紹介文
エスノメソドロジー。そんな聞きなれない言葉は、おそらく何も生み出さない。しかしそれは、おそらく自分や他人、そして社会というものを深く理解する手がかりは与えてくれる。「ホットロッダー(暴走族)はどうして、暴走行為をやめないのだろうか?」、「彼女の友達は、なぜ彼女のことを精神病だなんていうのだろうか?」、「ある女の人は、どうして女なのだろうか?」…。当たり前すぎて考えるまでもない。当たり前すぎて、言葉にするのは難しい。しかし、そんな「当たり前」の中にこそ、自分が陥っている独断や偏見があるのかもしれない。エスノメソドロジーというひとつの実践の先には、さまざまな真実が待ち構えている。そんなエスノメソドロジーの入門書。
エスノメソドロジーとは?
エスノメソドロジーという言葉を普段の生活の中で聞いたことのある人は、おそらくほとんどいない。単語を分解してみれば、「エスノ(ethno)+メソド(method)+ロジー(logy)」ということになる。では、このエスノメソドロジーとは一体なんなのだろうか?
エスノメソドロジーとは、会話や(価値)判断、物事への評価、文脈の理解、誰かの行動の意味の解読など、日常の中で繰り広げられるさまざまな社会的相互行為の解剖学ということができる。しかし、それは社会学における一領域であるとは言っても、新たな哲学、新たな社会学的、認識論的理論の枠組みを与えない。むしろ、それは相互理解のための、「実践」である。エスノメソドロジーを担っている人々にはフェミニズムの活動家もいれば、精神科医、文化人類学者、心理学者、言語学者など、さまざまな人々がいる。
本書に収録されているのも、将来ひとつの偉大な学説につながるような論考ではなく、精神病者や逸脱者、性同一性障害者についての個別具体的な事例の数々である。そしてそれらは、永遠に統合され、一般化され、大きな社会学的理論を提供することはないだろう。エスノメソドロジーはガーフィンケルらが言うように社会学的現象についての「博物学」にすぎないのである。しかし、このように抽象的な説明をしていても、一向にエスノメソドロジー(という実践ないし方法)の姿や本質は見えてこない。したがって、具体的にどんなことが書かれているのかを見てみたいと思う。
ドロシー・E・スミス「Kは精神病だ」
この論文は、Kという人物が彼女の友だちによって精神病と定義されるまでの経緯を述べたものである。その友達によれば、はじめのうちはKという少女のことは別段なんの変哲もない、普通の女の子であると認識していたそうだが、彼女と一緒に暮らし、彼女と行動を共にするうちに、彼女の言動におかしさを感じ始め、最終的には「Kは精神病である」との認識を共有するようになったとのことだ。この論文では、そういった、いかに「Kは精神病である」かということの説明がなされている。しかし、著者であるドロシー・E・スミスは、そんな彼女たちの証言に対して一歩引いたところから、彼女たちの証言を分析する。
人間の認知・認識は、単なる外界の刺激の授受のみならず、その解釈を元にしてはじめて、「事実」を認識し、その事実にもとづいて、今度は現象の意味を解読していく。Kの友達たちの例で言えば、Kのさまざまな非合理で迷惑な行動に対して、「Kはおかしい…。もしかしたら彼女は精神病なんじゃないか?…。そう考えてみると、あのときのあの行動も理解できる…」というように、経験したことを再構成し、自分たちが依るべき事実をつくり上げる。たしかにKは本当に「精神病」なのかもしれない。しかし、ドロシー・E・スミスにとっては、そういったことは割りとどうでもいいことである。彼女の関心は、「正常のカテゴリーからKを排除し、異常者としてカテゴライズする過程」の解剖学なのである。
Kとその友人2人の関係は、Kと彼女たちとの出会いの場においては、別段なんら変わったところはなかった。Kはそのときには、ごく普通の女学生であった。しかし、Kの友人たちは、Kと生活を共にするにつれて、Kに対する「違和感」を感じるようになっていく。そして、ある日「Kはもしかしたら精神病なのではないか…?」という疑念が湧くようになる。彼女たちはその疑念を元に過去の出来事を再構成する。「Kがあのときには既に精神病であったとすれば、あの行動も、また別のあの日のことも頷ける」という具合に。そして、その日を境にKは精神病者となる。およそそんな過程をたどったというのが、ありのままの事実なのだろう。しかし、彼女たちは「Kは精神病だ」という前提のもと、事情を知らないほかの人にも彼女のおかしさが伝わり、「Kは精神病だ」という「事実」を理解してもらえるよう、「明らかに不必要であるにもかかわらず…」、「…と言い張った」などのレトリックを用いて説明する。しかし、会話を詳しく分析してみると、そのようなレッテルを貼るに至る根拠は、非常に主観的で曖昧であることに気づく。たしかにKの友人たちの説明をそのまま聞けば、Kは紛れもなくおかしい人であることは理解できる。しかし、なぜその行動がおかしいのかということについては、実は明確な説明はない。結局のところ、その話を客観的で冷静な視点から見つめてみると、Kの友人たちが、「自分は正常で、基準になり得るサンプル」であるという暗黙の前提の下で、Kを「非合理・非理性」の人として断定しているにすぎないということが分かってくる。
