ジェフリー・ゴーラー(1965年)『死と悲しみの社会学』

公開日: 更新日:

社会学

この記事をシェアする
  • B!

紹介文

死は誰にでも訪れる。それは、昔も今も変わらない。愛する者を失ったとき、壮絶な悲しみに襲われる。おそらくそれもまた、変わらないのだろう。しかし、「遺族」となった人に対して、いかに振る舞うべきか。その問題に関して、現代社会は「正解」をもちあわせていない。いやそれどころか、死はまるで《口にしてはならないこと》であるかのように、人々は死をひた隠しにする。本書の著者、ジェフリー・ゴーラーは、そのような様を「死のポルノグラフィ」と呼び、その状況の中に生きている現代社会の人々を、自らが行ったインタビュー調査によって描き出している。人々には一見、死の悲しみなどないように見える。しかし、それは単に人前で悲しみを隠しているだけだとゴーラーは言う。彼は「死の悲しみを分かちあえない社会」となっている現状に警鐘をならす。彼自身が、自らの人生で感じた「死をめぐる雰囲気」への疑問を原点とする、「死」をめぐる良書。

本書の概要

「死」。それは、生物に等しく訪れるものだ。人間もまた例外ではなく、フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチの言を借りずとも、それは、国王であっても、場末のバーテンダーであっても、みな同じであることは誰もが知っている。人は死ぬ。それは誰でも知っている。しかし、本書の著者ジェフリー・ゴーラーによれば、「人が死んだとき、どのように振る舞えばいいか」ということは誰も知らないという。子どもがいる家庭で、祖父母が亡くなったとき、子どもになんと言えばいいのか(あるいは「言わない」べきか)。職場の同僚の近親者が亡くなったとき、私たちはどのように声を欠けるべきか(それとも、「何もなかったかのように」接するべきなのか)。現代の私たちの社会は、そうした問題に対する「答え」も共有していない。本書は、そんな「答え」がなくなった社会において、人々が「死」に対して、どのように振舞っているのかを調べた、社会学的な著作である。

病院での死と余命の告知

現代人の死因は、過去の人々のそれとは異なる。がん、心臓病、脳卒中がだいたいの先進国での三大死因となっている(世界全体では、微生物感染症が1位)。このうち、がんはじわじわと身体を蝕み、末期になればもはや手の施しようがなくなる。人々は、「突然の死」に襲われるのではなく、「慢性の死」と向き合う必要に迫られるようになった。ジャンケレヴィッチが言うように、人は必ず死ぬ。その事実から逃れられる人はいない。そうであるからこそ、目の前に突きつけられた「死」には、圧倒的な力がある。それは、人を絶望させ、そして心に恐怖が跋扈する。明確な「余命」を知ることを受け止められるかどうかはその人次第だ。場合によっては、「死」を受け入れて、懸命に「生きる」。そしてあるときは、その絶望のゆえに自らを「死」へと誘ってしまう。だが、その事実を知る瞬間に、衝撃を受けない者はいない。愛する人がそのような事実の中に置かれたとき、彼らに近しい人は、苦悩する。「それを伝えるか否か」と。ゴーラーがインタビューした人の中にも、そのような苦悩に直面した人々がいた。ある婦人は、不治の病にかかった夫にその事実を黙っていたが、その経験について、《夫に嘘をつかねばならないのは、恐ろしいことでした。私は本当に残酷にならねばならなかったのです。夫に多少ぶっきらぼうにしましたが、さもなくば私は参ってしまったことでしょう》と語った。しかもそれは、病院側の意向に従ったがゆえに、いっそう《自分が正しかったかどうか》という疑問が、その後の人生につきまとう。中にはそうした精神的な苦悩に耐えかねて自殺しまう人もいるようだ。

病院という場所は、そうした大きな「他人」がいる場所であるが、《事務職と非熟練労働者の家庭》、《人口5万から10万の小さな町》、《英国教会に名を連ねる人々》は「自宅」で死を迎える傾向が強い。それに対して、若い人やローマ・カトリック教徒は「病院」で死ぬことが普通であると感じている。彼のアンケート資料のみでは《重要な変化であると確信するにたる十分な数字は、まだない》が、彼はここに、死に対する人々の態度の変化を感じ取っている。

