ハワード・S.ベッカー『アウトサイダーズ:ラベリング理論とはなにか』(1953-1955年)

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社会学

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紹介文

本書は、社会的な逸脱を犯した人々、すなわちアウトサイダーに関する理論のひとつであるラベリング理論についての本である。本書の著者ハワード・S.ベッカーは、自身がジャズ・ミュージシャンとして活動していた経歴を活かし、それまでの社会学において、ほとんど明らかにされてこなかったアウトサイダーたちの実態を、彼らとの日常的なコミュニケーションやインタビューをもとに描き出している。そして彼は、「逸脱とは、常に誰かの企画によって生み出されるものである」と主張し、所得水準や人種といった個人の属性こそが逸脱を生み出すという従来の社会学を批判する。彼は、いかなるプロセスによって、逸脱を生み出す「規則違反」は生成され、そしていかなる基準によって、その行為は逸脱とみなされるのかを問いなおした。なぜ人は「逸脱者」となるのか?そして、なぜ人は「逸脱者」とならずに済むのか?ラベリング理論の入門書。

本書の概要

アウトサイダーとはベッカーの理解によれば、「ある合意にもとづいて設定された規則に違反した人々」のことである。しかし、従来の社会学において、逸脱行動やアウトサイダーについて、彼らのコミュニティに入り込み、彼らの側から書かれたものは皆無であった。本書は、世間一般からあまりその実態を理解されておらず、また受け入れられてもいない「マリファナ使用者」と「ジャズ・ミュージシャン」の人々に対してベッカーが行った綿密なインタビューにもとづいて、アウトサイダーたちの実態と逸脱に関する考察がなされている。

逸脱者たちの実情①~マリファナ使用者たちの例~

ある人がマリファナの常用者となる際には、いきなり常用者となるのではなく、実はごく一般的な学習過程を経る必要がある。ベッカーの説明によれば、マリファナの使用者には、(1)初心者、(2)機会的使用者、(3)常用者の3つの段階がある。(1)初心者とは文字どおり、それまでマリファナを吸ったことがなく、初めてマリファナを吸ってみる人のことで、(2)機会的使用者とは、たまたまマリファナを持っている友人からマリファナを分けてもらえたり、なんらかの方法で偶然マリファナを手に入れたときだけマリファナを吸う人のこと、そして(3)常用者とは、自分で安定的なマリファナの入手経路を確保し、ほぼ日常的にマリファナを吸っている人のことである。そして、各段階において人々をマリファナの常用者にさせないための3つの統制方法、すなわち1.マリファナの供給およびそれへの接近機会の制限による統制、2.非使用者にマリファナ使用者の存在を隠蔽することによる統制、3.マリファナ喫煙の行為を不道徳と決めつけることによる統制の統制が作用し、その統制をくぐり抜けたものだけが、マリファナの常用者になる。以下で具体的に見てみよう。

まず、ある人が(1)初心者の段階になるためには、マリファナを持っている人物や集団と接触しなければならない。しかし、現にマリファナは規制や摘発、押収などの対象となっているためそもそもたいていの人はマリファナを手にとってみることすらできない。この点について、初心者となる人は、いきなり密売人と接触するわけではない。そうではなく、大抵の場合それは既に所属している集団や交友関係の日常的な接触の中で起こる。すなわち、既に常用者になっている誰かがたまたま自分の交友関係の中にいて、その人に「やってみなよ」と勧められてというパターンである。ここにおいて、1.マリファナの供給およびそれへの接近機会の制限による統制をくぐり抜けた結果としての、マリファナとの初めての接触が発生する。しかし、初心者はそこでまず、「自分がマリファナを吸ったなんてことがバレたらマズイ」とか「しかし、いけないことだし」といった心理的な葛藤によって、その使用を躊躇う。だが、仮にそういったことをあまり考えずに、流されるまま、あるいは興味本位でマリファナを吸ったとしても、必ずしもその虜になるわけではない。なぜなら、ベッカーの説明によれば、マリファナを吸って「ハイになる」ためには、一定のコツにしたがって吸わなければならないからだ。むしろ、上手く吸うことができなければ、マリファナを吸ってもなにも感じないし、悪くすれば、めまいや喉が渇き、あるいは頭皮の痛みに襲われ、かえって「酷い目に遭った」とすら思うことがある。そうやってマリファナに懲りた人は、その後圧倒的に常用者への道からドロップアウトすることになる。

