イヴァン・イリイチ(1981年)『シャドウ・ワーク:生活のあり方を問う』

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哲学・思想

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紹介文

本書の著者、イヴァン・イリイチは、「ヴァナキュラーなもの」が衰退し、人々の生活は「労働」と「シャドウ・ワーク」に占領されていると言う。「シャドウ・ワーク」とは、通勤・通学や学生の試験勉強、家事・育児など、産業社会を支えるために不可欠な行為のことだ。しかし、それは「しなければならない」からやっているだけで、それをこなすこと自体には喜びはない。イリイチは、産業社会の生み出す「ニーズ」に従属させられている人々のライフスタイルに鋭い眼差しを送り、そこに人間疎外を見出す。そして、そうした社会のあり方は、「発展=開発」の名のもとに、発展途上国にまで侵攻し、さらに「ヴァナキュラーなもの」を破壊しようとしている。思想家イヴァン・イリイチがそれまでの人生の中で繰り広げてきた、諸分野(医療、教育、交通)への批判を統合し、より広く、「現代文明」にまで考察の域を広げた、イリイチの代表作。

本書の概要

本書は、思想家イヴァン・イリイチがそれまでの人生の中で繰り広げてきた、諸分野(医療、教育、交通)への批判を統合し、より広く、「現代文明」にまで考察の域を広げた、イリイチの代表作といえる書である。彼によれば、現代先進国社会=産業社会の人々は、自身の欲求や生にではなく、社会の生み出す「ニーズ」に従属させられている。いわゆる「疎外」の問題だ。そして、「そうした社会のあり方は、先進国だけに留まらず、先進国による「開発」によって、途上国にも波及していっている現状がある」と彼は警鐘を鳴らす。伝統的な社会は、先進的な社会の「侵略」によって、確実になにかを失っていった。その失ったものを彼は「ヴァナキュラー」と名づける。そして、その「ヴァナキュラー」の代わりに人々は、「労働」と「シャドウ・ワーク」を押しつけられると彼は言う。それでは早速、内容に入っていくことにしよう。

ヴァナキュラー:人間存在の、真に根源的な欲求

イリイチは《人間生活の自立と自存》が脅かされていると言う。その主張のキーワードとなるのが「ヴァナキュラー」という言葉である。ヴァナキュラーとは、彼によれば、《「根づいていること」と「居住」を意味するインド‐ゲルマン語系のことばに由来》し、《ラテン語としての vernaculum は、家で育て、家で紡いだ、自家産、自家製のもののすべてにかんして使用された》。それは、《交換形式によって入手したものと対立》し、《自分の妻の子、奴隷の子、自分が所有する家畜のろばから生まれたろばは、ちょうど菜園や共用地からとれた基本的な生活物資のように、ヴァナキュラーな存在である》。この言葉を理解するうえで重要なのは、行為や言葉によって表現される欲求が、自発的なものであり、義務感やペナルティへの恐れ、無作為による将来への不安によらないということである。私たちが現在生きている《市場集中社会〔規格化された生産物の社会〕》において、人々は労働に勤しみ、労働の対価として賃金を受け取り、そしてそのお金で自分にとって必要なものを購入(=交換)する。しかし、そこには個々人の人間的なつながりは希薄で、人々はただ粛々と「価値あるもの」同士を交換しているだけである。同じジュースが手に入れば、A店でもB店でもよく、このレジで買っても、隣のレジで買っても同じである。企業は、個々人の事情を考慮せず、ただ「より売れるところ」に商品を多く配分し、売れないところには商品を配分しない(それは欲しい人がいても、費用対効果が悪ければそうである)。しかし、ヴァナキュラーな欲求によって生まれたものや行為は、より人間的なつながりの中で生まれ、その人をより心理的に満足させる。単にレトルトのカレーを買ってきて子どもに食べさせるよりも、素材を自分で育てたり、知り合いに譲ってもらったりしてカレーをつくってあげる方が、同じくらい喜ばれたとしても、後者の方が嬉しい。このように、ヴァナキュラーとは《生活のあらゆる局面に埋め込まれている互酬性の型に由来する人間の暮らしであって、交換や上からの配分に由来する人間の暮らしとは区別されるもの》なのである。

