アーヴィング・ゴッフマン『スティグマの社会学:烙印を押されたアイデンティティ』(1963年)

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社会学

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紹介文

スティグマ、それは「社会的な『出会い』の場において、呪いのように人々を悩ませる烙印」。肉体上の醜悪さや奇形、障害、精神異常、投獄、麻薬常用、アルコール依存症、同性愛、特定の人種や民族、宗教…。そうした属性を抱える人々は、社会によって烙印を押され、生きづらさを感じている。しかし、それは一生消えることのない「原罪」でもなければ、結界を受けつけない呪術でもない。スティグマを抱える人々は、社会による理不尽な仕打ちに苦悩し、自らの身の上に憤りを感じつつ、それでも社会に適応して、いつか解放されるそのときまで、力強く生き続ける。等身大の個人が社会の中で生きることを研究し続けた、特異な社会学者、アーヴィング・ゴッフマンによる「不面目さ」に関する重厚な試論。

スティグマとは何か?

スティグマとは、元々古代ギリシャ語において、「徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人々に告知するために刻印された、肉体上の印」を指す言葉であったが、今日では「他者からの信頼や自身の面目を失わせる属性」のことをいう。具体的には、(1)視覚や聴覚に障害をもつ人、手足をなんらかの理由で失った人、醜い顔に生まれた人、エイズ等の病気をもっている人など、肉体上の醜悪さや奇形、障害がある人々、(2)精神異常、投獄、麻薬常用、アルコール依存症、同性愛、失業、自殺企図、過激な政治運動などの記録から推測される、意志薄弱、異常性癖、情欲、頼りにならぬ信念、かたくなすぎる信念、不正直といった個人の性格・性癖、趣味趣向上のさまざまの特殊性をもつ人々、そして、(3)特定の人種や民族、宗教などの集団に属する人々などがスティグマを抱える可能性が高い。

ゴッフマンは、今挙げたような人々がもつ属性のことをスティグマと呼ぶいっぽう、「特定の期待から負の方向に逸脱していない者」を「常人」と呼ぶ。しかし、スティグマを抱える人には、「既に信頼を失った人(もう既にその逸脱が明らかになっている人)」のほかにも、「信頼を失う事情のある人」というものがある。これはつまり、同性愛者や精神病の治療経験のある人々、なんらかの犯罪や違法行為を犯したことのある人々といった、まだ世間的には明らかになっていないけど、もしそれがバレたら白眼視や偏見の対象となり得る逸脱者のことであるが、ゴッフマンはこのような人々を「逸脱点のある常人」と呼ぶ。

スティグマは、それを抱える人々と出会う人々に、極端な場合は差別や偏見を正当化させ、非常に穏健な場合においても、ある種の気詰まりやバツの悪さを感じさせる。そのため、とりわけスティグマを抱える人々は、さまざまな戦略を用いることによって、そうした気まずさを回避しようとする。

スティグマへの対応:積極的、あるいは極端な解決

スティグマを抱える人々は、それぞれの状況に応じてスティグマの解消に努めようとすることがあるが、その方法には、(1)不名誉な属性の克服や相殺や(2)啓蒙・社会の意識改革、政治問題化といったものがある。

(1)不名誉な属性の克服や相殺とは、「肉体的障害のある者が整形外科手術を、盲目の人が眼の治療を、文盲が識字教育を、性同一性障害者が心理療法を受ける」という具合に直接的に問題を克服したり、あるいは、「たとえば足の不自由な人が水泳、乗馬、テニス、航空機操縦をするようになる、もしくは再び従前のようにできるようになるとか、あるいは盲人がスキー、登山に上達する」というふうに「個人的努力によって、障害のある者には附随的、肉体的理由で普通は閉ざされている活動分野を自分のものとし」、“不能者”としての自分から脱却するということである。

