クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージによる住宅の建設』(1985年)

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建築・都市論

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紹介文

「人々の住む住宅とは、本来工業的に生産される『物』ではなく、愛情をかけて育むものであり、つくられていくうちに成長し、独自性をもち合わせていくものであった」。アレグザンダーは、住宅生産についてそう話す。しかし、近代に入り、職能分離と分業化、建築部材の規格化、住宅生産の工業化が進むにつれて、建築家、大工、住人のすべてが住宅生産における人間的な体験・過程を失い、住宅生産は役人や銀行の監査人に支配されるゲームと化してしまった。このような現状に対し、アレグザンダーは近代的な制度の中で、住人にとって住み心地の良いオンリー・ワンの住宅をつくるための7つの原則を提示し、社会の変革を求めている。本書に表現された思想は、まさに「革新的」であり、それは物理的な住宅生産だけではなく、人々のライフ・スタイルやコミュニティのあり方にまで踏み込んでいる。アレグザンダーによる人間的な家の創り方。

本書の概要: オンリー・ワンの住宅建設とコミュニティづくり

本書は、「現在の建築、計画、施工についての現行の考え方とは全く違ったもうひとつの実用的な道を世に問うために出版された」シリーズのうちの8冊目にあたる本である。本書が邦訳された当時、A Pattem Language which Generates Multi-Service Centers(多目的センターを生成するパタン・ランゲージ)とHouse Generated by Pattems(パタンによって生成された住宅)、The Linz Café(リンツ・カフェ)以外の4冊が既に邦訳されていたから、日本においては第5の書ということになる。あるいはNotes on the Synthesis of Form(形の合成に関するノート)を含めず、The Timeless Way of Building『時を超えた建設の道』を第1の書とカウントすれば、第4の書だ。この『形の合成に関するノート』を含めない考え方によれば、前書である『オレゴン大学の実験』が大学の施設やオフィスといった、どちらかと言えばフォーマルな建築群とコミュニティ形成についてであったのに対し、本書は個人の住宅とそれを基本単位とした小さな地域コミュニティ形成についての思想を展開した本である。この本は、そのタイトルこそ『パタン・ランゲージによる住宅の建設』ではあるが、具体的なパタンの紹介ではなく、むしろそれを所与の前提として、いかに住人にとって住み心地の良い、オンリー・ワンの住宅を建設していくかという問題、そして住宅建設を端緒としたコミュニティづくりについて、7つの原則を提示し、彼の革新的な主張を繰り広げている。それでは、内容に入っていくことにしよう。

伝統的な住宅生産像

アレグザンダーは住宅の建設を、「工業的に生産される『物』ではなく、愛情をかけて育むものであり、つくられていくうちに成長し、独自性をもち合わせていくもの」と考えている。かつての農村的な社会においては、住宅の建設は基本的にはすべて自分たちの手で実施され、そうでなければ伝統的なマスター・ビルダー(棟梁)を中心とした大工たちと協力して行われた。それは、「建てること自体が人間的行為となり、かつ、家族や建設に携わる人々に直接つながったプロセス」であった。それは、そこに住む人々が磨きあげてきたパタン・ランゲージや経験的な知恵、実際に建設に携わった人だけがもっている知識にもとづいて、ひとつひとつがそれぞれの事情や希望にあわせて設計された。人々は実際に建てる段階では、図面も引かずに、地面に杭を打ち、石やチョークで線を引き、常に現実的で具体的な空間で作業や議論をした。なぜなら、設計する人、部材を加工する人、実際に建てる人、そして住む人が基本的に同じ人物なので、図面=指示書によって意思疎通を図る必要がなかったからである。

住宅生産の標準化と合理化:パタン・ランゲージの喪失

しかし、近代以降の住宅生産は高度に工業化された。それはすなわち、コストを下げるために、電気ボックスのように小さいものから、プレキャスト・コンクリートの部屋といった大きなものまで、似たり寄ったりの規格化された部材を工場で大量生産し、その部材を現場で「組み立てる」という手法の普遍化である。しかし、こうした部材の規格化は結果としてデザインやプラン、寸法などを標準化し、住宅の画一化をもたらした。「こうした部品の制約は冷厳で、ディテールの構成までもコントロールし、多様性を妨げ、装飾や奇抜さやユーモア、つまり人々が望むちょっとした人間味に対する柔軟さをもちあわせていない」。それは、依頼人たちに、「監獄の中庭で許された自由な行動と全く同じ」程度の自由しか与えず、たとえ本人たちが設計に携わったとしても、「それは貧しいデザインで、ほとんど何の取り柄もない」。これは、住宅生産の標準化が「その文化に生きる人々のイキイキとしたパタン・ランゲージ」を破壊し、その地域や文化の中で生命力のある建物を建てるためのパタンや知識を失ってしまったからである。つまり、「この四角い箱をつくった人々は、かつて(文化として)知っていた住宅のつくり方のすべてを忘れてしまっていて、何の知識もなしにつくっている」ということである。