人々は働く、なぜなら、働いて財やサーヴィスを生産し、市場に貢献しなければ、自分の生活は立ち行かないからだ。人々は市場に組み込まれ、そこから逃れることは難しい。資本主義産業社会において、その社会の良し悪しを測るのは、ひとえに「市場規模」であり、経済学の指標や専門用語である。例えば、その社会におけるカレーの価値を測るのは、レトルト・カレーやカレー店の売り上げ、ないし消費量であり、カレーを食べているときに交わされる会話やカレーによって生まれる人間関係ではない。ヴァナキュラーな欲求にもとづく行為とは、このように《性質上、官僚的な管理》からまぬがれていて、《人々が日常の必要を満足させるような自立的で非市場的な行為》なのである。それは市場を評価するためにつくられた「量」(=数値指標)によって表現できるものではなく、《計量されえない必要の充足》たる「質」である。イリイチにれば、こうしたヴァナキュラーな価値を《経済的生産に対立する社会的生産、商品の生産に対立する使用価値の生成、市場経済学に対立する家政経済学》などの用語で表現しようとするのは、土台無理な話で、《あるイデオロギー的偏見が染みこみ、それぞれにどれもひどい欠陥がある》。ヴァナキュラーな仕事は、決して《賃金を支払われない、規格化され標準化された諸活動》ではなく、市場的な経済行為とは質的に異なる行為なのだ。

シャドウ・ワーク:(市場)社会の隠れた「前提」

ヴァナキュラーな行為は経済指標として表面に出てくることはない。しかし、彼によれば、同様に表面には現れることのない行為があと2種類存在するという。それが「闇市場」と「シャドウ・ワーク」である。闇市場とは、文字通り非合法な市場であって、そこでの取り引きが犯罪とされ、取り締まりの対象となるがゆえに、秘匿にされている。しかし、闇市場はあくまでも市場の一種であり、物品やサーヴィスには対価が支払われる。この点、《市場がヤミになるのは、市場が税務官庁の手を逃れるからであり、市場法則をまぬがれるからではない》。だが、人々の行為の中で確実に「市場」に貢献するにもかかわらず、その対価が支払われることのない領域が存在する。それが「シャドウ・ワーク」にほかならない。彼は、「通勤・通学」、「生徒・学生の試験勉強」、そして「(女性の)家事労働」といったものをシャドウ・ワークの例として挙げる。これらの行為は、現在の市場・産業社会を下支えし、不可欠のものであるにもかかわらず、その対価が支払われることはない(=報われることがない)。どんなに遠くから通勤・通学しようとも(通勤費が支給されることはあっても)、その時間は「労働時間」には含まれない。小学校から大学に至るまで、子どもたちが乗り越えなければならない数々の試験(勉強)は、「将来の人材を供給する」という意味で市場に貢献しているが、結局、子どもたちは現在の社会制度への「良い適応」を身につけるだけで、肝心の内容はあまり思えていない。家事労働は、それを市場で調達しようと思うと、年間数百万円~数千万円かかるとも言われているにもかかわらず、無償である。彼の引用したニュースによれば、《最近の産業社会のあらゆる財およびサーヴィスの3分の1、半分、あるいは3分の2さえもが、合法的であれヤミであれ、市場の外部で、家事、個人的研究、通勤、買い物、その他の支払われない活動によって産み出されている》という。

シャドウ・ワークは、イリイチにとって《懲役はもとより奴隷や賃労働とも異なる独自な束縛のかたち》である。懲役は、ある行為の報いとして「国家」という主体によって課される束縛だ。奴隷という身分は、奴隷の所有者によって課される身分であるが、そこには一定の「不当性」が存在しており、反抗や逆襲の中に正当な自由が残されている。だが、シャドウ・ワークは、言ってみれば、誰を恨むこともできない。それはひとえに「社会」が課す束縛であり、シャドウ・ワークをまっとうすることができなければ、誰を責めることもできずに、社会から排除され、そして死んでいくだけである。