「運良く」そういった「酷い目」には遭わずに、何も感じなかった人もたいていはその段階でマリファナのメリットを感じることができずに、逸脱からドロップアウトしていく。しかし、中には同じ交友関係か、あるいは別の機会にまたマリファナを吸う機会が訪れる人もいる。そういった人々が「マリファナのメリット」を実感するためには、なおも(1)マリファナが真の薬物効果をあげるための喫煙法の学習、(2)その薬物効果を知覚し、しかもそれをマリファナ喫煙に関連づける学習、(3)知覚した感覚体験を楽しむことの学習(換言すれば、ハイになることの学習)の3段階の学習が必要となる。すなわち、まず第1に「上手い吸い方」を知っている人に、その方法を教えてもらい、自分の中で生じてくる感覚に対して「それがマリファナでハイになるってことさ」というように、マリファナの喫煙との因果関係を指摘してもらう。そして、最後に自分自身がその感覚を楽しめるようにならなければならない。こういった通常の学習過程を経てはじめて、ある人は「マリファナのメリット」を実感するに至る。

しかし、たとえマリファナのメリットを実感したとしても、まだその人が常用者になるとは限らない。なぜなら、現にマリファナの使用が違法である限り、そこには逮捕と投獄という結果が待ち構えている。また、「マリファナ喫煙の事実が家族、隣人、あるいは雇用者に露見すれば、彼らはその人間に、通常麻薬使用と結びついた副次的地位特性を負わせる。彼らは彼を、自分自身の行動を律することのできない無責任で無能力な人間であるとか、あるいはまた狂人であるとさえ決めつけ、追放もしくは権利剥奪等のインフォーマルな、しかしきわめて効果の高い制裁によって彼を処罰する」。マリファナの使用はそういったさまざまなリスクに曝されているために、たいていはマリファナのメリットとデメリットを天秤にかけ、進んで常用者になろうとはしない。常用者になるためには、先に挙げた3つの統制方法を乗り越えていかなければならないのである。

まず、(2)機会的使用者が(3)常用者となるためには、マリファナの安定的な入手経路を確保する必要がある。しかし、現にマリファナは非合法であるため、それを入手することは非常に困難である。もしそれを自分で入手しようと思えば、密売人とのコネクションを開拓しなければならない。しかし、それを実現しようとすることは、実際には難しい。そのコネクション開拓のためには何よりも「信用」が重要になってくる。すなわち、「トラブルがあった腹いせに密告したりしないか」とか「しっかりと金は払ってくれるか」といった信用である。マリファナを現に常用している人とつながり、その人に信用されてはじめて密売人を紹介してもらえる。だから、本当にその人が「社会から疎外されている」としても、本当に孤立していてはマリファナを現に入手することは不可能だ。逸脱者は逸脱者なりにその社会に上手く適応し、その中で上手く立ち回らなければならないのである。