(2)啓蒙・社会の意識改革、政治問題化とは、例えば1960年代のアメリカにおけるアフリカ系移民の人々や同性愛者、障害者の人々のように、同憂同苦の仲間から成り立つ集合を形成し、政府や議会、マスメディアなどに訴えかけ、差別や偏見の撤廃を求めたり、自分たちの苦境を草の根運動によって訴えかけていくということである。ただし、このような態度が極端になれば、自分たちのイデオロギーに対して狂信的となり、既存の社会に対して非常な攻撃性を示すことにもなる。現在でいえば例えば、イスラム過激派の人々が「殉教者」の人々を英雄視し、ますます対立を深めていくということが考えられる。

しかし、今まで述べてきたスティグマの解消に務める人、あるいは成功する人、積極的に関わろうとする人はむしろ少数派で、ほとんどの人々は、生活を調整して常人の人々との接触の機会を回避しようとしたり、それがかなわない場合にはなるべく雰囲気を壊さないように立ち振る舞う方法やコツ、戦略を身につけていく。しかし、そもそも何故スティグマは生じるのだろうか?

スティグマの条件①:個人・社会的アイデンティティと自我アイデンティティ

まず第1にスティグマが生じるためには、上記のような属性を「悪」とか「恥」、「逸脱」だと認識する社会(ないし価値観)とゴッフマンの言う意味での社会的な「出会い」の場がなければならない。

通常ある社会に帰属する人々は、他者が自分と同質的な身体と集団や社会内で標準的とされている価値体系に準拠した精神構造を有していることに慣れている。そして、人々は無意識のうちのその人の見た目や雰囲気などからその人のことを「上品な人」、「端正な人」、「普通の人」、あるいは「異常者」、「異端者」と知覚・判断し、カテゴライズしている。ゴッフマンはそういった判断の根拠となるものに、(1)世評のシンボル、(2)スティグマのシンボル、(3)アイデンティティを混乱させるものといった、諸々の象徴(シンボル)があると言う。

(1)世評のシンボルとは、例えば上品な装いをした人が着けている、社交クラブの会員であることを示す襟章など「他の記号が個人についてわれわれに告示することを確認させる特定のシンボル」のことであり、「それは念入りな仕方で、明瞭に彼についての我々のイメージを充実する」。

(2)スティグマのシンボルとは、第二次世界大戦中に敵国(ナチス・ドイツ)に協力した(フランスの)女性たちの剃られた頭など、「アイデンティティを損ない貶めるような不整合、ないし整合した全体像となるものにひびを入れるような異常な記号」のことであり、「その個人に対して我々は低い評価を与えることになる」。

最後の(3)アイデンティティを混乱させるものとは、南部を訪れた北部の教育のある黒人の〈立派な英語〉など、「事実上あるいは仮定上その記号がなければ整合的な全体像となるものに(この場合は行為者が希望するプラスの方向で)ひびを入れることになるが、対他的な要請の妥当性にきびしい疑問を投げかけるほどのものではなく、新規の資格/条件を成立させるような記号」のことである。

ゴッフマンはこのような過程にもとづいた印象を「期待」と呼び、そのような期待にもとづいて、相手にふさわしいと思われる属性や性質をその人に与えることを「性格付与」ないし「〈実効をもつ〉性格づけ」と呼ぶ。このように、個人は社会からあるイメージやアイデンティティを付与されるわけだが、ゴッフマンはそれを「対他的な社会的アイデンティティ」と言い、同時に個人が自分自身の中に抱いている自己イメージや経歴、経験、アイデンティティのことを「即自的な社会的アイデンティティ」と言う。ゴッフマンは、「未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人々と異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性―極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう―をもっていることが立証される場合、彼は我々の心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶められる」と述べるが、ようするに、スティグマとはゴッフマンの言う「対他的な社会的アイデンティティ」に寄せられた期待とその人の「即自的な社会的アイデンティティ」との間にズレが生じることによって生まれるということである。