シャドウ・ワークと近代家族

前近代的な農村社会において、仕事はヴァナキュラーなものであり、そこに「賃金」は存在していなかった。むしろ、賃労働は自らの生産手段をもたない者の《貧窮の証明》であった。しかし、17世紀と19世紀のあいだに西洋で近代化が推し進められるようになると、逆に賃金労働者の方が多数派となり、賃金は、《有用なことの証しと認められるようになった》。賃金こそが《くらしの本来の源泉》となったのである。大多数の人々は、雇用され賃金を受け取ることができなければ生活が成り立たない。そこで家庭は賃金の獲得のために、そのあり方を変えていくことになる。それが、「男性は仕事、女性は家事・育児」という性的役割分業にもとづいた近代家族にほかならない。エドワード・ショーターが述べたように、農村社会においても、たしかに女性は家事・育児を担っていたが、それ専任というわけではなく、やはり労働の役割も担っていた。そして、農具の手入れなどは男性の仕事であった。イリイチにとって、この農村社会の生活はヴァナキュラーなものであり(過酷な労働に耐えなければならないとしても)、そこには《生活の自立と自存》が存在した。しかし、自らの生産手段をもたない人々が企業で労働に勤しむ際には、農村社会にはあった「自由」がない。彼にとって、賃金で生計を立てている人々とは、《生活の自立と自存に支えられた家をもたず、自らの生活自立を基礎づける諸手段を奪われており、他者になんの生活自立の助けもできないことの無能を感じている人たち》であり、《雇用主の利益と資本財への投資のためになされる、他者による搾取の誘因》であった。

この「仕事」から「労働」への移行は、何の変化によってもたらされたのか。彼によれば、それは男女の本質に関する言説によってもたらされた。つまり、女性は《もともと家事労働をする運命》にあったし、男性は《賃金への依存度を高める家族の長として、社会が正当とみなす労働のすべてを負わされ、しかもそれを不生産的な女性から絶えず強要されている》という、哲学者と医者の共犯によってつくりだされた言説である。これがまさに、近代的な性的役割分業観であり、それによって、《女性はいまや、無償のしごとをなすための家庭という避難所を必要とする、男性の美しき所有物、その忠実な支えとなった》。そして、このような理屈は、《生物学》、《「社会的再生産」との混同》、《経済モデル》、《フェミニスト主流派の盲目》によって、正当化されたり、論点がぼやかされてしまっている。

生物学的な正当化とは、先程述べたように《男性はなによりもまず生産者であり、女性はなによりもまず私的な家庭内で生計をやりくりするもの》という認識こそ、「自然」であるとする主張のことである。

「社会的再生産」とは、「子どものしつけ」など、ある社会や文化の習慣や規範を継承し、将来にわたって社会の安定性を維持するための行為のことであるが、マルクス主義者たちは、この言葉を《自分たちの労働観念に合致しないような活動ではあるが、たとえば賃金労働者のために家を守るといった、必ず誰かがしなければならない種々雑多の活動》を指すのに用いた。だが、本来「社会的再生産」は、《多数の人々が多数の社会においてほとんどつねに行なってきたこと、すなわち、生活の自立・自存の諸活動に適用されている》ので、なにも近現代に特有のことではない。このような混同が《女性が産業的労働の両生産のために無報酬で徴用されることとの違いを把握しようとするとき、そのすべての試みにとっての妨げとなっている》と彼は言う。