また、マリファナ使用者の大半は「隠れた逸脱者」、つまり、周囲の人々はその人がマリファナをやっているということは知らない。しかし、たいていの場合、「マリファナとは麻薬の一種であり、おおいなる逸脱、おおいなる恥である」とみなされている。仮にある人がそれに手を染めれば、世間の人々はその人のことを犯罪者、あるいは逸脱者とみなす。それは、自分に親しい人であれば、なおさら衝撃的であり、人情として、その人に対する情は離れざるを得ない。ここに、第2の統制、すなわち「非使用者にマリファナ使用者の存在を隠蔽することによる統制」が存在する。いまだ機会的使用者に留まっている人は、周囲にマリファナ使用の事実がバレて、自分の家族や同僚、友人の信用を失うことを恐れる。この段階をパスするためには、①マリファナ使用は非使用者の面前でも実行可能であるという態度か②非使用者との交渉が皆無に近いような社会的協同関係のパターンが成立するところでのみマリファナは使用可能だという態度のどちらかを身につける必要がある。前者はすなわち、もし仮にマリファナでハイになっているときに知人や友人と接触する、あるいは仕事をこなさねばならなくなったときに、平然を装うことができるとの確信を得るということだ。この点、ある常用者は、マリファナの薬物効果が現れているときに仕事をしなければならなくなったとしたら、自分は何事もなく仕事ができるか非常に不安であったそうだが、実際にそうなってみれば、「意外とできてしまう」ことを自分の経験によって発見した。その経験により、その常用者は「バレないように上手く隠す」方法を取ることで常用者となることを決めたという。一方、後者は要するに「家族や恋人、友人たちを捨て、マリファナ(使用者のコミュニティ)を選ぶ」ということである。このような常用者は、普通の人々との接触や交遊をできる限り避け、常用者の友人たちとの交遊を深めていく。ここに、後戻りのできない逸脱的アイデンティティの形成が本格的にスタートすることになる。

しかし、マリファナの常用者といっても、その実情というものをつぶさに見てみると、本当に普通の判断力や理性を持っている人が多くいる。一般に麻薬とはその「中毒性」や「依存性」がなによりも恐れられている。すなわち、「麻薬なしには生きられない廃人にならなければならない」という懸念である。そして、そういったものに依存し、かつそれに打ち克つことができない人間は、「意志薄弱」とみなされる。これはそうみなされた本人にとって、大変な不名誉であり、自分自身の内部においても、著しく自尊心を傷つける。「自分は弱くてダメな奴だ」と。マリファナの使用者にもこういった懸念は存在している。事実、この点を恐れてドロップアウトする人も大勢いるだろう。これが、3.マリファナ喫煙の行為を不道徳と決めつけることによる統制である。そのような懸念を「乗り越える」ためには、社会道徳に対する反証と合理化を行わなければならない。すなわち、マリファナの使用を非難することに対して「因襲的人間たちにしたところできわめて有害な習癖にふけっているのであり、アルコールがこれほど一般に普及している以上、マリファナ喫煙のように比較的経度の悪徳がそれほど悪いはずがないではない」というふうに合理化し、実際に「吸いたいときに吸い、吸ってはならないときには吸わない」という自己統制の経験を何度も繰り返していくことで、「意志薄弱者」との非難に対抗していく。こうすることで、外部(社会・世間)からの非難や内部(徳心・「内なる父」)からの非難をかわしていくことによって、マリファナ使用者たちは、平静を保ちながら、マリファナを常用するのである。

逸脱者たちの実情②~ジャズ・ミュージシャンの世界~

ベッカー自身も所属していたジャズ・ミュージシャンの世界は他の一般的な職業集団とは違った趣をもっている。ベッカーの理解によれば、ジャズ・ミュージシャンというものは、元来自由を愛し、束縛や抑圧、指図されることを非常に嫌う。言ってみれば彼らはそれぞれがひとりの芸術家であり、自分自身の「生」を痛烈に表現することを望む。しかし、一般の人々にはそれが伝わらず、仲間内でいくら評価されようとも、その価値が理解されることは稀である。そしてそれゆえに彼らの社会的な立場や収入は不安定であり、家族や親族からはミュージシャンになることを強く反対される。これらの対立や齟齬の中にこそ、ジャズ・ミュージシャンたちの(因習的な社会から見た)「アウトサイダー」としての集団的アイデンティティが生まれ、強化され、そしてそれはひとつの文化世界となっていく。つまり、彼らは因習的な人々と自分たちとは、端から違う種類の人間であり、因習的な人々はものの本当の価値が分からぬ俗物(=スクウェア)であるとみなし、自分たちの正しさを互いに確信しあう。