死のしるし、死を告げる

イギリスには、ブラインドを下げることによって、通行人にその家が喪中であることを知らせる伝統的習慣がある。この習慣は《中流家庭の3分の2、労働者階級の5分の4》で維持されているようである。彼によれば、ほかにも「哀悼カード」(宗教画および適当な詩ないし(ローマ・カトリック教徒のためには)祈りの言葉で飾られている)や「白いリボン飾りをつけた花ないし常緑樹の枝の輪」を通行人が見やすいように飾ったりするそうだ。しかし、そうした習慣を守るか否かには地域差があり、基本的にグレート・ブリテン島を北から南にいくにしたがって、そして、《専門職階級と事務職階級》において、《家に服喪者がいることを公に示す一切の表示を省く》傾向が強まっていく(数字としては、全体の3分の1が表示を省くという)。

こうした風習は、言葉を用いない間接的なコミュニケーションであるが、それは必ずしも誰かに「死」を告げなければならないわけではない。しかし、「家の中」にはそれを知らせなければならない。この点、特に「死」の意味をあまり分かっていない子どもたちに伝えるとき、大人たちの態度は分かれるようだ。つまり、「直接的に告げる」か、「婉曲的に告げる」か、「詳しく教える」か、「あっさりと済ます」かという問題である。この点、《「私は子どもたちに決して嘘をつきません。私は子どもたちに、祖母が死んだこと、また何で死んだかを話してやりました。また、おまえたちは毎週日曜日に、祖母の墓へ行くことができる、とも話してやりました」》というように、包み隠さず子どもたちに伝える人はもちろんいる。だが、彼によれば、《伝統的にイギリスの親たちは、強く感情に訴えるような大事な問題について、自分の子どもと話し合うことに、当惑を覚える。また、彼らが自分の激しい感情的動揺を子どもの注視から隠そうとするのも、伝統となっている》。それゆえ、「天国へ行った」、「イエス様のもとへ行った」というような婉曲表現を用いてごまかし、それ以上は説明を避ける人々がいる。しかもそれは、《宗教的信念を自分では全然持っていないように見える人々、来世は信じていないし、公の礼拝所には行かないし、自分ひとりで祈りもしない、とはっきり述べる人々》であっても、そうやってお茶を濁しているのである。アンケート回答者の44〔%〕の家庭では、《死について、子どもたちと何も話をしないという傾向がある》。

葬儀に臨むとき:葬り方と服装

調査協力者たちの中には、親族の遺体を荼毘にふす人が多かったようである。それは、土葬の《終極的性格》(棺を穴へ入れて、土で埋めてしまうのには時間がかかるがゆえに、いっそう「これで終わり」という感覚が強くなる)のゆえでもあるが、ほとんどの人は、その方が衛生的であるからそうしているようだ。また、土葬の場合は墓碑にお金がかかるが、現代では《「立派な葬儀」を誇示したり、それに金をつぎ込むなどというのは、完全に過去の話になっている》がゆえに、そこにお金をかけないという理由もある。

葬儀のときには、葬儀にふさわしいとされる特別な服装がある。しかし、《葬儀に参列した際に、遺族であることを衣服の変化によって示した者》は男性では5分の4、女性では半分以下であった。それは、《男性の場合には、喪に服していることを示す伝統的な黒いネクタイ、―そしてしばしばクレープの腕章―が比較的廉価で目立たないのに対して、女性の場合の伝統的な黒ずくめの喪些式は、高価だから》という理由もあるが、それでも、《黒を基調とした服を着たのは、男性では5人に1人、女性では5人に2人であった。さらに、男性の5分の1、女性の半数以上(52%)が、いかなるしるしによっても、遺族であることを公に表示しなかった》ということから、「キリスト教的ヨーロッパの慣例」が衰退していることがうかがえる。女性は男性よりもはっきりと、そして長期間にわたって遺族であることを示すのが伝統であったが、その伝統に従っている人は《45歳以上で、非熟練労働者階級に属し、比較的大きな都市や北西部にやや集中している》。そして、《他地域との差は僅かではあったが、南西部とミッドランドは、葬儀のために衣服に変化をつけなかった人の割合が最も高かった》。