現在の経済学では、《貨幣で測られる市場の外部にある大小さまざまの雑多な行動様式》を合理的選択の結果であるとみなしている。古典的な経済学においては、《商品の消費がどれも必要の充足を暗に意味するものであるというわかりきった結論》にもとづいて人間の意思決定を解釈していたが、新しい経済学者たちはそれをさらに突き進めて、《犯罪、レジャー、学習、生殖、差別、さては選挙の行動様式に関する経済モデルを組み立てる》。それは「結婚」も例外ではなく、したがって近代的な家族のあり方は、「個人が自由意志によって合理的に選択したもの」とされる。「自分がそうしたいと思ってそうしたのだから、その副作用や不都合によって誰かを責めることはできない」というわけである。

女性の家事労働について主張するフェミニストたちは、それが重労働であるにもかかわらず「無償」であることを批判している。彼女たちは、《女性の仕事が「非生産的」でありながら、しかも「本源的蓄積の秘密」の主要な源泉》をなしていると考えており、《専業主婦を賃金稼得の家長に結びつけている》。その際に問題となっているのは、「賃金」という問題であり、「労働の疎外性」そのものではない。イリイチにとって、そもそも「男が賃金を稼ぐもの」という男性観もまた、産業社会の推進者によって生み出されたものであり、そうした性的役割分業観を受け入れてしまっていては、《19世紀の陰謀》を根本的に批判することはできない。そうした状況を彼は、《盲目》と評するのである。

シャドウ・ワークと人々の無力化

現在の産業社会において、多種多様な業界が存在し、そこに雇用が存在しているのは、ひとえにその職業に社会的な需要=ニーズがあるからである。その仕事は、まさに「必要」だから存在している。しかしそれは、人間の生存にとって不可欠であるわけではない。小難しい思想の助けを借りずとも、企業経営の世界において「ニーズを創り出す」という言葉は、非常に日常的な言葉となっている。それはある意味、社会全体による「共犯関係」と言ってもいいかもしれない。そこには、「人間は、常により『便利』で、より『豊かな』世界を欲しており、そうした『進歩』を希求することが人間の人間的たるゆえんである」との考えがある。本文中の言葉で言えば、《人はすべて生まれながらに定めもっているあの人間性なるものに達するために、専門家からの制度的サーヴィスを必要とする。人間とはそのようなふうに生まれついているものなのだ》という考えである。イリイチによれば、こうした考えは《カロリング朝時代にまでさかのぼることができる》。人間の根本的なニーズを「発見」したのは、教会の聖職者たちであった。彼らは《教区民の個人的なニーズを世話し、〔…〕牧会神学が聖職者たちの定期的なサーヴィスにたいするニーズ》を定めた。やがて人々は、《母なる教会という制度の名のもとに、専門家によって提供される個人的サーヴィスなしには救済というものはありえないという考え》に適応させられ、聖職者たちへの依存を内面化していった。専門家への従属は、人々を無能力とし、それでいて《それなしですまそうとすれば必ず永遠の生命が危険にさらされる》と人々に信じこませた。そこには、「他人が決めたルールに、盲目的に従属させられる人々」と「勝ち目しかない勝負に勝ち続ける人々」しか存在しない。

言語の支配

誰かが提供するサーヴィスは自分にとっても不可欠であり、それを拒否すれば社会の落伍者となる。ニーズの必要性を訓化によって内面化させることは、ヴァナキュラーなものを破壊する。そのとどまることを知らない進軍を見せる領域のひとつに、「言語」がある。彼は、《標準語による民族語、黒人の言語、南部未開地の言語〔人種的、民衆的、地方的表現〕の衰退》に警鐘を鳴らす。彼によれば、《たいていの文化では、話しことばは日常生活に埋めこまれている会話から、すなわち喧嘩と子守歌、うわさ話、物語、夢に耳を傾けることから生じた》。だが、国家の中枢は人々に標準語を教えこみ、それを自由に使いこなすことができなければ、それはその人々の無能力に責任があるとみなす。人は言葉によって思考し、それをもって他者とコミュニケーションを図る。それゆえ、まず第1に標準語の教育は、その人の思考パターンの枠組みを決めてしまう。また、単語=観念の意味やニュアンスがよく分からなかったらり、知らなかったりして、それを上手く用いることができなければ、コミュニケーションにおいて劣位に置かれてしまう。それは、言語を習得できた者には、標準語の世界における規範を内面化させ、できなかった者に、劣位に置かれる事実を納得させるものとして機能している。