だが、一方でその結びつきが非常に強固なものであるかと言われれば、そういうわけでもない。ジャズ・ミュージシャンの集団に属している、「己の情動にのみ従う」自由な人々も、「聴衆が聞きたいものを演奏しなければ仕事はもらえないし、社会的な成功を収めることはできない」ということは理解している。ここに、「因襲的社会での成功」か「芸術家としての信条」のいずれを選ぶかの葛藤が生じることになる。無論、後者を選び、ジャズ・ミュージシャンとしての自己アイデンティティを完遂する人もいるが、一方で因習的社会に対して妥協、ないし帰還することで、「逸脱」からのドロップアウトを試みる者もいる。つまりは、ジャズ・ミュージシャンの集団からは、軽蔑の対象となる「コマーシャル・ミュージシャン」となるのである。コマーシャル・ミュージシャンとなる人は、その前にそれまでの自分のアイデンティティとの折り合いをつける必要がある。例えば、音楽活動における「価値」に対する考え方を変えることによって、自分のプライドを満足させる対象を変えるということがある。これはつまり、「自分自身の生を表現する」ということだけではなく、「観客に喜んでもらうことことも立派に価値がある」と思うということだ。そうやって考え方を変えた人は、職人気質を身につける(演奏の正確さにやりがいを見出す、何百・何千という曲を知っていて、しかもそれをどんなキーでも演奏できる、音の響きや名人芸を誇りにする)ことによって、自分自身の信条と行動との間の矛盾を消滅させるのである。

「アウトサイダー」を生み出す過程=ラベリング過程

人間社会は、その集団の凝集性と存続を維持するために、それぞれ独自の文化を持っている。文化とは、具体的に言えば、そのような目的を達成するための「価値観、世界観、道徳、習慣、伝統、習俗、遊び、行動様式、法」といった類のものだ。そして、社会の成員たる人々は、これらの法や掟の内側(インサイド)に取り込まれ、その外側にはみ出した者、つまり「アウトサイダー」に対して、軽蔑や白眼視、追放といった心理的な罰、逮捕・拘束、懲役、そして究極的には死罪といった身体的な罰を与える。しかし、こうした規則というものは、往々にして社会の人々にとっては、生まれたときから所与のものとして与えられていたものであり、それが何故「いけないこと」であるのかということについては、あまりにも自明のこととされていて、問われることはない。社会の個々の成員はただ、それが禁止されているということを覚えて、禁忌に対して、否定的な態度を示すようになれれなそれでいい。しかし、ベッカーは、マリファナの使用をめぐる問題についてのインタビューや考察、規則の生成とその運用、つまり「善悪の判断」と「規則の適用」の2点については、非常に恣意的に決定されるものであると主張する。

近代的な社会においては「悪」を駆逐するための手段として「法」と「警察権力」というものがある。つまり、近代的な議会を通してある行為が禁止され、社会的な「悪」とみなされる。そして、その悪を駆逐する現実の方法として、警察力を使った規制や逸脱者の逮捕・拘束、そして、裁判の手続きに則った刑罰が課される。しかし、この2つのプロセスはどちらも恣意的に行われるものである。まず前者の「法の制定」について、アメリカ社会では、一般的にある圧力団体の働きかけによって法律化が企画される。本書の中で言及されている例で言えば、禁酒法やマリファナを規制する法律は、いずれもしばしば独善的ですらある「道徳事業家」たちによって、社会を堕落させる悪であると認定された。この点、もともと行政機関においては、マリファナの使用者は、コカインやヘロインといったより厄介な麻薬の使用者ほど依存性や凶悪な犯罪(強盗や売春など)を起こさないため、問題ではないとされていた。しかし、そういった圧力団体の張ったキャンペーンによって、次第に「マリファナの悪」のイメージが形成され、また製薬会社などの正当な利益に対する配慮もなされたため、最終的にマリファナを規制する法律は、たいした反対もなく成立することになった。この意味で、社会的な「悪」、「逸脱」との認定は非常に政治的なものであるといえる。ベッカーの言葉で言えば、「逸脱の判定は、何者かの企画の結果によるもの」ということだ。また、それは「規則の適用」についても言うことができる。