近い「死」を経験する人① 遺族:服喪と哀悼

近しい人が亡くなったとき、人は「喪」に服すものだとされている。日本で喪中に年賀状のやり取りを休止するのも服喪の現れである。それは死者を悼む、悲哀のしるしである。だが、現代の人々は服喪のしきたりのために生活を変えることは少ない。葬儀後のある期間内にあらゆるレジャーを断念したのは、《回答者の5分の1以下であり、イングランドの西半分と、ミッドランドでは、10分の1を僅かに上回る程度》であった。映画や観劇、テレビ、ダンス、クラブ活動などの娯楽は、長くても1週間程度の休止をはさむだけで再開される。交友関係もまた、近親者の死に影響されることは少ない。しばらくの間、友人との交際を減じた人はわずか4〔%〕以下であり、回答者のうち、特に「大都市に住む人」は交際を減らすことがない。回答者の3分の2は《自分たちの社交生活には、死別後何の相違も生じなかった》と考えており、20〔%〕の人々は、《以前よりも多くの友人に会った》と答えた。その態度は、あたかも《誰も死なず、誰も悲しんでいない振りをしようと皆で示し合わせたかのよう》であり、《「何事もなかったかのように」》彼らは振舞っている。

近い「死」を経験する人② 周囲の人々:悔みの言葉と接し方

多くの人は、近親者の死によって友人との交流を中断することはない。だが、その中でもとりわけスコットランドの人は、《友人たちが悲しみに沈んでいる自分を励ましにやって来てくれた》と感じる人が多く、逆に《比較的若年の回答者と大きな都市に住む回答者》は、《以前ほど友人に会わなかった》と感じている。これは、ゴーラーによれば、《隠棲や孤独を望んだというより、むしろ他人から避けられた》がゆえである。

しかし、それは死の「穢れ」を忌み嫌うから、という冷酷な迷信のためではない。そうではなく、それは単純に「どうすればいいか分からないから」という理由である。近所の人、友人・知人、職場の同僚の人々は、遺族である当人が、その人の死をどう受けて止めているのかは分からない。人によっては、深い悲しみのただ中にいるかもしれないし、長年の介護が終わりを迎えて、逆に「ホッ」としているかもしれない。慰めを求めているのか、それともそっとしておいてほしいのか。《社会的・心理的にいっそう適応している》人は、《悲しみのうちにあっても同情を受容できる》が、そうでない人は、かえって他者を拒絶してしまう。

正統ユダヤ教の集団に属する人には、《「あなたの長命を祈ります」という決まり文句で挨拶がなされ、これに対しては返事をしなくてよい》ことになっている。この定型的なスタイルによって、正統ユダヤ教徒たちは、その後いつもどおりに会話をすることができる。しかし、それ以外の社会では、不幸の後で最初に遺族と顔を合わせるときの社会的儀礼が存在しない。「死」は「愛」と結びつくときに最も壮絶だ。失う覚悟ができているか、それともむしろ失うことを望んでいたか。はたまた、二度と戻らない喪失を受け入れられないか。それは、本人の中にしか答えは存在しない。いや、しかしそれは本人にも分からないかもしれない。当初はなんともなくても、後で悲嘆が襲ってくるかもしれない。心底嫌っていたはずなのに、「二度と戻らない」がゆえの郷愁に駆られるかもしれない。それは誰にも分からない。しかし、人間関係において、そこでの間違いは、どこか気詰まりを感じさせ、場合によってはそれが亀裂につながるかもしれない。多くの人は、慰めを喜ぶことができるけど、「間違うよりは、なにもしない」を選ぶ人もいる。