資本主義の言語=宣伝は、裕福ではない村の人々にコーラやスマートフォンを買わせる力をもっている。拡声器を用いた企業による市場開拓は、ヴァナキュラーな会話に彩られた音景をかき消し、けたたましく行われる。それとは逆に、裕福な人は、静かな住宅街に家を建てることでそうした喧騒から逃れられる。そうした状況は、彼にとって貧乏な人々に対する《攻撃》であり、金持ちは《沈黙を買う》特権を有している。沈黙はもはや《不可欠なぜいたく》であり、それを享受するのには《権利》が必要になってくる。そして、そうした宣伝の言葉は、イリイチにとって非常に味気ない。《ニュースのアナウンサー、ギャグ作りのコメディアン、教科書解説の教師用手引にしたがう教師、機械的な韻を踏んで歌う歌手、代作してもらった大統領》の言葉は、失敗のないよう研究され、「正解」とされる(定型的な)文言のパズルでしかなく、決して生きた人間の言葉ではない。そうしたメッセージは《朗読することで金を払われている人々の死んだ非個性的修辞法》であるだけで、単なる《おしゃべりという仕事を割り当てられたラウドスピーカー》である。彼にとって「書き言葉」は、そうした機械的で生の言葉を疎外する言語の象徴である。識字率は文明化の度合いを図る格好の尺度であり、読み書きのできない人が「エリート」と認識されることはない。エリート言語=標準語の支配的地位は、《書くという技術によってつねに強められた》。400年前のスペインでアントニオ・ネブリハという人物が初めて母語教育の「必要性」に気づき、それを実行しようとしたとき、彼にはひとつの懸念があった。文字は言葉を定着させ、時間的・空間的に言葉=メッセージを届けることを可能にする。読書とは本質的に《沈黙の行為であり、ふつうはこっそりと行なわれるべきもの》である。「こっそりと、為政者たちのうかがい知らぬところでヴァナキュラーな言葉を共有する者たちがコミュニケーションを図り、結束してしまったら、かえって反抗を招くかもしれない」。ネブリハはそう心配したが、それは結局、杞憂に終わった。なぜなら、《標準語で書かれた書物は、その語を学校で教わらなかった人々にとって、読もうと思っても容易に読むことができないもの》であり、多少の読み書きができたとしても、その内容を理解しするまでには至らないからだ。イリイチにとって《多少の文章を読んで、それを書き写すという普遍的な能力を強化すれば、人々が図書の中味へと近づく機会が増える》というのは単なる《幻想》であり、母語教育は民主的社会を実現するための必要条件でもなければ、ヴァナキュラーな人々の社会的地位向上のためでもなく、単に《教師の地位を高めるために、輪転機の売り上げを増すために、人々をその言語コードによって段階づけることを強化するために、さらにまた現在までGNPを増加させるために、利用された》にすぎない。

科学、学びの喪失

総じて、産業社会に従事する人々の行動は、「意図をもった設計」によって統制されている。知識や情報、技術はなんらかの目的や機能を果たすために、エリートによって設計され、実際にそれらを利用する人々は細かい事情を知らずにただ、決められた枠内で実行すればよい。イリイチは、人の学習に関して、「探求行為」と「R&D(研究開発)」とを区別する。「探求行為」とは、《自分たちに直接役立つ道具や身近な環境をつくり、それらを改善し、美しくすることにもっぱら意を注ぐ》行為であり、「創造の喜び」をともなったヴァナキュラーな行為である。しかし、後者にはそれが存在しない。人々は出した「結果」によってのみ評価され、その行為の価値は、結果の有用性によって決まる。たとえ、自分自身が「すごい発見をした!」と喜びを感じても、それがもう既に他人によって明らかにされている場合、評価されることはない。「他者に認められない」という事実があるだけで、それは「自己満足」となってしまい、意味がないことになってしまう。探求行為は、それ自身が目的であり、喜びの源でもある。彼は、ポレマンスという人物の《民衆によるサイエンス》という言葉を引き合いに出す。「民衆によるサイエンス」とは、《人々が市場や専門家への依存を増すことなく、日々の諸活動の利用上の価値を高めるためになされる探究行為》である。その言葉の中で、学習は単にさまざまな言葉を覚え、試験に合格し、就職して、日々の生活の糧を得るための行為ではない。それはイリイチの言葉で言えば、《生き生きとした共生(コンヴィヴィアル)》である。概念や知識は少数の専門家の独占から逃れ、多くの人々によって批判的に吟味される。それは、専門家を「信用」するしかない状況とは大きく異なり、真に民主的な世界の基盤となる。