ある種の行為を「逸脱」であると認識し、社会の堕落を防止し、健全で好ましい社会の実現のために運動を繰り広げる道徳事業家たちの主たる関心は、「社会の啓蒙」であって、「法律の運用」にはさして関心も示さないし、また現実問題その法律が意図したように運用されているかどうかを確かめることはできない。マリファナ規制の例で言えば、実際にマリファナの使用者たちを取り締まり。逮捕するのは道徳事業家たちでも、政治家でもなく、無数にいる末端の警察官たちである。しかし、そういった警察官たちが法律の意図する「社会の啓蒙」のために、法律を万人に平等に適用するとは限らない。警察官、さらに言えば警察組織は警察組織でまた別の関心事がある。法律の適用は、人種・階級差別や収賄、警察官の威信の維持、警察という行政機構の維持といった思惑によって歪められる。つまり、上流階級の白人と低所得者層の黒人が同じ場でマリファナを使用していたとしても、形式上2人は同時に逮捕されても、白人の方はその事実がもみ消され、黒人の方はスケープゴートして刑務所へ送られる。また、マリファナの使用を見つかったとしても、ヘコヘコと媚びへつらって賄賂を渡す人ではなく、反抗的な人の方がより多く逮捕される。「つまり、人は実際の規則違反のためではなく、規則執行者に無礼な態度を示したということによって、逸脱者のレッテルを貼られる場合もある」のである。さらに、官僚的な行政機関というものは、一度成立してしまえば、当初の目的からはずれ、その存続それ自体を目的として、予算を要求するようになる。しかし、そのためには正当な根拠が必要となる。そこで、例えばマリファナを取り締まる警察という組織を考えてみれば、警察は「法律を制定させた世論(=道徳事業家)」を納得させるために、「マリファナの撲滅は順調に進んでいる」という報告をする一方、「しかし、それと同時に、おそらく問題はかつてなく悪化しており(当局の落度ではない)、統制の維持のためには執行官助の一新と強化が要請される」と申し立てる。つまり、問題はまだ未解決であるがゆえに、「自分たちの存在意義はまだ存在する」と主張する一方、自分たちの懸命な努力を上回る悪がはびこっているために、問題が未解決であると主張することで、「成果があがっていないからやめてしまえ」とか「給料泥棒」という批判をかわすのだ。そしてそれゆえに、「自分の利益のために動くただのマリファナ使用者よりも、マリファナを買うために強盗や売春したものを優先的に取り締まる」。ここに2つ目の恣意が認められることになる。すなわち、警察によって見逃された人々は、形式的には「隠れた逸脱者」の地位に留まり、逆に摘発された者は、「社会がアウトサイダーとみなす特定の逸脱者たち」というレッテルを貼られることになる。ベッカーは、逸脱者というカテゴリーは、自分たちの外部にはじめから存在しているのではなく、むしろ逸脱とは誰かの政治的な企画によって、生み出されるものであると主張する。そして、そうやって特定の人々に恣意的にレッテルを張り、社会的に排除していく(=「アウトサイダー」を生み出す)過程をラベリング過程と言うのである。