こうした「ほとんどが高度に繰り返し可能な「標準化された」住宅ユニットを用いるという考え方に依拠した住宅生産の形態によって、宅地開発型の住宅建設や工場生産のトレーラー・ハウス、また大きな集合住宅やあらゆる形態の公共住宅、高層住宅など、どんな場合においても、わずかな型式の住宅や住戸アパートが何百回、何千回と繰り返されることになっている」。こうした標準化は、「大量の住宅を低価格で生産する」という「必要性」をその根拠としている。しかし、「街並みの住宅がみんな同じになったからといって建物に使う材料が減るわけでもないし、労働を減少させてコストを実質的に下げるというわけでもない。住宅がすべて異なったとしても材料の総量は同じで、作業が十分順調に進行するならば、労働のコストは作業の総量だけに関わるのであって、建物の形状にはよらない。だから、たとえ標準化が十分に進んだとしても、このプロセスは、決して多くはない数の住宅を非常に高い価格で、以前と同じように生産しているにすぎない」。むしろ、こうした標準化は、建材費や人件費のコストを抑えるというよりも、「管理」のコストを抑え、手間を省くことを目的としている。「管理は設計のコスト、許可申請のコスト、現場管理のコストの3つから成り立っている」。設計のコストとは、個々の世帯の要望を個別に聞いて、それに応じて空間を構成するために必要な作業にかかるコストであり、許可申請のコストとは、行政側がその建物に建築許可を出すために、その図面や書類を審査する際に必要となるコストである。最後の現場管理のコストとは、実際の施工段階で、工程やスケジュールなどを管理するために必要なコストである。住宅生産に、こうしたコスト(というよりは手間)がかかることを前提としたとき、ひとつひとつが別々のものであれば、管理の手間は膨大になり、管理者の手に負えなくなる。とりわけ、現場管理のコストについては、現場で1から工程を考えてスケジュールを組んでということをやらなければならなくなると、それだけで施工は行き詰まってしまうだろう。しかし、「すべて同じであれば、管理者は悩まなくてすむ」。だからこそ、標準化が必要なのだ。

住宅生産の分業化と管理:具体性の喪失、愛着の喪失

そして、今日の住宅生産には、顧客、設計者、施工者、銀行、不動産業者、建築監査局といったさまざまな主体が関わるようになっており、その主体間での分業体制が確立されている。くわえて、住宅生産は、多くの建物を効率的にというよりは、官僚的にコントロールするため、「非常に厳格な規範と様々な機能への責任分化によって対処されている」。つまり、建築の安全性を司る建設・安全監査官、都市計画や土地利用を扱う部局の役人、建築費の融資を審査する銀行の監査官といった人々によって、高度に管理されているということである。しかし、アレグザンダーはこの分業体制こそが、住宅の生命を奪い、余計なコストをかけさせる要因だと言う。「私たちはこの分業、職能分離は全く間違ったものであり、この分業体制の中では健全な環境など創造できないと考えている。こうした分断が建物と社会の織りなす機構に組織的な面からダメージを与えているからだ」ということである。従来顧客と直に話し合い、依頼人たちと人間的なつながりと愛着を育んできた施工請負業者(大工)たちは、単なる組み立て作業と化した住宅生産において、「直に接した建物や人々への愛情」という生来の「良識」を失ってしまった。「労働はすべてお金をとおして建設プロセスにつながっている。施工者の心は住宅から離れたところにあり、現場は、職人同士が時折交わすジョークのほかは、賃金を得るために仕事に取り組む厳格なビジネスの場になっている。根元的な人間経験の場としての建設現場、そこでのイキイキした経験すべてが技術の発達によって失われていく」。建築家や設計者は、自分が設計する建物が建つべき場所から離れ、T定規や実施図面、標準設計図がそろっている設計事務所の中で、抽象的なイメージを頭の中だけで練り上げる。そして、役人や銀行の監査官に提出すべき図面や資料の製作に追われ、紙の上での美しさを追い求めてしまい、利潤や便利さ、スピードなどが決定要因になりかわる。50軒もの住宅のデザインは図面の上で抽象的に決定され、それぞれの住人の事情は考慮されない。そして、実際にそこに住み、何年も日常生活を送ることになる家族は、「家族の自由なリズムが労働者のお金中心の工場的リズムとは相容れないために、いかなるかたちでも建設プロセスに加わることができない。〔…〕家族のもとにあるべき住まいづくりのコントロールが家族の手から全く引き離されている」。