むろんこういった主題は、なにか「新しい」知見を与えてくれるものでもない。誰かを「狂人」として認定し、排除の対象とすることがいかに恣意的で政治的なものであるかということについては、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』や社会学のラベリング理論においても主張されている。また、人間の認知・認識がいかに既存の経験によって作り出された「枠」に規定されているか、認識の仕方によっては「精神病の友達など存在しない」かということについては、多分に現象学的だ。
Kの友人たちは、Kのことを「精神病だ」と認識した。しかし、それを説明する理由としては、「Kは精神病だから」というトートロジーは通用しない。そういった偏見や前提をすべて取り除いて、自分の判断の根源を探してみる(判断中止「エポケーepokhế」)。そうすると、「Kは必要ないのにほうきをもう一本買ってきたから」、「プールを30往復すると言い張ったから」、だから私は、「Kは精神病だと認識している」との結論にたどり着く。つまり、最初から外界に精神病であるKがいるのではない。そうではなく、「Kが取った諸々の行動を精神病の兆候であると認識する自分がいるだけ」なのである。実際の「出来事」は、そのまま「事実」になるのではない。出来事をカテゴリー化する適切な手続きを用いることによって、実際の出来事は「事実」へと変換されるのである。
ハロルド・ガーフィンケル「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか」
この論文は、アグネスという「男から女へと性転換した人間が、いかにして日常的に『性別』を作り出していったかについて、ガーフィンケルがアグネスとのインタビューをつうじて克明に記述したものである」。
この論文で取り上げられているアグネスという人は、身体上の性は男性であるが、本人の自意識(精神上の性)のうえでは、「自分は女性である」と思っている。一般的に人は、自分の生まれもった身体上の性を所与のものとして、その性にあった性質や振る舞い、外見などを身につけていく。しかし、アグネスの場合は本人の自意識の中では自分は女性であると思っているにもかかわらず、身体的特徴は男性のそれであるという点に齟齬が生じた状態になっている。ここで彼女は、一般的な人と同じく、いわゆる認知的不協和を解消しようとするわけだ。その際に彼女が取った方法は、同性愛者などのように「権利を主張して闘う」のではなく、「心身の性は一致していなければならない」という常識に対する適応という方法であった。それゆえ、彼女は最終的に、手術によって身体上の性を女に変えることを決意(=「性別を移動」)するのだが、この論文の中での肝になるのは、むしろ性転換手術を実行する前の彼女の生活である。
本人の証言によれば、「自分は『生まれつきの女』であって、ゲイやオカマではない。そういった人たちのことは理解できないし、自分は基本的に女として振る舞ってきた」とのことである。そんな彼女の努力が功を奏して、彼女には女としての女友達もできたし、男性の彼氏もきちんと作ることができた。しかし、彼女はまだその時点では男の体であったため、ときにはその秘密が露見してしまいかねない事態に陥ることもある。例えば、彼氏に肉体関係を迫られたり、就職のための身体検査の際に、尿検査を求められたりということである。こういった危機に対して彼女は、さまざまな嘘や言い訳、戦略などを駆使して、必至に彼女の秘密が露見することを防いできた。ここで注目すべきことは、「彼女が性器の露見を端的な例とした、『生物学上の男である』という事実が露呈することを非常に恐れながら生きていたということ」と、「それにもかかわらず、彼女の友達や彼氏は、彼女が女であるという『事実』をなにひとつ疑っていなかった」ということである。ここに社会的セクシュアリティに関する興味深い事実が存在する。