哀悼の波・悲しみの階調グラデーション

遺された者の悲しみの程度は、まさにその人次第だ。全く悲しんでいないことが自分でも分かる人、悲しんではいるが、それを認めようとしない人、悲しいことは確かだが、既に覚悟ができていたため、すんなりと受け入れられた人、悲しさを忘れようとなにか別のことに勤しむ人、端から見てもその悲しみが明らかな人など、さまざまである。ゴーラーはそうした悲しみの階調を描き出し、とりわけ受け入れがたく感じている人の悲しみに、《ミイラ化》や《絶望》という名を与えている(「ミイラ化」とは、亡くなった者の「生の終わり」を引き延ばそうとして、例えば「部屋を片付けられない」、「遺品を処分できない」状態に陥ることであり、絶望は、文字通り生きる希望を失い、すっかり生気が抜けきってしまうことである)。その期間もさまざまで、一定期間が過ぎれば立ち直る人もいれば、《無期限の哀悼》にさいなまれる人もいる。

ゴーラーの見立てによれば、悲哀は3つの段階に分かれる。すなわち、《ショック期間》、《激しい悲しみと混乱の段階》、《再編・立ち直りの時期》の3つである。「ショック期間」は《死から死体の処置まで》、「激しい悲しみと混乱の段階」は《死後、6週間から3ヶ月》であり、《外の世界に対して多くの注意を向けたり関心を抱いたりするのを差し控える。また、しばしば生々しい夢を見たりして、睡眠がかき乱されてゆっくり眠れないとか、食欲喪失、体重減少といった身体的変化が随伴する》。そしてその後の「再編・立ち直りの時期」で《睡眠と体重が再び安定し、外部に対して再び関心が向けられる》ようになる。

秘匿される「死」、「ポルノグラフィ」としての死

だが、「死」に関する人々のこうした態度は、本書の中心的な発見ではない。本書におけるゴーラーの彗眼は、「『死』それ自身や『死の悲しみ』が人々の間で押し隠され、まるで口にしてはならないかのように振舞っていること」を見ぬいた点に発揮されたのである。ある協力者は《「私の子どもの頃よりも今の方が、死の受容はずっと容易になっていると思います」》と言う。伝統的な社会では、誰かが亡くなると《すべては極秘とされ、みんな悲しい沈んだ顔をし、小声で話をするのも》控えねばならなかった。それはたしかに、重苦しいものではあっただろうが、逆にいえばそれは、ゴーラーのいう《明確な行動準則》が存在したということでもあった。しかし、現在では《周りの人のことを考えて、自分の感情を隠さぬば》ならない。それは、誰かが《年端もゆかない子どもの気持ちを動転させてしまったら、子どもは泣き出すでしょうし、自分もそのことで、ずっと惨めな思いをするでしょう》と言うように、《周りの人々につらい思い》をさせないためであり、「遺族」としての自分にどう接していいのか分からない人々の「困惑」を助長させないためである。ゴーラーは、そうやって人々が独りきりで嘆き悲しむ状況を、《脱衣や排泄の時と同じように》と評し、このような「死」の秘匿を《死のポルノグラフィ》と呼ぶ。

ゴーラーによれば、「ポルノグラフィ」とは、《「取り澄まし」の反対の顔、その影》である。それは、「下品さ」とは区別される。両者は共に、《性や排泄に関係している傾向が強い》が、《常にそうであるとは限らないし、どこでもそうだというわけでもない》。「品」とは、社会儀礼上、《異性全体とか、年少の者あるいは年長の者、義父母、社会的に目上ないし目下の者、さらには孫など》のさまざまな個人や集団と対峙するときに期待される、所作や振る舞い、言葉のことで、「上品さ」とはその場でのコードに則った行動であり、「下品さ」とは《通例は人々を不快にし、きまりの悪い思いをさせる言葉や行為》のことである。例えば、家族の前でおならをしても「恥」ではないかもしれないが、それが取引先との会食の場であれば、それは「恥」であり、「下品」ということになってしまう。