しかし、そのような標準から逸脱した社会的アイデンティティを身につけていれば、必ずその人がスティグマを背負うことになるわけではない。その人がスティグマを感じるようになるためには、もうひとつ「本人の自己意識(自我アイデンティティ)」という要素が必要となる。自我アイデンティティとは、ゴッフマンの理解によれば「アイデンティティが問題になっている当の個人が当然感じているはずの主観的、自己回帰的」な自己意識のことであるが、要するに、他人の目から見て逸脱した社会的アイデンティティや個人的アイデンティティを有していたとしても、「自分自身がその属性であることを気にしていない」、「その属性が社会的には「恥」として認識されているということを知らない」、あるいは「なんらかのかたちでその属性の良い面を見つけるなどの合理化に成功している場合」、その人は、スティグマによるバツの悪さを感じることはないということである。しかし、そのような合理化や考え方の転換に失敗してしまうと、気詰まりを感じさせるもうひとつの原因である「社会との接触」をなくしてしまう方に走り、「自分の特異性を恥じて、いわゆる現実との関係を断つに至り、かたくなに自分の社会的アイデンティティの性質に自己流の独断的な解釈をする」ようになってしまうこともある。

だが、スティグマとは基本的には社会的な出会いの場、つまりスティグマを抱える本人だけではなく、相手がいる場面において問題となる現象でもある。つまり、いくら本人が気にしていなくとも、相手の方がそれを意識せざるを得ないということも十分に起こり得る。いやむしろ、スティグマを抱える人々は「世の中の大半の人々は、自分が『普通』の人である限り払うべき敬意と顧慮を払ってくれなくなる」ということを学習し、そういった現実を受け入れていく。そして彼らは社会に適応し、できる限り平穏に生きるために自分の個人・社会的アイデンティティを管理/操作する術(バレないようにする、あるいは上手く告白するためのノウハウ)や社会的接触過程で生ずる緊張を管理/操作する術(バレた後に気詰まりを感じないようにするコツ)を身につけていくのである。

スティグマの条件②:「出会い」の場における可視性

スティグマを抱える人々が、現実の社会的相互行為の場で気詰まりを感じるためには、そのスティグマに可視性がなければならないとゴッフマンは言う。可視性とは、「ある人がスティグマをもっていることを(他人に)告知する手がかりがスティグマそのものにどの程度備わっているかという問題」であるが、平たくいえば、スティグマは(1)予備知識の欠如、(2)相互行為時の明示性、(3)相互行為が発生する場がなければ効力を発揮しないということだ。

まず第1にスティグマの可視性は〈~のことが知られていること〉とは区別される。つまり、噂話で彼のスティグマを偶然知ったり、あるいは彼と以前に交渉の機会をもち、そのとき彼のスティグマを見た経験があるということでも構わないが、とにかくその人のスティグマについて予備知識がある場合には、ある程度心構えができるために気詰まりを感じさせることが少なく、逆に突然それを知ってしまったときに、どう接していいのか分からず気詰まりを感じさせるということだ。

第2に、スティグマの可視性は目立つこととは区別される。例えば大勢の人々で賑わうパーティ会場に、ひとりだけ車椅子に座った人がいれば、たしかに彼は目立つことにはなる。しかし、そういう人はやろうとすれば、あまり積極的に会話に参加することなく隅の方で時間をやり過ごすこともできる。そういう場合、彼や周りの人々は特に気詰まりを感じる機会がない。だが、例えば発音上の障害をもつ参加者は、口を開けば必ず彼の障害についてそれまで意識的に作り出されていたのかもしれない無関心を破らずにはいられない。つまり、スティグマの可視性とは、外見上に表れていることが本質なのではなく、相互行為が生じる場面において明示されるか否かが本質なのである。

第3に、スティグマの可視性は〈注目の焦点〉ともいうべきものとは区別される。例えば、「ひどい傷痕は社会的場面の(成立している)問、最初から最大の影響力をもっているので、ひどい傷痕のある人と一緒にいる場合、その傷痕がなければ得られるはずの愉しみを失うことがある」。しかし一方で、「彼の傷痕という条件は独り仕事の場合には彼の能力には何ら影響することはない」。つまり、スティグマとは社会的な相互行為の生じる場面でなければその効力を発揮することはないのである。