実際にそこに住むわけではない、その場所とは無縁の公的機関の役人は、自発的な人々の出鼻を挫くような規則や法規に従って、機械的に公共地や共有地のレイアウトを管理する。そうした「共有地に関わる高度で抽象的なコントロール手法のひとつが、「グリッド」と呼ばれる抽象的な住戸構成手法である」。グリッドは幾何学的な直線と四角形によって構成され、「公的な開発の住宅はグリッドの上に並び、標準的な道路形態もまたグリッドとして表現される。大きなアパート内の住戸の配列も本質的にはグリッドで、建設にゆっくりと時間をかけるメキシコ人向けのパリオ地区住宅でさえ、政府があらかじめ決めた道路や水路の厳密なグリッドの中に配置されている。しかし、このようなグリッドは機械的で抽象的な単なる家の羅列にすぎず、人間的な社会集団のあり方とは無関係で、社会構造とも一致しない。グリッドが厳密にその幾何学的な形に従うとは限らない。こうした公共地のデザインや配置、区画割りのプロセスは、本質的に、あらゆる人間的な情感を排除する官僚的なプロセスを内に秘めている」。そしてこのような住宅生産システムによって「現行の住宅生産は全くのゲームとなり、その住宅建設ゲームを人の感情を全く無視する銀行や不動産業者、建築監査局が弄ぶという図式が確立している。彼らは明らかに、住宅を愛する家族のきわめて深い満足から何の影響も受けなくなってしまった。〔…〕住宅に住む家族の日常生活そのものから遠く隔たった人々によるコントロールでは、住宅が人を疎んずる機械になることも避けられない」。

住宅生産における7原則(1):具体性と愛着の回復

このような疎外され非人間化した住宅生産システムの弊害を乗り越え、住宅の質と低コスト化を実現するためにアレグザンダーは7つの原則を設定する。それらは相互に絡み合ってひとつの全体的なシステムを構築しているが、あえてそれを解きほぐして機能別に分けるとすれば、(1)具体性と愛着の回復、(2)利用者の参加とパタン・ランゲージの回復、(3)無駄の削減とコスト・コントロールに分けることができる。そのうち、(1)具体性と愛着の回復のために守るべき原則が1.アーキテクト・ビルダーの原則である。近代的な住宅生産システムの弊害は、設計者と施工者の分離、そしてひとりの設計者が数十~数百件の住宅を一度に管理しなければならない状況に原因があった。それゆえ、「建築家の職能と請負業者の職能の両面を兼ね備えた、『伝統的なマスター・ビルダー(棟梁)の現代版とも言える、新しい種類の職能人』が住宅生産にあたる。彼は建物の細かな活計に責任を持つとともに、家族が実際の設計に密接に係わることを可能にする。また、施工のシステムは彼の仕事の良否を決める鍵であり、彼によってコントロールされ、絶えず変更、改良されていく。彼は施工プロセス全体にも責任をもっています。具体的には、コミュニティ全体の配置計画、区画割り、住宅の空間設計、構造計算や構造技術の開発、部材の製造と開発、材料の発注や不足する人員の手配、部材の加工、施工そのものの実施、スケジュールとコストの管理、銀行との融資交渉や賃金の支払いなど、住宅生産の始めから終わりまでのすべてのプロセスに一貫して関わり、責任をもつ。そして、そのために彼らは、用途地域規制や細かな建築計画の提出義務を免除される必要がある」。これが設計者と施工者の一体化である。そして、ひとりのアーキテクト・ビルダーが自分の携わるプロジェクトに愛着をもち、集中できるように、彼の活動範囲を量的に限定する。なぜなら、「彼が本当に少ない建物を扱っている時にしか、良識とか才能、建物への愛情が発揮されない」からである。