発展=開発という「明白なる運命」

近代社会は、進歩こそが人間の目指すべきものであり、より良いものへの「変化」は当たり前に善であった。国家や社会の中央にいる人々は、取り憑かれたように、その行為の抱えるリスクを考えることなく、「発展=開発」を推し進めた。1960年代には、《「発展=開発」は「自由」や「平等」と肩を並ぺる地位》を得て、《他の民族の発展を進めることは、金持ちたちの義務と責任》ですらあった。しかし、その結果はジェイン・ジェイコブスやピーター・ブレイクなどが批判したような、環境破壊、コミュニティの衰退、都市の荒廃を招くことになった。エリートたちが頭の中で思い描いた理想は、現実のものにはならず、ただ彼らの理性の無能さを明らかにするだけであった。

高速道路の建設によって、自然が失われ、それが人々の生活の豊かさを喪失させた。こうした「外部不経済」は非常に分かりやすい「発展=開発」の負の側面である。しかし、イリイチはそれだけではなく、実はその行為によって必然的に負わねばならなかったリスクにも注目する。例えば、高速道路ができたために郊外に家を建てる人々が増えたが、彼らは長い時間を通勤・通学に割かなければならなくなったということや、密度の低い地域で公共サーヴィスを確保するために高い税金を払わなければならなくなったということである。イリイチはこれを《逆生産性》と呼ぶ。逆生産性は《購買された商品のまさに使用の「内側で」生じる新たな種類の失望》にほかならない。都市開発の当初の目的は「より多くの人に良好な住宅や住環境を提供すること」にあっただろう。しかし、件の開発こそが《大部分の顧客にとって手の届かないものにしてしまった》。真に良好な住環境は、裕福な人々にしか手に入らないものとなったのである。《新たな「満足」を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった。もしラッシュアワーの時間帯以外に通勤できる身となれば、その人は既に成功者であるにちがいない。自宅で子供を産める身となれば、そのひとはおそらくエリート校に通える身分でもあるにちがいない。もし病気でも医者にかからずに済ませられるとすれば、そのひとは他にはない特別の知識に精通していることだろう。もし新鮮な空気を吸うことができるとすれば、そのひとは金持ちで幸運なひとに決まっている。もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、その人は本当に貧しいとは言えないのだ》。

開発を正当化する目的のひとつである《完全雇用という問題も、再検討されなくてはならない》。彼にとって、「雇用」の名に値する仕事に従事するのは決まって「男性」だけで、女性は諸々のシャドウ・ワークを押しつけられ、統計の頭数には入っていなかった。ニーズが生み出され、それに応えるために雇用が創出される。だが、企業は絶えざる競争を生き抜くために合理化を余儀なくされ、テクノロジーの進歩などによる省力化を推し進める。生み出されたニーズは、まさに経済それ自体の存続のため、自己目的として生き残る。もしブラック業界の象徴のようになっている外食産業などが、ある日突然禁止されてしまったら、ほかの産業はその従業員の人々を受け止めることはできないだろう。賃労働と専門化は、人々が自力で生きていく可能性を非常に狭めてしまった。イリイチの言う《生活の自立・自存》とは、「ニーズ」という脆い紐帯によって運命共同体とされている社会に欠けてしまった生き方なのである。