スティグマの条件③:相手との距離感

しかし、スティグマを抱えている人々は、全ての社会的な「出会い」の場において気詰まりを感じているわけではない。彼らは、「(ユダヤ人が経営する)食料品店の異教徒の従業員、同性愛者の集まるバーの正常なバーテンダー、ロンドンの高級住宅地に住む売春婦の小間使い」など、「特定のスティグマのある人たちの要求に応じたり、こういう人々に関して社会がとる措置を実施する施設で働いているときに、彼らを目撃する機会をもった人」、あるいは「精神疾患者の貞実な配偶者、刑余者の娘、肢体不自由児の親、盲人の友、絞首刑執行人の家族」など、「社会構造上スティグマのある人に関係をもっている人」と一緒にいるときには「萎縮しなくてもよく自制の必要もない」。ゴッフマンはこのような、「正常であるが、スティグマをもつ人々の秘密の生活に内々に関与して、その生活に同情的で、さらにある程度(彼らに)受け容れられている、すなわち彼らの同類の特別会員的存在である人々」のことを事情通(わけしり)と呼ぶ。また、見ず知らずの人、生涯で一度も会うことがないような人に対しても、スティグマは効力を発揮しない。

こうした考察からゴッフマンは、「スティグマの管理/操作が問題になる範囲は、主に未知の人々とかちょっと知っているという程度の人々の間の接触、つまり公共の場所での生活に関係がある」と言う。いいかええれば、一方の極に「完全なる他人」や「会ったこともない人々」を置き、他方の極に「事情通」や「同じスティグマを抱える人々」を置く、親密さの連続体の中で中間を占めるような人々こそが、スティグマを抱える人々にとって、スティグマの管理/操作をすべき人々であると言うことができる。

スティグマの管理/操作のさまざまな手法

スティグマを抱える人々は、そのスティグマが隠せる性質のものであれば、あまり事情を知らない人々に対し、そのスティグマを隠す努力をする。その際彼らは、(1)程度偽装、(2)共謀による隠蔽、(3)匿名性の獲得などの戦略を用いることがある。

(1)程度偽装とは、例えば「2つの社会的に好ましくない状態を並べると、精神疾患の方がまだマシとされているがゆえに、知的障害者たちが、精神疾患者として越境しようとする」というように、「スティグマとして扱われる欠点の記号を、何か他の属性、すなわちスティグマとしてはあまり重大ではない属性の記号として人に示すことである」。

(2)共謀による隠蔽とは、例えば「同性愛者たちが、常人には何か異様なことが起こっているなどとは分からないような仕方でもうひとりの同性愛者に誘いをかける」、あるいは「施設で互いに面識のあった精神疾患の病歴のある人々が、仲間以外の者にはこの事実を巧みに隠しておく(…)、精神疾患で治療経験のある者が常人と一緒に居合わせるような場合、別の同類の人に行逢っても、互いにまったく未知の人たちであるかのように〈すれ違って〉やり過ごす」というように、「ある特定のスティグマをもつ同類の人々が、越境するにあたって相互援助を提供しあう」ということだ。

最後の(3)匿名性の獲得とは、「人口の流動の激しいところに住居を構える」、もしくは、「普段よく行くところから離れた場所に住み、生活誌を断片化して不連続にする」ことによって、「他人が彼についてもつ継続的経験の量を制限する」ことである。

他者への気遣い、告白の作法

しかし、先程述べた「スティグマのシンボル」を身につけている人は、「絶えず知覚に映るという性質をもっている」ため、それを隠し通すことができない。したがって、そういう人々の場合は、隠すことではなく、よりゆるやかに秘密を明かすことによって、社会的場面における気詰まりを回避する〈告白の作法〉を習得する。例えば「盲人が、自分のスティグマを新しく知り合うようになった人に打ち明けるために、彼らの前で意識的に何か不器用なことを仕出かして見せたりする」というような「故意のしくじり」をすることによって、「突然さ」を緩和しようとするということである。

また、彼らは気詰まりを回避するために、相手に対して気を使うことも覚える。つまり、そうやって自分からスティグマを暴露して「どうぞ普通に接してくださいね」と言ったところで、相手はそれを全く気にせずに接することが難しいということは、スティグマを抱えている人々も十分に理解している。それゆえに、彼らは、「欠点をもつ人が自分の欠点を割り切った態度で認めて、一方ではそこに居合わせる人たちが、本心は彼の欠点に関心をもっていることを暴露してしまう羽目に陥らないよう気遣い、他方では全然そのようなことには関心をもっていないという彼らの擬装的態度を信じている様子を見せる」。