ラベリング理論の立ち位置

本書においてベッカーは、どちらかと言えば「アウトサイダー」たちの立場に近い立場を取っている。従来の社会学における逸脱の問題は、多かれ少なかれ因習的な社会の価値観を所与のものとみなしていた。例えば医学的な認識モデルに依拠した社会学者は、逸脱を治癒すべき「病巣」とみなす立場を採用し、「社会の安定性を崩壊に導く、つまり社会の存続の可能性を減少させる過程がそこに進行していないかどうかを問題にする」。また、別の社会学者たちは、フロイトの精神分析よろしく、「個人が逸脱行動にはしるときには、必ず意識的・無意識的な動機が存在する」との前提のうえに逸脱行動を分析して、その動機を生み出す変数(知能指数、地域・過程環境、社会的な地位、社会的な孤立・疎外、パーソナリティ)を明らかにしようとしていた。このような態度は、たしかに彼らの意識のうえでは、中立的な立場を貫いていたのかもしれない。しかし、こういった多分に政治的な価値の問題を所与のものとし、個々人のもつ「属性」を重視した逸脱行動の研究は結果として、「黒人」や「低所得者」、「同性愛者」、「低学歴者」といった人々に「スティグマ」を与え、「注意すべき人物」という偏見の増長を悪化させることにもつながってしまった。この点についてベッカーは、そもそも逸脱者というレッテルを貼られた人々やそのコミュニティといったものは、彼らにとっての「アウトサイダー」たちにはあまり心を開いて話をすることがないため、外側からは実態をつかみにくいゆえに、実態をつぶさに描写した研究が少なかったことを原因のひとつとして挙げている。つまり、従来の社会学は、あくまでも「外からの観察者」にすぎず、わずかに観察できる断片的な現象にもとづいて理論を構築していた。また、逸脱の研究において分析の対象とされるのは、「どっぷりと逸脱にはまっている人」に限られ、「足を洗った人」には目を向けてはいなかった。この点にこそ、まさにシカゴ学派の伝統たる「参与観察」の精神が役立つのであり、逸脱者の実態をつぶさに描写した点にこそ、ベッカーの功績がある。

ベッカーの提唱したラベリング理論とは、このように従来の社会学に対しては批判的ではあるが、それが登場した当初は、あまり評価が高いわけではなく、むしろ「負け犬理論」として軽蔑や失望の対象ともなったそうである。それは、当時の社会的状況が影響している。本書が書かれた1960年代とはいわゆる60’sの時代、すなわち人種差別撤廃や女性の権利向上などの社会運動が非常に活発な時代であった。つまり、ある人々に対する抑圧や差別を正当化していた道徳観念や価値判断といったものが、いかに恣意的に決められ、また暗黙のうちに、勝手に前提とされていたかということが問題となっていたのである。このような状況にあって、左翼的な社会学者たちは、従来の権力ゲームにおける優位者たちの立場を揺るがし、その不当性を糾弾しようとしていた。しかし、ベッカーの立場はより中立的で素朴なものであるといえる。そもそもベッカーがなぜこのような研究をしたかということを考えれば、それは「逸脱行動の根絶に役立つ理論や知見を提供する」というものではないように思われる。そうではなく、ただ純粋に「逸脱者といわれる人々の真実の姿を、ありのままに描写し、逸脱者たちへの理解を深める」という程度のものなのだ。そこには、「社会悪の駆逐」も「不当な抑圧に対する反逆」もない。ただ「純然たる相互理解のための材料」を提供しただけなのだ。だからこそ、この理論は、たしかに従来の理論に対しては批判的であるにもかかわらず、もう一歩を踏み込まない、物足りなさを感じさせたのだろう。だが、それでもなお、「黒人」や「低所得者」、「同性愛者」、「低学歴者」といった人々に対する偏見とそこから生まれ、増幅されていく差別に対して、反証した姿勢と逸脱とは恣意的で政治的なものであることを指摘した功績は揺るぐことはないのだろう。

参考文献

ハワード・S.ベッカー著『アウトサイダーズ:ラベリング理論とはなにか』,村上直之 訳,新泉社, 1993.10. (原書:1953-1955), 全291ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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