だが、「下品さ」とは《普遍的なもの》であり、それは「うっかり」や「口を滑らせて」で起こり得るものでもある。だからそれは、《場違いであったならば、人々をぎょっとさせたり、どぎまぎさせたり、また笑いを引き起こしたり》したとしても、ある意味で許される。お笑い芸人であれば、その「下品さ」を逆手に取り、「笑い」とすることもできる。しかし、「ポルノグラフィ」は、明白な《無礼》であり、《タブー》である。それは《口にできないもの》であり、《ひとりでこっそりと楽しむもの》であり、バレてしまえば、もはやその集団にはいられなくなる性質のものである。19世紀のヴィクトリア朝の時代には、「性」が《口にできないもの》である反面、「死」は非常にありふれていて、《葬儀は、労働者階級にとっても、中流階級にとっても、貴族にとっても、最大限に見栄をはる機会であった。共同墓地は、古い村ならどこでもその中心にあり、ほとんどの町で目につきやすい所に位置していた。犯罪者の処刑が世間への見せしめであることをやめ、その日が公休日にならなくなったのは、19世紀もかなり末になってからである》。

ところが20世紀になると、人間にとってのこの2つの《基本的事実》は立場を入れ替えることになる。エドワード・ショーターが分析したように、「性」の領域には「革命」が起こり、《口にしてよいもの》となった。それに対して、「死」は《身体の腐敗・腐朽という自然の経過〔…〕に耽溺するのは、不健全であり、病気であって、そうしまうと思う者は誰でも制止され、年少者なら罰せられねばならない》ようなものになった。伝統社会では、葬儀の際においおいと泣いてもそれは受け入れられた。しかし、今そうやって泣けば、参列者を引かせてしまう。人は、遺族となってなお《取り澄まして》いなければならない。悲しむときはひとりで悲しみ、あからさまに「悲しみに暮れている」ように思われないよう、交友関係を維持し、以前と変わらず、いやむしろ以前にもまして「忙しい」毎日を過ごしていく。《明確な準則》がないゆえに、代わりにそうした「雰囲気」が社会を覆っている。ゴーラーはそう考えるのである。

死の「抑圧」ではなく、「解放」のための援助を

近代以降の科学の発展によって、公衆衛生や予防医学が進歩したので、《若年層の自然死は、以前と比べてはるかに稀になった》。その結果、逆に《天寿を全うして死ぬ場合を除けば、家族の者が死ぬのは、家庭生活ではわりに稀な出来事となった》。それはある意味で、死を「制御」し、「予測」し得る事実とした。できることなら避けたい「死」は、人々の周辺から引き剥がされ、意識の奥へとしまわれることになった。社会的「出会い」の場で「死」はタブーとなり、家族の間ですら、取り扱いに困るものとなった。

だが、それは人が不死となったことを意味するのではない。人はあいかわらず「死ぬ」。科学や社会の発展は、単純に死の彩りと濃さを減じてきたわけではない。大量の自動車は、「事故死」のヴァリエーションを増やし、都市社会は「殺人」をそっと忍ばせた。突然の死、不幸な死、予期された死、覚悟された死、理不尽な死…。ジャンケレヴィッチの言う「3人称の死」は、マスメディアをつうじて毎日のように、私たちの耳に入る。だが、それは単なる「統計」以上のなにものにも還元されない。しかし、「二人称の死」を「愛」とともに体験するとき、そこには必ず「悲しみ」が湧いてくる。

ゴーラーは、人々の死に対する態度を《秘密主義》と評し、《哀悼に対する社会的承認》が《まきれもなくほぼ消失してしまっている》現実に警鐘を鳴らす。彼によれば、悲しみは《心理学的必然とは見なされず、弱さ、わがまま、不将な悪しき習慣であるかのように》見られている。そして、《気晴らしを与えて当人の気を紛らしてやること、新たな場や経験を求めるよう鼓舞すること、「過去に生きる」のをやめさせること》といった《遺族の心を悲しみからそらしてやる行為》が《友人や好意を寄せる人が取るべき適切な行為》ととらえられているのではないかと彼は、考える。たしかに、人々は気高に振るまい、「何事もなかったかのように」日常を取り戻しているように見える。しかし、それは彼にとって、死を直視せず、ただひたすら意識しないように「抑圧」しているにすぎない。彼にとって、彼の言う「ミイラ化」や「絶望」は、死という避けられない「基本的事実」への不適応であり、いつかは受け入れ、乗り越えていかなければならない現実に対する対処方法を知らないがゆえに起こる《社会的に望ましからざる結果》である。「愛する者の死」を前にして、自他共に悲しんでいないように見えるのは、単純に「悲しくないから」そう見えるのではない。そうではなく、《悲しみを外に表わすのを拒むために、彼らは自分たちの生活を些末なものにしてしまっている》にすぎないのだ。彼は、心臓発作で倒れている父親を発見し、そして亡くしてしまった少年が、《自分の恐ろしい体験を決して口にせず、母親がそれについて彼と語ろうとしないで、誰か他の人がそうするのも快く思っていない》さまを見て、《少年の体験を触れてはならないものとしたことによって、彼の心がいたく傷つけられたことは、ほとんど疑う余地がない》と述べている。