さらに、彼らはスティグマを言い訳にして社会的な不文律を破らないようにも注意している。例えば、「あらぬ方を見つめたり、頭を下げたり、その他の仕方で、口頭による相互交渉過程がそれを核にして組立てられる(相手に注意を向けるという)手掛りに関する不文律を知らず知らずに侵犯することを避けるために、盲人の人々は、話し手をまっすぐ見るようになる」。

スティグマを背負うことの苦悩、葛藤、障害、苦労

今まで述べたように、ある個人にとって、「常人と見なされ、特殊でない普通の人として受け入れられることはそれ自体で大きな報賞であるから」スティグマを抱える人々は、できる限り常人として認知されるよう努力し、常人の社会の中に溶け込もうと試みる。ゴッフマンは、このような試みを「パッシング(素性を隠しての越境)」と呼ぶ。しかし、彼らは越境をする際、あるいはその状態を維持し続けるにあたって、「バレることへの恐れ」や「自己の分裂」といった苦悩・葛藤、障害に直面することになる。

まず彼らは、「事実上越境している場合、あるいは意図的に越境する場合、彼の身上に関して顕わになってくるもの―社会的場面で初対面の人にもすぐに手に入るような情報のみに基づいて彼の社会的アイデンティティを同定する人々にさえも顕わになってくるもの―のために、信頼を失うようなことが起こり得る」リスクに対処しなければならない。要するに、自分のスティグマが露見することによって、その場には、「いわゆる〈当惑を覚える出来事〉が生ずる」ことになるということだ。

また、(1)「悪意をもった人が自分の秘密を暴露してしまうのではないかという不安」や、例えば「精神疾患者を夫にもつ女性が、夫の失業保険をもらおうとする場合」とか「〈結婚している〉同性愛者が持ち家に保険をつけようとして、普通とは違う(性別の)受益者の選択を説明しなければならない羽目に陥る場合」など、(2)「越境している者は思わぬときに、自己が信頼を失うことになる情報を明かす必要にせまられる」リスク、(3)「〈深みにはまり込んでいく〉苦しみ、言い換えれば、避け難い露顕を防ぐためにさらに嘘を重ねざるを得ない苦しみ」、例えば「精神鑑定をめぐる公聴会」など(4)「彼の秘密を知りそれまで彼が欺いていたことを答めようとしている人々に、対決を迫られる」可能性なども背負い込まなければならない。このように、「越境している者は必然的につねにいつ崩壊するか分からない生活を送っているという点で非常な心理的負担、すなわち非常に大きな不安を負わざるを得ない」。

さらに、ある同性愛者が「家族の者や、友人たちを欺く重荷は、しばしば堪え難いものになった。私は自分の秘密を洩らさないように、自分の話す言葉や、動作の一つ一つを、注意しなくてはならなかった」と証言しているように、「他人が何も仕組まれておらず、また配慮されてもいないものとして扱うような社会的場面に伴うさまざまな局面に、越境している者は敏感でなくてはならない」。

また、彼らは本来のありのままの自分でいられない集団に属することに、分裂感や疲れ、理不尽さを感じることがある。人はひとりきりのときに、静かに文学作品を読んだり、テレビのニュースを見たりすることもあれば、活動的にスポーツをしたり、お笑いライブを見に行ったりする。あるいは、アニメやゲーム熱中したり、アイドルに熱狂することもあるだろう。個人は、そういう多様な側面を含んだ生の軌跡、つまり個人的アイデンティティを身につけている。そのひとつひとつの言動は、どんなに矛盾し、相容れないように思われても、その人の人生においては、相互に矛盾したり、無関係であることはあり得ず、自己内部では統一されている。例えば普段はおとなしくて真面目な人が、アニメライブで熱狂していても、その人自身にとっては何の矛盾もなければ、無理もしていないということである。