そして、こうしたアーキテクト・ビルダーの活動を実質的に支え、その拠点となるために必要なのが、2.地域のビルダーズヤードの原則である。ビルダーズヤードはそれぞれが、「住宅生産に必要な道具、設備、備品、材料及び事務所」を備えている。ここを拠点として、アーキテクト・ビルダーは先に挙げた事務処理や設計、材料の実験などを行う。しかし、このビルダーズヤードは、建設が終われば撤去される運命にある、単なる仕事のためのプレハブ事務所ではない。建設の期間中、たしかに家族とアーキテクト・ビルダーはビルダーズヤードで、住宅のプランやディテールなどについて議論する。しかし、1日の作業が終わればそこは共同で住宅をつくっている人々や近隣の人々も交えた遊び場や酒場になる。そして別の瞬間には、建築材料について勉強し、強度や工法について実験する場になる。そこでの日常的な経験と試行錯誤は、「建物に対する精神や情感、新しい材料や新しい形態の可能性、建設について何も知らない人でも自分たちの家にうまく適用でき使いこなせる建設システムを創り出す可能性」を呼び起こす。そして、ビルダーズヤードは「たとえ建設プロジェクトが終わっても、コミュニティセンターとして、また学校や遊び場、教会、ダンスホール、カフェなどとして、その場にふさわしい機能をもち続ける。この段階になるとほとんどの道具は持ち去られて、定期的な補修に必要な最小限の道具だけが残る」。「ビルダーズヤードの本質的な点は、住宅そのものに物理的に近接して置かれていることにあり、ビルダーズヤードは住宅が形成するコミュニティの一端を担い、さらにはコミュニティの核ともなって、単に住宅生産の当初の起点というだけでなく、増改築や維持管理、公共地の管理などのセンターとして、何年にもわたって住宅との継続的な関係を保持していく」。アレグザンダーはこのようなビルダーズヤードを、「各地域に広く分散」させるシステムにもとづき建設を行うことを想定している。

住宅生産における7原則(2):利用者の参加とパタン・ランゲージの回復

以上のようにして、アーキテクト・ビルダーは自分の仕事に具体性と愛着を回復する。しかし、住宅の設計は、本質的にはそこに住まう人々自身の手によって行われなければならない。その際、知識が不十分な人々の手助けをするのがアーキテクト・ビルダーの役割であり、その際に役立つのがパタン・ランゲージにほかならない。これが、4.家族たち自身によるレイアウトの原則である。しかし、アレグザンダーは個々の住宅の設計に入る前に、「どのような敷地であっても、生産のプロセスは共有地のレイアウトから始めなければならない」と言う。彼が使うパタン・ランゲージは、大小さまざまなパタン同士の関係性によってその生命力の強さが決まる。だから、個々の住宅がより大きな集合体の一部として存在する以上、そことの関係性に矛盾が生じてしまえば、どんなに内部で完璧なパタン・ランゲージを構築したとしても、一気にそれが死んでしまうことになる。そしてそれは、後から修正しようと思っても、それを正すことはできない。「区画内の住宅の配置は中庭や庭といった個々の屋外空間の形や使いやすさに決定的な影響力をもっているため、共有地と私有地の間の境界を決めることは非常に重要である。もしこれが正しければ、すべてが美しく適切なものになります。しかし、もし間違っていたら、後でいくら良いデザインをし、懸命に直しても訂正することはできません」ということである。それゆえに、3.共同設計の原則が必要となる。

そうした住宅に固まれた共有地のレイアウト作業をする際には、幾何学的な直線や四角形を基本とする必要はなく、住人たちの共同と相互作用によって表現された意思にもとづいて決めればいい。だから、それが各自の理想をすりあわせて、合意したものであるならば、丸でも三角形でも、出っ張っていても引っ込んでいても構わない。そうすることで、図面上の抽象的で機械的なリアリティから脱し、「図面は家族自身が敷地の上で実現した、本当にイキイキとしたリアリティを記録するだけのものになる。結果として見えている共有地や私有地の複雑さは、家族や個々人すべてが抱く要求や希望や夢の本当の複雑性を、まさに的確に映し出し、どの家族にとっても独自で身近な、ほかのどこにもない『彼らの』世界がしっかり根づいた場所となる」。その結果、「道路に沿って抽象的なかたちでグリッド状に並ぶ住宅群という姿に替わり、個性的で新しい家並みの型」が生まれる。そしてそれは、単なる景観の問題に留まらず、「共有地に対する直接的で効果的なコントロールを人々の手に戻し、建設中だけでなくそれ以後もずっと、自然で人間的な生産の単位となる」。アレグザンダーはこの家並みの型を「クラスター」と呼ぶ。「クラスターとは、共有地を共同で管理し分かち合う、住宅のグループのことであり、人々が具体的な共通の目的をもったり、共に協力し合ったりできるような社会組織の基本単位にもなっている。また、家族は共有地との関係を手がかりに、個々の住宅の配置を(他人によってではなく)自分たちで決定できるだけの力を手に入れる」。こうしたコミュニティは、「形の幾何学だけから生まれるものではなく、人間中心のグループであり、家族の集合体であるからこそ機能する。すべての意味、すべての価値は、人と人との人間的な結びつきから得られるもので、個々の住宅の配置はクラスター全体の自治の生成にまで決定的な役割を演じている」。