ゴーラーはそうしたとき、《遺族は、幼少期以後の他のいかなる時にもまして、社会的な支持と援助とを必要とする》と考える。その支持と援助とは《彼らが苦悩を表に出してそれを切り抜けるのを補助すること》にほかならない。しかし、現代の社会は《明確な準則》がないゆえに《支持と援助を与えることがほとんどできないでいる》。だが、そうした社会は《その多くの成員のうちに、適応不良の神経症的反応を生み出しつつある》と彼は述べる。宗教を核とした社会は、遺族に対し《宗教的行為を織り込んだ社会的儀礼によって、支援と慰め》を与える。そのかたちは宗教によってさまざまで、《ラド川流域のモハービ族におけるように、4日間だけ集中的に喪を営むというのから、果ては、古代中国やインドのヒンズー教徒におけるごとく、寡婦に一生涯の隠棲を強いるとか、古代のエジプトやペルーのミイラ保存まで、ありとあらゆる期間の儀式・儀礼があり得る》。だが、現代の都市社会では、そうした宗教の力は風前の灯となっているし、悲しみの度合いはその人の気質などにもよる。だからこそ、必要なときに、その人を支えられるよう、《遺族・親族・友人・隣人たちのための世俗的な哀悼儀礼となるようなものを社会のうちに創り上げていく》ことが必要だと述べ、彼は本書を締めくくるのである。

ある男の「死の経験」

ゴーラーは、本書の冒頭で《自伝的序文》と題し、自らの「死」の経験を回想している。人は年月を重ねるごとに、周りの人々の「死」を経験していく。彼に《ほとんど物理的とも言える衝撃》を与えた、第1次世界大戦での父の死と夫の死に直面したときの母の言葉。彼の弟に深い悲しみを与え、《憂鬱、憔悴、かなりの無気力状態》に陥らせた義理の妹の死。夫の死後2ヶ月程して訪問したとき、《私(ゴーラー)が家に来てくれた最初の客である》と言った、《社会的にはほとんど全く孤独のうちに打ち捨てられていた》、親友の妻。そうした彼にとって忘れることのできない「死」がそこでは語られる。本書を読み終えてから、改めてこれらのエピソードを見返してみると、あるひとつの事実に気づくことになる。そう、「死の悲しみをひた隠しにし、《口にしてはならないこと》とした態度」、「愛する者を失って、心理的に打ちのめされ、身体にも不調をきたすようになった人の姿」、そして「誰にも慰めを受けることのない孤独」といった本書の主題は、すべてゴーラー自身が経験した人の姿だったのである。「訳者あとがき」において、宇都宮輝夫氏は、本書を《本書は学術専門書とは呼び難い。なされているのは観察事実の分類整理であって、〔…〕抽ぎ出された結論も単なる印象記という感を否めない》と評しているが、それでもなお《ゴーラーの著作の価値は私の浅薄な批判によっていささかも減ずるものではない、と確信できる〔…〕翻訳出版を決意したのも、その価値を認めたためである》とゴーラーの功績を讃えている。「客観的になんらかの事実を証明できるわけではないが、それでいて人々を納得させ、共感せざるを得ない『力』をもつもの」のことを人は、「文学」と言う。「学者」としては賛同しかねても、「人」としては共感し得るなにかを秘めたもの。本書がそのような存在であるならば、本書もまた、ひとつの「文学」なのだろう。