「明白なる運命」の歴史

西洋の社会内部は、もうすっかり「発展=開発」されつくされてしまって、ヴァナキュラーなものはかなり衰退してしまった。だが、西洋は歴史上、その拡張主義を遺憾なく発揮してきた。イリイチによれば、14世紀にキリスト教会が《母性的役割》を自認し始め、《外部世界のものたちは助けられる必要があるという考え方》が広まっていった。「救済」すべき対象は、はじめは「野蛮人」であったが、後に「異教徒」へと変わっていった。そこにおいて、「異教徒」は完全に異質な存在とはみなされていなかった。「異教徒」は《まだ洗礼を受けていない者》として定義され、《生来キリスト教徒になるように運命づけられてもいた》。それは、教会内部の人たちの《義務》ですらあったが、イスラム教徒たちは改宗に抵抗した。彼らはそれで諦めず、「異教徒」を「反キリスト教的な不信心者」に変えて、敵とみなすようになった。だが、植民地主義と重商主義が発展してくると、西洋にとって不都合な存在はそれだけではなくなった。それが、《ニーズを持たない存在=未開人》である。彼らは「未開人」を「原住民」に仕立て直そうと画策し、それに成功した。それを正当化したのは、《原住民のニーズは、気候・人種・宗教・神の摂理によって規定されている》という理屈であった。以後400年にわたって、《原住民にたいして統治・教育・商業を用意することは、白人の責務》となった。

しかし、その段階を現在から振り返ってみれば、それは「まだ穏当な態度」であった。第2次大戦後のマーシャル・プランの頃までには、《商品やサーヴィスへのもともと限られた原住民のニーズは、成長や進歩を阻害するようになっていた》。同時に、その頃は《多国籍企業が拡大しつつあり、国境を超えて、教育学者、セラピスト、経済計画のプランナーたちの野心が限界を知らずとめどもなく膨れたときであった》。その結果、現在、「原住民」は「低開発国民」へとその位置づけを変えられてしまっている。「ホモ・エコノミクス」という西欧の自己イメージは、《さらにそれを極端にした「ホモ・インドゥストリアリス」すなわち産業人のイメージ》として、世界中にあまねく受容された。その「必死さ」は、思わず一歩引いてみたくなるほどの「執念」に塗れている。

「パックス・エコノミカ」と「民衆の平和」

イリイチは、こうした西洋文明の行為を《戦争》と評し、批判する。彼によれば、《同じ文化圏でも、中央部と周辺部とでは平和の意味が違う》。中央部では、《平和はもっぱらそれを維持するということに重点が置かれる》。彼の議論から推察すれば、「平和」とは、絶えず「成長」という燃料を消費し続けなければ墜落する「経済」という飛行機の中で、「進歩」という目標に向かって歩を進めることを意味する。《パックス・エコノミカ》という言葉には、そうした意味が込められている。それに対し、《周辺部に住む人々は、平和な生活を、つまり「自分たちの生活を平穏にしておいてくれる」ことを念願する》。他者(権力者)の異様な「意志」に巻き込まれないこと。これをイリイチは《民衆の平和》と呼ぶが、彼はこうした《平和の歴史》についての研究が必要であると訴える。

「民衆の平和」は《ヴァナキュラーな自治》、《自治の栄えるもととなる環境》、さらに《環境を再生産するための多様なパターン》が守られていた。しかし、「パックス・エコノミカ」はもっぱら《生産を守ったにすぎない》。ニーズに従属させられるようつくりかえられ、そして再生産された人々は《最小限の人間生活の自立と自存の基盤》を失い、《いまやこの自立そのものが平和という名の侵略の犠牲となった》。環境もまた、「パックス・エコノミカ」の犠牲になっている。「民衆の平和」では、人々の共用地は守られていた。それは、《貧民が牧場や森林に近づくことを守った。それは、道路や川が人々によって使用されることを保護した。それは、寡婦や乞食たちに環境利用の特別な権利を保留した》。しかし、「パックス・エコノミカ」において環境は《稀少な資源》であり、あくまでも《財貨の生産や専門的管理において最適な使用に供するもの》でしかない。イリイチにとって、「開発」とは《消費に依存しないで環境利用の価値にもとづいて生き残ることを求める人々を、暴力的に放逐すること》以上のことを意味しない。それは、「破壊」であり、「戦争」でしかないのである。