しかし、「生の軌跡のこの包括的単一性は、社会的役割という視角から個人を見るときに、われわれが彼に認める種々の自己の多様性と鋭い対照をなしている」。つまり、ある個人は社会の中で生きる以上、ある特定のキャラクター=社会的アイデンティティを背負わされている。例えば、「我々は凄腕の賭け玉突き師が女性や古典学者であるとは想像もしない」し、見るからに堅物で純文学を好んで読みそうな人が、アニメやゲームに熱中しているとは思わない。我々は「ひとりひとりの個人的アイデンティティの同定を構成するにあたって、彼の社会的アイデンティティのいくつかの側面を利用する」のだ。そしてそれは往々にして、外見や見た目の雰囲気によって決定される。

個人的アイデンティティに関して人はそれを押し隠すことができるが、「社会的アイデンティティに関して完全な匿名というようなことはほとんどあり得ない」。そうであればこそ、逆に例えば「白人」はどこまでいっても「白人」であることから逃れることができず、例えばその人がどれだけ真摯にイスラムの教えに帰依していたとしても、保守的なイスラム団体には受け入れてもらえないことがある。ゴッフマンの言葉で言えば、前者は「擬装された自分が本当の自分であると証明することを意図して(自己を)呈示する場合」、後者は「人が現実の自分を否定することを意図して(自己を)呈示する場合」ということだが、そういうキャラクターを背負わされた人々は、その期待されるとおりの振る舞いをすることを求められ、本当の自分を偽装したり、あるいは社会的イメージと自己イメージとのギャップに思い悩むことがある。

改めてスティグマとは何か?

さて、ここまでスティグマというものに関するさまざまな考察を見てきたわけだが、それでは翻ってスティグマとは何なのだろうか?それは、ある人に生涯消えることなくこびりついている原罪のようなものなのであろうか?スティグマを抱える人々とは、常人たちとは端から異なる異質な存在でしかないのだろうか?

この点、ゴッフマンの考えによれば、スティグマとは決してそういった類のものではない。たしかに、「異なるスティグマをもつ人々であっても(スティグマの多様性にもかかわらず)、彼らは明らかに類似した状況におかれており、また明らかに類似の仕方で反応する」。しかし、「スティグマのある人々と常人は、同じ精神構造、その社会に標準的な精神構造を有している」。「恥ずべき差異という概念自体が、アイデンティティに関する中心的信憑について類似性を前提にしている」からこそ、「人は異常な感情や信念をもっている場合でも、他人からこれらの異常な点を隠すことに、きわめて正常な関心をもち、それらを隠すことを企図して、これまたきわめて正常な戦略をいろいろ用いるのである」。ハロルド・ガーフィンケル著『エスノメソドロジー:社会学的思考の解体』の中に一例として出てくるアグネスという人物は、まさにそういう普通の価値観を内面化していたからこそ、必死に自らの心と身体の不一致を隠そうとして、新たに女性としてあるべき姿になろうとした。一方で、ハワード・S.ベッカー著『アウトサイダーズ:ラベリング理論とはなにか』の中に出てくるジャズ・ミュージシャンたちは、常人たちの価値観を認めず、「むしろ奴らの方がおかしい」と突っぱり返す。スティグマを抱え(ているという自我アイデンティティをもっている)る人々は、アウトサイダーではなく、紛れもないインサイダーなのだ。

常人とスティグマのある者との区別は、生ける人間全体ではなく、むしろ視角(パースペクティブ)である。スティグマとは、出会いを機に具体的に作用することになる未だ現実化していない基準によって、さまざまの社会的場面で、両者が接触する間に産出されるものである。彼に特定のスティグマを与えている属性は、常人、スティグマ所有者の2つの役割の性質を決定するものではなく、ただそのなかのどれかひとつを彼が演ずる頻度を規定しているに過ぎない。

