紹介文
そこで暮らす人々にとって、「良い都市」とはなんだろうか?彼はそんな疑問に対して、実際の都市を舞台にしたフィールドワークにもとづき、「イメージアブルな都市こそが良い都市である」との結論に達した。「都市の風景にはいろいろの役割があるが、そのひとつは人々に見られ、記憶され、楽しまれることである。都市のデザインは時間が生み出す芸術である」。そんな彼の「都市での人々の生活そのものがひとつの芸術である」という思想を実現するための土台(=環境づくり)。それを構築するための理論を提供してくれるのが本書。都市デザイン理論の歴史において、欠かすことのできない1冊にして、リンチ思想はじまりの1冊。
本書におけるリンチの功績
それまでの都市計画の理論においては、「良い都市」とは、基本的に、設計図の上で幾何学的に美しいもの、各地域の同士の関係や位置づけが合理的に配されているもの、あるいは権力者の実力の誇示、宗教的象徴性が実現されているもののことを指していた。つまり、都市(づくり)を評価する際には、実際にそこに住んでいる住民が不在で、専らそれまでに受け継がれてきた理論と基準をそのまま援用していたのである。これに対してリンチは、その都市に実際に住む人々、その都市を使う人々にとって「良い都市」とはどのような都市であるかを明らかにしようとしたのである。そしてその結果、わかりやすさ(legibility)を有しており、イメージアブル(lmageable)な都市を目指すべきではないかとの結論に至り、そのイメージの構成要素として、パス、エッジ、ノード、ディストリクト、ランドマークの5つの要素を抽出した。このような、ある意味で当たり前とも思われるようなことをはじめて検証したところに、彼の業績がある。
環境イメージの成分と5つのエレメント
リンチはまず、都市のイメージ=都市像とは、1.アイデンティティ(個性・単一性/Identity)、2.ミーニング(意味/Meaning)、3.ストラクチャー(構造/Structure)の3つの成分にもとづいて認識されていると述べ、具体的な脳内のイメージマップは(1)パス(Path)、(2)エッジ(Edge)、(3)ディストリクト(Districts)、(4)ノード(Nodes)、(5)ランドマーク(Landmarks)の5つのエレメントによって構成されていると言う。なお、ここでいう1.アイデンティティ(個性・単一性/Identity)とは、2.ミーニング(意味/Meaning)とは、「自分の職場」、「現在通っている学校」、「ダイエットのためにランニングしている公園」、「子どもの頃よく遊んだ空き地」などその場所や建物がその人の中で持っている意味、3.ストラクチャー(構造/Structure)とは、上の5つのエレメント同士の位置関係や配置、つながりのことである。また、5つのエレメントの定義と具体例は以下のようなものということができる。
(1)パス(Path)とは、とは、街路、散歩道、運送路、運河、鉄道など「観察者が日ごろあるいは時々通る、もしくは通る可能性のある道筋のこと」であり、「多くの人々にとっては、これらがイメージの支配的なエレメントになっている」と同時に、こうしたパスに沿ってその他のエレメントが配置され、関連づけられているという。
(2)エッジ(Edge)とは、「観察者がパスとしては用いない、あるいはパスとはみなさない、線状のエレメント」、つまり「海岸、鉄道線路の切通し、開発地の縁、壁など、2つの局面の間にある境界であり、連続状態を中断する線状のもののこと」である。人々はこのエッジによって、地域の輪郭や切れ目、境界などを判断している。
(3)ディストリクト(Districts)とは、オフィス街や住宅地、歓楽街など、「中から大の大きさをもつ都市の部分であり、2 次元の広がりをもつものとして考えられ、観察者は心の中でその中に入るものであり、また何か独自な特徴がその内部の各所に共通して見られるために認識されるもの」である。
(4)ノード(Nodes)とは、「都市内部にある主要な地点」、「観察者がその中にはいることができる点であり、彼がそこへ向かったり、そこから出発したりする強い焦点」のことである。具体的には、交差点や駅前の広場、大きな公園などがノード(Nodes)となり得る。とりわけ寄合い所とか因われた広場のように、なんらかの用途または物理的な性格がそこに凝縮されているために、重要性をもつものであるノードはディストリクトの焦点とも縮図ともなることがあり、その影響力はディストリクト全体に広がり、そのディストリクトの象徴の役割も果たしている。これらはコア(核)とも呼ばれる。
(5)ランドマーク(Landmarks)もやはり点を示すものであるが、ランドマーク(Landmarks)の揚合、観察者はその中には入らず、外部から見るのである。具体的には建物、看板、商店、山など、どちらかといえば単純に定義される物理的な物を指すが、ほかのものと明確に区別し得る、相対的な個性を有していればどんなものでもランドマークになり得る。例えば、高さ10[m]の建物群の中にひとつだけ30[m]の建物があれば、それはランドマーク(Landmarks)になり得るが、逆に40~45[m]の建物群の中の42[m]の建物は、ランドマーク(Landmarks)として認識される可能性は低くなる。
このような5つのエレメントが互いに関係しあうことで、都市のストラクチャーを構成し、その全体像がイメージにほかならない。そして、そうしたイメージを頭の中で思う浮かべやすい都市=イメージアブルな都市こそが、実際にそこで過ごす人々にとって良い都市だと彼は言うのである。