こうして共有地を設定し、クラスターを確立した後、いよいよ個々の住宅の設計に入る。その際、人々は机の上でイメージを話し合いだけではなく、実際の土地の上で、杭を打ったり、石やチョークで線を引いたりしながら、レイアウトを考えていく。つまり、デザインを考え終わってから一気につくり上げるのではなく、つくりながら考えていくということである。ただしこれは、「必ずしも家族のメンバーが施工のプロセスに労働者として携わるということではなく、どの家族も自分たちの環境を直接にコントロールする権利をもっているということである。新しく住宅が建てられる時、その配置計画や基本的な構成は、開発業者や建設業者あるいは政府から出されるのではなく、そこに住む家族自らの手で生み出されるべきである。そのために、アーキテクト・ビルダーは家族の理想を効果的に実現できるような、何らかのシステム化されたルールやパタン・ランゲージ、あるいは同様の使いやすい手段を伝授していく。そうすることで、個々の住宅は家族独自の必要や性格に十分に対応するようにデザインされ、情感の面からみても、住宅は本当の生活の基盤、心の通う場所、さらには家族が社会の中で独自の存在として根を下ろし、成長していく場所となる」。

そうやっておおまかなプランが決まったら、いよいよ実際の施工段階に入っていく。その際、アーキテクト・ビルダーは図面を描くことなく直接建設作業に取りかかり、作業にはできる限り家族のそれぞれが参加し、施工の作業も自分で行っていく。また、部材を必要な長さや大きさに切り出す作業は、ひとつひとつ自分たちの手でカスタム・メイドしていくことで、「部品は作業の中で、どんな大ききや形にでも、また必要な所にぴったり合うように必要な分だけつくられる」。彼曰く、こうした作業は、プランや部材の寸法を標準化するのではなく、部材の加工や組み方を標準化することによって、素人も建設作業に参加できるようにすることを目的としている。そして、そうすれば「多様な住宅すべてを、通常のコストの枠内で、単純かつ秩序ある方法で生産することができるし、また、各作業はひとつひとつが完結しており、ひとつが完了するごとに心理的な『達成感』が得られる」と彼は言う。このように、アレグザンダーは建設システムを物質的な部品によってではなく、建築を生み出していく行為によって定義し、このような単純な組立作業ではない、建設の本質を5.一歩一歩の建設の原則と呼んでいる。

住宅生産における7原則(3):無駄の削減とコスト・コントロール

彼は「コストは明らかに重要で、コストを考えずに建物を建てることはできない。特に住宅の分野では、一般にコストを徹底して抑えることが大切だ」と言う。しかし彼は、「部材の正しい加工方法や組み方をきちんと実行するならば、実施図面など書かなくても、それぞれのプランから構造的にもしっかりした完全な建物をつくれる」と主張する。彼は図面を作成することには、(1)労働時間の冗長化、(2)具体性のない段階での詳細の決定、(3)許可申請期間中の時間の浪費といった弊害があると言う。(1)労働時間の冗長化とは、建築家が図面を描かなければならなくなることによって、その分時間を拘束され、時給が発生してしまうということである。(2)具体性のない段階での詳細の決定とは、「実際に住宅が建つまでは各々の住宅の細かいところは分からない」にもかかわらず、計画段階で完成図を作成しなければならないため、実際に試してみることなく、抽象的な予測にもとづいて意思決定をしなければならないということである。そうした非常に込み入った住宅は、「あらゆる部分に特殊なディテールが求められ、それらが多くの労働力を必要とする結果、実際の施工段階でより多くのお金が必要になる」。(3)許可申請期間中の時間の浪費とは、建築許可が下りるまでの間も、建築家や請負業者の時間を拘束しなければならないため、給料が発生してしまうということである。こうした無駄を省きつつ、「コミュニティの住人も安心を安心させるために、どの建物も確実に構造上の適正な基準に達していることが分かる」ためには、「許可を個々の建物の計画にではなく、建設の作業手順に与えるとする地方自治体との合意が絶対に必要」となる。この前提条件があって初めて、「どの建物も、レイアウトを始めてから数日のうちに着工するに至る」ことが可能になる。また、外部の職人を雇うのではなく、アーキテクト・ビルダーと家族が自分たちの手で施工作業を行えば、デザインがどんなに複雑になっても費用はかからない。さらに、機械で部材を生産する場合、大きさが違えばその都度設定を変えたり、ときには別の機会を造らなければならなくなるが、人の手で加工する場合には「大きさの違う窓はそれぞれがどんなに違っていても、単位面積当りのコストは固定されたままでつくられる。屋板バスケットは編んでつくるものなので、形が合理的でつくりやすい程度の簡単なものであれば、値段を変えずにいろいろな形に編むことができる」。このように、住宅生産のシステムを、予め確立された、人力による部材の加工や組み上げ作業のプロセスととらえ、その一連のやり方に対して許可を与えるようにすれば、6.コスト・コントロールの原則を実現することができる。