1、3、2、1人称の死

私は、幸いなことに生死の境をさまよったという経験はしたことがない(そして、これからも御免被りたい)。それゆえ、私の「死の経験」は、多くの人と同様に、専ら「他人の死」についてのものである。とはいえ、私の記憶にある最初の印象的な「死」は、小学生のときにふと頭に浮かんだ「1人称の死」だった。「1人称の死」とは文字通り「私」の死のことであるが、ようするに「自分は死んだらどうなるのだろう」という、空恐ろしい疑問である。今ある自分の意識は消滅し、二度と目覚めることはない。まさに、「世界」の終わりである。はじめて「死」を考えたときの、言いがたい気味悪さと恐ろしさは、今でも覚えている。

しかし、人間にとって「1人称の死」はなによりも重要で、身近なものであるはずだが、日常生活の中で意識されることはほとんどない。私も同様に、「死」は自分にとって縁遠いものになっていった。だが、私も成長するにしたがって、マスメディアをつうじて徐々に社会の情報を耳に入れていくようになる。そこで増えてきたのが、「3人称の死」である。3人称というと、文法的には「彼」、「彼女」、「彼ら・彼女ら」という語が浮かんでくるかもしれないが、私は「3人称の死」とは「名前も知らない人の死」、「ニュースで流れてくるような、自分には実感の湧かない、情報としての死」のことであると理解している。交通事故や殺人事件、テロなどで多くの人の「死」が伝えられるが、だからといって、それが「1人称の死」を呼び起こさせることもなく、それは日常の雑多な情報の中に埋もれていってしまうものである。人にとって、「1人称の死」と「3人称の死」は、実は自分にとって実感の湧かない、縁遠い「死」なのだと思う。

だが、私にとって印象的な「死」が大学2年生のときに訪れた。それは、同期入学した級友の死であった。正直に言って、その人と私とはあまり接点がなく、話したことすらない関係であった。しかし、学科のメーリスで「彼」の訃報を聞いたときの衝撃は、忘れることができない。そのときは、祖父母ともに健在で、私は葬式や告別式というものを経験したことがなかった。それが、いきなり、自分と同年代の人の死を経験することになったのだ。「最期の瞬間、彼はどんな思いだったのか」、「どうしてそんなことになってしまったのか」、「死は本当に、なんの前触れもなく、突然訪れるものなのか」…。そんなことが頭の中でぐるぐると回り、気を動転させつつも私は、「1人称の死」を強く意識させられた。「級友の告別式に行くことになった」と母に打ち明ける際に何度も感じた「ためらい」もまた忘れることができない…。

ジャンケレヴィッチは、「1人称の死」、「3人称の死」のほかに「2人称の死」という言葉を生み出した。私のイメージでは、文法的に2人称とは「あなた」を指すものであるが、そのイメージで考えると「2人称の死」のニュアンスをとらえづらい。「2人称の死」とは、本質的に「自分に『死』を実感させる死」のことである。それは、自分の家族や友人など、互いに親しいと思っている人の死もそうだが、必ずしも面識がある必要もない。それは、自分のよく知っている芸能人でもいいし、大災害やテロに巻き込まれての死といった、「自分のよく知る死」であれば、名前は知らなくても、「友達の友達」の死もまた「2人称の死」である。

私が人生経験を積み重ねていく中で思うことは、「2人称の死」が多くなってきたということである。「同級生のおばさんが、東日本大震災の津波に飲み込まれて亡くなった」、「有名な芸人が交通事故で亡くなった」、「自分のよく知っている声優さんが亡くなった」、「先輩の奥さんのガイド役を務めるはずだった人が、テロの現場に居合わせて、すんでのところで殺されるところだった」…。そんな話を聞く度に、「自分もそうなるかもしれない」という「私の死」が、否が応でも掻き立てられる。「自分もいつかは死ぬ」という当たり前のことを突きつけられるのだ…。