リンチの都市観
しかし、そもそもなぜ、彼はこのような研究をしようと思ったのだろうか?いいかえれば、リンチの都市に対する問題意識とは何だったのだろうか?この点、本書をざっと一読しただけでは、どうも判然としないところがある。思えばケヴィン・リンチという人は、一見するととらえどころのない人物であるように思われる。著作の雰囲気を一言で評するならば、「分かるようで、分からない」、さりとて「分からないようで、分かる」。そんな「ふわふわとした」人だ。それは彼が、科学者であると同時に、ひとりの文学者でもあり、都市デザインの理論家であると同時に、実践家でもあり、思想家でもあり哲学者でもあるからなのだろう。彼はいつも、強烈な個性、強烈な主張を見せることはない。彼は生涯を通して、我々に問いかけるように、自らの思索を深めていった。彼は世界中どこでも通用するような一般的な都市デザイン理論など存在しないことに気付いていた。だからこそ、個別具体的な都市デザインに携わる度、そこで考えたことは一般化し得ないことは知っていた。しかし彼は、それでも「都市」というもので暮らす以上、人々が共通して求めているものを実践の中で探そうとした。彼はたしかに本書の中で次のように言っている。
「〔…〕この視覚的な特質の中でも、とくに都市の眺めの外見の明瞭さあるいはわかりやすさlegibility ということに焦点をしぼることにしよう。これは人々が都市の各部分を認識し、さらにそれらをひとつの筋の通ったパターンに構成するのがたやすいということである。鮮明なイメージは、人間の行動をなめらかにし、すみやかにするにちがいない。たとえば、友人の家や、巡査や、ポタン屋をさがす揚合にしてもそうだ。しかし、秩序ある環境には、それ以上のことができるのである」。
このような言葉を読めば、リンチの基本的な態度は都市工学者のそれであって、科学者のそれであるように思われる。たしかに本書において、彼がやろうとしたこととそれを明らかにするための手法は、科学的と言ってもいいものである。環境イメージを構成する成分のうち、各エレメントの持っている1.アイデンティティ(個性・単一性/Identity)と2.ミーニング(意味/Meaning)は各個人によって全く異なってくる。「自分の母校や職場、通勤・通学路」は、その人にとって非常に重要な意味を持つし、それは一目見ればほかの建物や道からは区別される。だが、自分が普段通らないような道、使わない建物については、ある意味で本人の中の世界には存在しないも同然である。しかし、年齢や性別、職業などさまざまな属性を持った人々が同時に併存している空間たる都市においては、それを「良く」デザインするためにはある共通項に基づいていなければ、「みんなのための都市」ではなく、「一定の誰かのための都市」になってしまう。それゆえに、本書においては、1.アイデンティティ(個性・単一性/Identity)と2.ミーニング(意味/Meaning)についての言及を避け、ある程度客観的になることのできる「形態」と「構造」に焦点を絞り、工学者として科学的な議論をしようと思ったのだろう。
しかし、本書を含めた彼の著作のすべてに目を通してみると、彼が生涯工学者として、自分の都市デザイン理論を構築していったのではないことに気づく。いやむしろ彼は、科学者というよりは、ひとりの思想家だった。彼は、「すぐれた環境のイメージは、その所有者に情緒の安定という大切な感覚をもたらす。彼は自分と外界との間に調和のとれた関係を確立することができる」と言い、彼は人間の情緒や都市での日常的な生活を重視した。そして、「都市の風景にはいろいろの役割があるが、そのひとつは人々に見られ、記憶され、楽しまれることである。都市のデザインは時間が生み出す芸術である」と述べ、都市とは人間が織りなす芸術であると言った。こういった言葉の中にこそ、リンチ思想の本質を見ることができるような気がする。科学が人間の理性の表現であるとすれば、芸術とは人間の情緒や情熱、あるいは「生」そのものの表現にほかならない。
リンチが本書を書くためにフィールドワークをした1950年代のアメリカは、W・H・ホワイトが『オーガニゼーション・マン』で描き出したように、大量生産・消費社会の中で、確固たる自分を持たずに、周囲との一時的な調和を守ることを旨とし、なおかつひとつの土地に縛られずに、アメリカ中を転々とする中層階級が一般的なライフスタイルであるような時代であった。そして、そんな人々を収容する都市といえば、経済的合理性にもとづいた、科学的で人工的な理論、あるいは無計画によって構築されていた。ジェイン・ジェイコブズはそんな都市のあり方に対して強烈な批判を浴びせたわけだが、リンチの問題意識にもジェイコブズに近いものがあったのかもしれない。
「没個性的で特徴のない都市の乱立し、人工的に作り出されたものに溢れている。それは果たして人間にとって居心地の良い場所であるのか?その場所に対して愛着を持つことができるのだろうか。自分のアイデンティティの核となる「故郷」になることができるのだろうか?」
彼は、そう、彼の哲学者としての顔をのぞかせながら、語りかけている。
参考文献
- ケヴィン・リンチ 著『都市のイメージ』, 丹下健三 富田玲子 訳, 岩波書店, 2007.05(原書:1960),全286ページ
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