住宅生産における7原則(4):人間的体験としての住宅生産

7つ目の原則は、ある意味で今まで挙げてきた6原則の根本であり、その本質といってもいいかもしれないが、アレグザンダーは本書の中で、住宅生産を人間的体験としてとらえ直すことが必要であると訴えているのである。それを端的に表現したのが、7.人間的なリズムの原則である。彼は次のように言う。「理念的にみれば、住宅の成長は子供の誕生と同じくらい人々や家族の生活にとって重要な出来事である。〔…〕それは人々のエネルギーがある新たな調和に達する時であり、その家庭に育んできた年月を振り返る時なのだ。しかし、そうあるためには、家族との密接な関係を持った地元のビルダーの助けを借りて、現場での人間的な出来事を人々の手に取り戻さなければならない。そこで私たちは、現在の生産システムの機械的な建設作業をより人間的な作業に転換することを提案する。人間的な作業にとっては建てることの喜びが最も大切である。ビルダーは仕事そのものに対して、あるいは住宅やその建つ場所、そこに住む人々に対して直接に人間的な関わりをもつ。また、家族自身が希望に応じてプロセスに参加できることも大切である。その結果、建設プロセスがそこで成し遂げたこと、人間的な苦労の思い出、記憶、人生のある瞬間の記録が住宅に刻み込まれる。その後もプロセスは止まることなく、住宅をゆっくりと改良、発展させ維持していく。やがて、住宅はコミュニティの中で生活の場あるいは生命の源として根づきながら、社会性を獲得していく」。アレグザンダーは本書のプロジェクトに参加した5世帯の家族の住宅やクラスターを眺めながら、「現代社会においても社会的な活動がもたらすことのできた、一種の宗教的な情感に似たものを感じた」と述べる。それは紛れもなく、自分たち自身の手によってなにものかを「創造」したからであり、「社会が課した泥沼から自分自身を開放した」からにほかならない。「彼らは自分のものを自ら創り出し、世界の中に自らをしっかりと位置づけ、自分自身を創りあげたように、その世界をも創り出したのだ。そして今、自らが創り出し、変え、開放し、力を与え、喜びへと開放した世界に住んでいる。彼らは足を踏みしめ、共有地の水を眺め、隣の子供たちの世話をしながら、友人たちが同じようにプロセスを実行するならいつでも手を貸そうと待ちわびている。それはこの土地の中かもしれないし、どこかほかの街角かもしれない。彼らはハッとするほど積極的になり、力強く生きている。彼らは自らの手で自らの生活を創りあげた。それは、私たちの誰もがやっているような無自覚で閉鎖的で内的な方法によってではなく、意志をもってはっきりと、自らの土地に立脚したものである。彼らはイキイキとして、自らの住宅の息づかいを感じている」。

