現実の具体的な事物が総体的に発生しているので、全体の幾何学的な規楔は変化し続けるのである。このプロセスによって、単純に分化していくプロセスと同様に、部分がそれぞれの位置に応じて形成されるような全体をつくることができる。だが、このプロセスがそれより強力なのは、より大規模でより複雑な建物の集合体を作り出せることである。そして何よりも、誤りを残さないという点でさらに強力である。すき間は満たされていき、小さな間違いも少しずつ修正されていく。最終的には、あまりにも穏やかでくつろいだものになり、まるでずっと大昔からそこに存在していたかのように思えるのである。そこには粗雑さなどみじんもなく、ただ時間の広がりの中に存在しつづけるだけである」。
「生きている町の成長と再生は無数の小さな行為の積み重ねはってもたらされる。共通ランゲージが消滅してしまった町では建設や設計といった行為は一握りの人間に委ねられていて大げさでぎこちないものになる。だが町に住むひとりひとりが建物や街路の一部をつくったり、公共建物の建設に参加したり建物の一角に庭やテラスをつけ加えたりできれば―その時点で、町の成長や再生が何百万もの行為を合成したものになるのである。町や建物もまた、数々のプロセスの絶え間のない流れである。〔…〕道路が拡幅される。道路が閉鎖される。市場が建設される。新築の家々。建て直される古い家々。事務所に転用される公共建物。街区の一角につくられる公園。路上で踊ったり食べたりする人々。彼らに食べ物を売る露天商。街路を眺める腰掛が設けられる。女の子はお気に入りの場所のためにクッションを縫う。果樹園が満開になる。年寄りたちが、キャンバス椅子を持ち出して花の下に集う。新しいホテルが開業する。農家が取り壊される。バス停のあった一角が、人々の演説の場になる。新築ホテルがタクシーの需要を促し、タクシー会社が待機場を設ける…。これらすべてを導くのは、建物や町やそれらの活動の形成に役立つあらゆる行為が、人々の共有するパタン・ランゲージによって支配されているという事実である。要するに、町が新たな活動を生み出し、古い活動を保ちそれを修正し、また変更していく流れ自体が、共通のパタン・ランゲージによって導かれるのである。〔…〕詳しい細部についてはあらかじめ知ることはできない。人々の共有するパタン・ランゲージから、およそどんな町になるかは分かるかもしれない。だが、その詳細な計画を予測することは不可能であり何らかの計画に合わせて町を成長させていくことも不可能である。個々の建設行為が、そこで出会う局地的な力に自由に適応できるようにするには予測が可能であってはならないのである。〔…〕本質的には、パタンは突如として完全な形で生成されるのではなく、個々の大きなパタンは、長いシーケンスにわたるごくささやかな行為の成果物として生まれる。〔…〕近隣がより大きな近隣パタンを実現する責任を負う際には、「近隣の境界」、「大きな門口」、「子供の家」、「仕事場の分散」などのパタンを用いて地域のパタン・ランゲージを構築する。〔…〕大きな近隣より上位のコミュニティが自発的に形成されようとしている際には、「手近な緑」、「平行道路」、「プロムナード」、「買物街路」などのパタンを用いて、有機的な関係性の構築を手助けする。〔…〕最大級のレベルの場合も「公共輸送」、「網環状道路」、「農業渓谷」、「水への接近」などのパタンを必要に応じて、具現化していく。自治体や都市計画者がすべきことは、あくまでも自然発生的にパタン同士が結合しようとしている際に、その都度助成金の支給や奨励策の施行、許認可の付与といった手助けをすることである」。
無名の質の出現条件:凝り固まったイメージを捨て、無心で、内なる衝動に従う
しかし、現実の世界においては、自らのパタンやランゲージを0から形成するのは難しい。なぜなら、人は自分の判断が「正しい」のかどうか自分ひとりだけでは自信をもてないものだし、既存のあらゆる「概念」というものが、まっさらな状態で感じることを妨げるからだ。しかし、人間自身、あるいは人間が生み出すものに宿る無名の質は、そういった雑念を振り払い、何かを失うことや他者の視線などへの恐れや恥を捨てたときにのみ解放される。アレグザンダーはこのような理想的な状態を黒澤明の『生きる』(1952年)の主人公の中に見出す。「彼は役所の窓口の奥に座り、事なかれ主義で30年を過ごす。その後、胃癌で余命6カ月だと知ると、とにかく生きようと喜びを求めるが大したことはできない。