すなわち、我々がその人を「男」、あるいは「女」と認識する際、我々はその人の生物学的証を確認することなく、その人を「男」、あるいは「女」と認識している。それは裸体のその人の身体を見ることにもとづくのではなく、その身に纏っている服やその人の顔つき、声の高さ、仕草、態度などを知覚し、感覚的に判断を下している。つまり、その人の身体上の性というのは、(生物学上の)本当のところがどうであるか分からなくとも、その人が「女らしい肌や骨格、女らしい仕草や考え方、女らしい言葉遣いや行動、その他女らしい性質」を提示することができれば、その人は社会的に「女」であると認識してもらえるのである。ガーフィンケルが「正常な性別をもった人間とは、それぞれの社会における文化的な出来事なのである。そして、成員の認知およびその認知を生み出す実践によって、その文化的出来事の実際的活動における目に見える秩序という性格が生まれるのである」と言う時、その言葉は今述べてきたようなことを言っているのだ。
私たち社会に住む人間は、例えば「女性」という存在について、今までの経験から「女性とは、これこれの外見的な特徴を有していて、云々の仕草をするもので、服の趣味はこんな感じである」という女性像=女性のイメージをつくりあげ、そしてそれを元にある人のことを「この人は女性である」と判断している。そして社会の成員は、別の成員に対して「男のくせにスカートを履くなんて気持ち悪い」といった負のサンクション、あるいは「あの子はおしとやかで大人しいからカワイイ」といった正のサンクションを与えながら、その社会における「女性像」を維持していくと同時に、「女性像にもとづいた判断」の実践を繰り返していく。「成員の実践それのみが、人々の(観察することができ、互いに話すことのできる〉正常なセクシュアリティを作り出すのである。そして、現実の個々の特定の機会ただそこにおいてのみ、あたりまえの話や行動の現実に目に見える呈示を通して、そうした正常なセクシュアリティは生み出されているのである」。
それは、個人が過去どんな体験をしてきたのかということにもあまり関係がない。少なくとも、その人に初めて会う人や、雑踏の中ですれ違うだけの人であれば、なおさらそうである。つまり、「男や女としての生活史は、まわりからそう遇され現在の男や女という外見的な性別を保証するものではないのだ」。一般的には、自分の抱いている自己イメージ(主観的な自己)と他人が自分に対して抱いているイメージ(客観的な自己)との間に齟齬がないよう、「その外見の背後にあると想定された過去の生活史や性器を外見と一致させていく」。しかし、アグネスの例が示すように、それは「社会」というものが確固たる確信のうえに築き上げた実態ではなく、ある時点で「こういった人は女性と判断すべし」と決めた認知の枠組みである以上、ある人は、女になろうと思えば、いくらでも(社会的にも)女になることができるのである。
何かを生み出すわけではない「当たり前」のこと
以上に見てきたように、エスノメソドロジーとは、我々が社会を構成し、社会的な相互作用を行ったり、なんらかの判断をするときに前提となっている「当たり前」のことをあえて解体し、それをつぶさに観察する解剖学のようなものである。しかし、それは何も生み出すわけではない。本書に収録されたような「発見」もおそらく、文化人類学や社会学、哲学などの分野において、既に誰かが主張しているようなことだ。そもそも本書の最初の方に「エスノメソドロジーがアルフレッド・シュッツやメルロ=ポンティなどの現象学者たちから多くのものを学び、また同時にウィトゲンシュタインの哲学に影響されて、さまざまなキー概念を作り出している」と述べられている。それゆえに、エスノメソドロジーの主たる関心事はそれらの分野のものと多分に似ているのはある意味で当然のことでもある。しかし、エスノメソドロジーとは「現象学や言語哲学、あるいは解釈学などの文脈に位置づけてとらえようとする」ことができるものではない。エスノメソドロジーとは哲学でも世界観の一種でもなく、ひとつの方法であり、実践なのである。「自分がある判断を下す際に囚われている認知の枠」や「逸脱者たちのとる言動の理由」などを会話の中から、偏見や先入観に囚われることなく探っていく。それは、何かを生み出すわけではない。しかしそれは、相互理解のための手助けにはなる。それはおそらく、自分自身がはまっている常識を覆すきっかけになる。「当たり前」を疑い、それをあえて解体=破壊してみることで、新たなる創造は生まれるのかもしれない。
参考文献
ハロルド・ガーフィンケルほか著『エスノメソドロジー:社会学的思考の解体』,山田富秋 ほか編訳,せりか書房, 1987.04.(原書:1967-1979), 全328ページ
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