特殊事例の域を超え得るか?―住人の入れ替わりと大規模化

しかし、「特定の家族のために住宅をデザインするという基本原則が、住み手が頻繁に変わるような状況、常に人々が移動している世界で意味をもつかどうかという疑問が残る」。特注された洋服や靴であれば、基本的には一品物で、その人以外には快適な着心地や履き心地が保証されない。しかし、住宅の場合は仕事の都合などで引っ越さざるを得なくなることも十分に考えられる。その際、例えばある家族によってデザインされた住宅に3年後、別の家族が引っ越してきた場合、後の家族は問題なく暮らしていけるのだろうか?結論から言えば、その点について問題はない。「不動産の市場を調査すると、最も高価に売れる住宅はユニークで、魅力と特徴があって、二戸建であることが分かる。このような住宅の多くは昔に建てられたものであり、そこに魅力(と価値)があるのは、まさにそれが特定の人たちによってデザインされたからである。全く違う家族が引っ越してきたからといって、この住宅がより人間的であるという事実は、それが人間的なリアリティにもとづいている限り、変わるものではない」。それどころか、「もし、実際の家族の多様性に対応できるくらいに手に入る住宅の多様性が驚くほど大きいときには、既存の住宅を買おうとする家族にも非常に大きな選択肢があることになる。この多様性すべてが市場に存在している限り、人々は自分たちの特質や独自の必要性に合った住宅を見出す機会が、限定され標準化された小さい範囲の中からしか選べない今よりもはるかに多く、恵まれているということである。個々の住宅デザインという原則は、いかに多くの家族が他の家族のつくった住宅を買って引っ越すような状況になったとしても、より豊かな人間性をつくり、住宅と家族との密接な関係を生む機会を増やしていく。もちろん、家族が自分たちの住宅をデザインするというプロセスは、家族と住宅の間にこうした固い絆をつくり出して、住み替えたいという欲求を抑えてくれるだろう。次から次へと競って住宅を住み替わるような時流に歯止めをかけて、人々を定住させる。それが、コミュニティを維持していくことにつながる」。

では、量的な大規模化についてはどうだろうか。つまり、「『住宅問題』の解決には一般に理解されているように何百万戸という数の住宅の建設が必要で、この何百万という住宅を素早く建でなければならない。そして、誰にとってもこの点こそが問題なのだ」ということである。これに対し、社会全体で必要とするトップレベルのアーキテクト・ビルダーの数、アーキテクト・ビルダーの養成コスト(時間や資金)、住宅管理のコスト、クラスターとビルダーズヤードとの関係構築の実現可能性などについて、想定による思考実験を行い、理論上は不可能ではないと述べている。だから、彼の提唱する住宅生産プロセスは、大規模な建設にも確実に適応可能で、明白な利点をもち得る住宅生産の普遍的なモデルであると主張する。

住宅生産システムに留まらない社会の根本的変革

しかし、以上に述べてきたようなアレグザンダーの設計プロセスは、その革新性ゆえに、幾多の困難に直面している。「実際に、家族が自分自身の住宅をデザインしていることや、その住宅がほかとずいぶん違ってきたことが明らかになると、プロジェクトに関わった何人かの役人があわて始めた。彼らは、その設計が適切にレイアウトされていないのではないかと疑い始めた。彼らが言うには、『やはり、専門家なしに家族が自分たちの住宅を正しくデザインするなんて不可能です。違いますか?』」。マカリアという人の住宅のプランはたしかに、「小さい寝室と大きい共用部分をもつように『正しく』レイアウトされたプラン」ではなく、逆に大きい子供部屋と小さなダイニングをもつプランであった。しかしそれは、「子供たちが成長したときに、できる限り広い子供部屋であるようにしてあげたい。狭いダイニングも家族が一緒に食事を楽しむのには好都合だ」という家族の生活の目標に適っているからであった。だから彼は「マカリアのプランを、単にそれが普通でないからといって『間違い』だとした役人の見識こそが、全く間違っている」と憤り、「銀行や役人が抱いている、『自分たちだけが家族にとって何が良いかを知っている』とか、『建築家だけが問題を解決できる』といった見解は、尊大で馬鹿げている。〔…〕自分たちの意見を変えようとしない、恐るべき役人の傲慢さには驚かずにはいられない」と批判する。

しかし一方で彼は「こうした反応は悪意から出たものではない」とも言う。それは、「社会構造の根源的な転換が生み出す漠然とした不安感」によるもので、「この不安感は特定の機能的問題によって引き起こされるものではない。それは、単に私たちの提案している生産システム全体が人々に馴染みがないからというだけではなく、私たちの一番深層の構造的なレベルで、近代的思考の文脈によってはほとんど「予想もできない」変換を提案し、要求しているからなのだ。この不安感は、プロセスのもっている予想不可能という性質や近代的認識のカテゴリーに対する攻撃性、あるいは、単に型にはまった考え方が受ける不快感といったことからも生まれてくるのだろう。そして、これこそがプロセスの実現を困難にしている根本原因なのだ。〔…〕現存の生産システム、さらには社会に存在するあらゆる生産システムはその社会に深く組み込まれていて、数多くの日常的な関係や慣習、『当たり前の』行為や何も考えずに従っている物事の道理の中に、暗黙のうちに存在している。つまりそれは、あまりにも明白で誰も疑わないほどに深く、暗黙のうちにあって、無意識のまま完全に日常生活の一部を成しているのである」。