死の孤独、死と孤独

ウルリッヒ・ベックの言うように、現代のリスクは、決してこの「私」を例外とはしてくれない。とりわけテロの危険性は、誰しもに等しく分け与えられている。そんな社会において、突然の死は、その気配を感じさせながら、常に私たちの周囲を徘徊している。自分が犠牲となるかもしれないし、「遺族」となるかもしれない。だが、そのような惨劇にはひとつの大いなる「皮肉」があるとも受け取れる。なぜなら、遺族となってしまっても、そこには「仲間」と「味方」ができてしまうからだ。被害者同士のネットワークやNPO、行政の支援によって、ゴーラーの言う《社会的な支持と援助》を受けることができる。だが、いっぽうでそうした「特別の死」ではない「死」は、ゴーラーが言うように《社会的な支持と援助》を期待することができなくなっている。私はどこかで「浮浪者の人々は、『ハウスレス』であると同時に、文字通り『ホームレス』となってしまっている」という言葉を聞いたことがある。物理的な「家」だけではなく、心理的な「家」もまた失われているということだ。エドワード・ショーターが言うように、現代の家族関係において、とりわけ子どもが親からの自由を求めるようになり、成員間の紐帯や親密性は弱くなってきている。都市の人々は、自由を求め、互いに干渉しあったりはしない。「血縁」はもとより、「地縁」でもなく、互いに気の合う「友達」と好んで交流する。だが、そういう「友達」であるがゆえに、「死」という「個人的なもの」の悩みを相談することはできない。ゴーラーは、「死の悲しみに暮れる人を周囲の人が暖かく支える社会を」と言う。しかし、むしろ現実は「そもそも、そうした悲しみをぶつける可能性のある人がいない」という状態になってきているのではないだろうか。人は、「1人称の死」も「2人称の死」も、「孤独」のうちに経験せねばならない現実が、そこに横たわっている。その「石」に躓きそうになったとき、そして躓いて立ち上がれなくなりそうなとき、それを支えてくれるのは、「自分」なのだろうか、それとも「家族」や「友人」なのだろうか。

近代化の特徴のひとつである個人主義は、必然的に「自由」の概念に結びつく。自由とは「他者に巻き込まれないこと」である。愛する者を失った悲しみ。それは、その人を愛していなければ分かり得ない、「個人的なもの」だ。人々は互いに自由である。だからこそ、自らの「個人的な」悲しみに人を巻き込むことができない。ゴーラーの「死」をめぐる議論の根本には、「近代化」が成熟する過程における「人間関係の変化」がある。彼の語り口は、非常に「文学的」だ。それゆえに、「他者の『都合』を許容する温かい社会をもう一度」という感傷的な言葉を受け入れそうになる。しかし、それを「現実」を見ながら評してみると、それは多分に社会学的な問題であることに気づく。「死の孤独」もまた、近代化の極致としての再帰性が見せる、ひとつの姿なのだ。私は、「悲しみを受けとめる」のは、「究極の自分」を曝け出せるところまで踏み込んではいない人ではないと思う。ゴーラーの主張は、ひとつの「文化」の創造である。そのためには、多くの人の共感と協力が必要となる。しがらみから解放され、個々がそれぞれの生を生きるようになった社会で、ひとつの文化を生み出そうとするならば、そこには相当な「戦略」が必要だ。それは、単なる「運動」に終わってはならない。「人の悲しみに寄り添えることを」というスローガンは、多分に道徳的で、社会の中で生きたいと思うのであれば、拒絶することはできない。だが、それは改めて言われると「しらけ」を生む。「自由」を拡大してきた「歴史」が、抗いがたい力をもっているとするならば、「悲しみを受けとめる」のは、専門的にその役割を担った人なのだろう。そしておそらく、「行政」や「NPO」、「ボランティア」という「外」の人たちが、その役割を引き受けていくのだろう。私はそう思うのである。

参考文献

  • ジェフリー・ゴーラー著『死と悲しみの社会学』,宇都宮輝夫 訳,ヨルダン社 ,1994.11.(原書:1965), 全273ページ

自己紹介

自分の写真

yama

大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

このブログを検索

QooQ