したがって、「難聴の人々は自分たち自身を平然と聾者ではない者と、視力に障害のある人々は自分たち自身を盲人ではない者と見る」ように「自分自身よりいっそう判然とスティグマのあることが分かる人々に向かって、常人が自分に対してとるのと同一の態度をとることがある」。だからこそ、同性愛者の中にも人種差別主義者がいるし、障害を抱えた人々の中にも、熱狂的な犯罪者根絶主義者がいる。「スティグマのある人は〈同類〉の人々を、そのスティグマが明瞭で目立つ程度に応じて差別化する傾向を示す」こともある。一方で、「例えば整形手術が成功して、突如として自分がスティグマから解放されたと知った人々は、すぐに自分自身にもまた他人にも、パーソナリティが受け容れられ易い者の方向に向かって変化したことを認める」。さらにいえば、スティグマ所有者の人々は事情通の人々や自分の「仲間」たちと一緒にいるときには、息苦しさを感じなくてすむ。「自己―他者、常人―スティグマ所有者はカテゴリカルに異なるのではなく、連続体の両端である」にすぎないのである。

社会への良い適応

だから「スティグマのある人は、他の誰とも同じ様に完全な人問、すなわち最悪の場合でも社会生活の、徹底的に分析してみれば、わずかに一分野に過ぎないところから排除されることが、あるいはあるかも知れない人問、として自分自身を見るように助言されている」。だからこそ、「スティグマのある者は無情を感じたり、憤懣を感じたり、あるいはまた自己憐澗を覚えたりすべきではない。閥達で積極的な態度の涵養こそ望ましい」のだ。

しかし、彼らは「だからといってあまりにも堂々としすぎてもいけない」ということも理解している。なぜなら、「スティグマのある者を気兼ねなく受け容れることができる限度―あるいは最悪の場合でも不承不承受け容れることができる限度―が越えられるか否かは常人次第」だからだ。寛容さや好意の情は通常、こちらから要求して示されるものではなく、相手の心遣いによって、相手側から自発的に示されるものだ。だからこそ、「スティグマのある者たちは、紳士的に振舞い、自分たちの運命を強調してはならず、彼らに示された受け容れの限界を試みてみたり、現在の受け容れをそれ以上の要求の前進基地にしたりしてはならない」。

また、ある人がスティグマをもっていることにつけこんで、差別や意地悪をするような人、あるいは「害意はないけど適切な接し方を知らず、それ以外にどう接してよいか分からない人」に対しては、「気転のきいた仕方で助力」することが求められる。それゆえに、「軽視されたり、冷遇されたり、不躾な批評を受けても、同様の手段を以ってそれに応ずるべきではない。(そのようなことには)注意を払わないですませるか、それともスティグマのある者は外見とは違ってその下は完全な人間なのだ、ということをひとつひとつ、穏やかに、つつましく常人に教え、同情的な立場から彼の再教育に努力すべきなのである」。

しかし、同情や好意の情を示してくれる人々と対するときにも、いくつかのポイントを押さえておかなければならない。常人は、結局は他人であることからしてある意味必然的に、スティグマを背負う苦悩や気苦労を真に理解することはできない。そして、スティグマのある人々は波風たてずに社会に適応するため、「スティグマを身辺に伴わねばならないことの不当さと苦痛を常人には示さない」。だからこそ、常人たちは彼らに同情したり、哀れんだりしたとしても、「常人が、自分たちの如才なさ、寛容さ、がどれほど限られたものであるかを認めないですましてしまう」。「頼みもしないのに興味を抱かれたり、同情を示されたり、助力を申し出られたりするのはスティグマのある者にとってはプライヴァシーの侵害であり、差し出がましいことと感じられるのが普通であるが、しかし申し出は如才なく受け容れられなくてはならない」、つまり「彼にとって事態を気楽なものにしようと配慮する常人たちの努力が効果的であり理解されているかのように行為するのがよい、と助言されている」のである。

「常人たちが真に自分たちの苦しみや悩みを理解することはほとんどない」と半ば諦めつつも、常人たちからの気遣いには素直に感謝の情を示し、意地の悪い者、要領を得られない人々に対しては、差別や特別扱いをされぬようになるまで、根気強く、堂々と、かつ謙虚で紳士的に振る舞う。スティグマを抱える人々は、そういうふうに生きているのだ。そして私たちもまた、いつ、どんな場面でそういうふうに生きることになるのかは、知れることがない。

参考文献

アーヴィング・ゴッフマン著『スティグマの社会学:烙印を押されたアイデンティティ』,石黒毅 訳,せりか書房, 2001.04.(原書:1963), 全310ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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