シャドウ・ワークと「発展=開発」というリスク

「平和」を研究しようとすると、なぜか必ず、「闘争」と「暴力」を語ることになる。《地下の抵抗運動、奴隷、農民、少数民族、疎外された周辺の人々の反抗、反乱、暴動など〔…〕最近ではプロレタリアの階級闘争や女性の解放闘争》は記録される。それは、《ゼロ・サム・ゲーム(誰かが、勝って利益を獲得すれば、必ずその分だけ誰かが負けて損をするというような取引を意味する)にとらわれた競争者のあいだの最小の暴力休戦に関する研究》にすぎない。それは「希少性」を中心に据えた、奪い合いを描写している。希少性とは、「それに価値があると信じ、かつそれが得難い」と思うところから生まれる。それは、現代的な「ニーズ」を言い換えたものにほかならない。自国の「成長」のために必要な、「資源」、「人材」、「人口」、「軍事的影響力」などを巡る「均衡」と「自制」の中にのみ「平和」が存在する。

「パックス・エコノミカ」の世界において、ただ「経済成長」のみが、平和を維持する手段であり、逆にそれが見込めなくなれば、世界は悲惨な戦争へと突入する。未開の市場の開拓は、世界が生き残るための唯一の手段となっている。現在、東南アジアや南米の国々がそうであり、それを食い尽くせば、次はアフリカに手が伸びる予定だ。しかし、それによって資源の争奪戦は激しさを増し、環境は壊され、そしてやがて未開の市場もなくなり、世界経済全体が成熟期に入ることだろう。アンソニー・ギデンズは「近代的な諸価値を実現するために、かえってその目的としていた価値を消費してしまっている時代」として現代をとらえ、それを「再帰性」という概念で表現している。人々の生活の中からヴァナキュラーなものが姿を消し、「生きづらさ」を感じながら日々をやりすごしている我々は、まさに近代的再帰性の罠にはまり、否応なしにその「リスク」に対峙させられている。イリイチの言うように、ゴミゴミとした通勤電車、あるいは渋滞する道路を回避して通勤できる人は、もはや「特権」を有していると言えるし、学びの真の面白さに気づくことは稀で、流行らない。ひと時代前を生きていた人々は、若者の間で「職業人生」の重要性が減少していることに驚く。だが、それは日々を「労働」と「シャドウ・ワーク」に占領されることを拒む態度の現れなのではないだろうか。たしかに私たちは、そこから逃れることはできず、ただそこに「適応」するほかない。だが、「カイシャ」に縛られ、閉じ込められる人生など、人間が生きるに値するのだろうか?私は今、20代だ。今後、多くの時間を過ごす中で、良くも悪くもそのライフスタイルに「慣れていく」のだろう。「大きな物語」は終わった。しかし、現実はまだ「大きな物語」しか上映されていない。みなどこかで、そんな虚構をただ眺めるだけでいたいと思っているが、否応なしに自分はそのプレーヤーとなっている。イリイチの言葉は、彼自身が言うように、現実を変えるだけの力をもっていないかもしれない。だが、現代文明の現実をえぐりだすその様には、どこか凛とした強さを感じることができる。我々は、その日々の中でまさに「生活のあり方を問う」ていなかければならないのだ。

参考文献

  • イヴァン・イリイチ著『シャドウ・ワーク:生活のあり方を問う』,玉野井芳郎、栗原彬 訳,岩波書店,2006.09(原書:1981),全339ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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