彼は、「各クラスターでは4戸か6戸あるいは10戸の家族が共に働き、共有地をデザインし、自分の住宅とその形態に責任をもち、簡単なことでも協力し合いながら、しかも自らの独創力を自覚し、建物の立つ大地に純粋で深い関係をもっている」人間のあり方を「社会的な革命」と言っている。思えば彼が提案した住宅生産のプロセスは、単なる部材の加工方法や労働時間の管理といった物理的な変化をうながすだけではななかった。そうではなく、住民とアーキテクト・ビルダー、住民同士、家族の個々の成員同士の深い紐帯を復活させ、住宅の建設をきっかけとしたコミュニティづくりにまで及んでいた。それだけではなく、自分たち自身の時間をかけて、設計から施工まで行うという意味で言えば、それは人々の労働と生活、つまりライフ・スタイルそのものにまで踏み込んでいるとも言える。しかし、それゆえに彼の思想は現在の社会に受け入れられるのには、創造を絶する困難や課題があるように思われる。彼はクラスターと呼ばれる、少数の濃密なコミュニティのあり方を提唱している。しかし、伝統的な村社会とは異なり、人々は社会・経済的な分業体制の下で、公共的な関心を失い、近代的な私生活中心の人生を送っている。都市に住む人々は、濃密すぎる人間関係を嫌がり、他人に全く関心を示さずに匿名性の中に身を潜める。近代的な家族の関心は、ひとえに子供の成長であり、それ以外に家族同士に共通の関心を見出すのは、偶然に趣味が一致していたりしない限り難しい。そんな中で、幸先良くコミュニティ形成のきっかけが見つかるのだろうか?また、逆にそのコミュニティ形成に成功したとしても、その内部の結びつきが強すぎると、新しく入ってくる人が入りにくくなるかもしれない。また、W.F.ホワイトが言っているように「中心的な人物を失ったときに、集団は分離してしまう」。それまでがうまくいっていたとしても、引っ越しによる転入転出を堺に、雲行きが怪しくなることも十分に考えられるだろう。濃密なコミュニティには、喜びや体験の人間的な共有、強い防犯作用といったメリットもあるが、それが長続きするためには、主体間、あるいはコミュニティの内部と外部の絶妙なバランスを必要とするのだ。

また、アレグザンダーが認めているように「うまく家族の協力を得られなかった住宅は、出来が悪い」。彼はこのプロジェクトで「子供のいる家族」という家族像を前提にしていたが、現代の家族にはさまざまなものがある。「専業主婦(主夫)と稼ぎ頭とその子供」だけではなく、共働きの家族もいれば、子供のいない家族もいる。そんなとき、どうしても仕事に追われ、まとまった休暇も取れない中で、住宅ローン上のタイム・リミットに迫られればどうすればいいのか。彼のプロセスは、バカンスといったかたちで、なんらかの長期休暇が取れる文化を前提にしてはいないだろうか?そう考えれば、「ワーカホリック」と言われる程、「仕事」に人生の時間配分の多くをもっていかれる日本のような文化では、妥協せざるを得ないのだろうか?そういった文化圏に住む人は、自分が定年退職し、子供たちも独立した、時間のある時期まで待たねばならないのだろうか。この場では、彼の考えを聞くことはできない。しかし、こういったことを考えれば、現在の先進国の社会は、まだ彼の思想を受け入れる制度的・文化的な準備ができていないと思われるのだ。彼は、「もし毎日の生活に意識的で繊細な関係を渇望している人々が住宅の生産プロセスに参加できるようになれば、最終的には都市全体が生き返ってくることだろう。そこでは、どの地域に住む人でも自らの存在を創造し、形を与えていこうとする躍動感に溢れている」と言う。しかし、そんな「社会自身の再生」は彼の言うとおり「あたかも今再び始まったかのよう」なのだ。彼の思想が常識となり、都市に住む人々のコミュニティが躍動感と生命力に溢れる日々が実現するためは、これから長い長い道のりを乗り越えて行かなければならないのだろう。

参考文献

  • クリストファー・アレグザンダー著『パタン・ランゲージによる住宅の建設』,中埜博 監訳,鹿島出版会, 1991.11. (原書:1985),全286ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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