最後に、すべての障害を向こうに回し、東京の薄汚いスラムの一角の公園づくりに力を貸す。死を目前にすると怖いものがなくなる。くる日もくる日も働きつづけるが、何物も彼を止めることはできない。つまり、彼はもはや何人も何物も恐れないからである。失う物がないからこそ、かくも短期間にすべてを得るのである。しんしんと雪の降る夜、彼は自分の手がげだ公園のブランコの上で、歌を口ずさみながら息を引き取るのである」。そして、「自分自身であることへの恐怖、世の中で唯一無二の存在であることへの恐怖イキイキと生きることへの恐怖はみな、特定の仕事や特定の家庭生活に対するイメージを捨て去る恐怖と同様に、まったく無意味なことである」と言い、既存のイメージにとらわれた生き方に警鐘を鳴らす。
アレグザンダーはなぜ、時代が変わっても受け継がれる伝統や出来事・形態のパタンがあるのかを考える。そしてそれは、ある意味ですべての人に共通の、人間の本質のようなものを体現しているからであるということに気づく。「確かに、歴史上の多くの建築様式が何らかの質を共有している。だがそれは、建物が古いからではなく人間が繰り返し建築の根源的な奥義を手に入れようとした努力の結果である。実際良い建物をつくる原理は単純かつ直接的なものである―人間の本質と自然の法則に素直に従うだけの話である。そして、この法則を極めれば極めるほど人間が長い間繰り返し求めつづけつねに同じ結論に到達した、この偉大な伝統により近づけるのである。そして最後には万物の根底に横たわるこの形態が必ず出現する―だからこそ時を超えた建設の道は真に時を超えているのである。建物をよりイキイキさせる方法を学ぶにつれそれによって建物自体の本質に迫まれば迫まるほど必然的にこの時を超えた特性に近づくことになる。これこそが人間が建物の根源に近づくたびに繰り返し発見してきた形態なのである」。様式という概念は、あるひとつの完成されたランゲージではあるが、それは彼にとっては無意味なもので、物事の「奥義」を極めようとした努力の成果のひとつにすぎない。しかし、真に偉大な様式、ないしパタンであれば、誰がどんな道をたどろうとも、決まって同じ場所=結論に行き着くことになる。そうした本質のことを彼は「時を超えた特性」、あるいは「不滅の特性」と呼ぶのだ。しかし、そこにたどり着けるのは、「自分の意図や見解を捨て去り、自分の内なる声に耳を傾けた者」だけである。経済的な合理性やフォルムの格好良さ、あるいはなんらかのイデオロギーなど、表面的な「形」だけを追い求めていては、不滅の特性を備えた建築や町になることはできない。それは、「大手の開発業者が立てる量産住宅はもちろん、フランク・ロイド・ライトやアルバ・アアルトのような「自然派」と目される建築家ですらこの質に到達していない」。しかし、逆に名も無き市井の人々が建てる建物にそれはひっそりと宿っていることがある。不滅の特性を備えたランゲージは時に、自分の凝り固まった固定観念を打ち壊し、「古い感情」を呼び覚ましてくれることがある。「現実をそのまま受け入れることを学んでしまえば もはやパタンそのものは重要ではない。だが、すぐにそうできるからといって、もうランゲージの助けは必要ないなどと、不用意な考えを抱いてはならない。まだ頭の中には、イメージや概念がいっぱい詰まっていて、とても現実を直視できる状態ではない。〔…〕これらのイメージから逃れる唯一の道は、それらをより正確なイメージに置き換えることであり―それこそがパタンなのである。そして最後に、自分自身をイメージから完全に解放することができるのである。このような意味で、ランゲージとは、私が無我と呼ぶ心境に達するための道具なのである。〔…〕それは、まったく平凡なことであり、既に人々の心の中にあるものである。自分自身の最も素朴な最初の衝動こそが正しいのであって、それに身に任せさえすれば、正しい道へと導いてくれるのである。特殊な能力など何も必要としない。それは単に、自分がどこまで平凡なままでいられるか、自分が自然に受容するがままにできるか、自分の本心で感じることをそのままできるか、という問題である」。
アレグザンダーがいちばん大切にしていることは、結局のところ、「自分自身と徹底的に向きあう」ということではないだろうか。
参考文献
- クリストファー・アレグザンダー著『時を超えた建設の道』平田翰那 訳,鹿島出版会,1993.10.(原書:1979),全449ページ
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