クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート』(1964-1965年)

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建築・都市論

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紹介文

本書は、1964年、著者クリストファー・アレグザンダーが28歳のときに、ハーバード大学に提出した博士論文『形の合成に関するノート』と翌1965年に発表した『都市はツリーではない』から構成されている。彼は、何かをデザインする際に求められる要求を数学的集合論の視点から整理し、合理的なデザインプロセスを構築しようと試みた結果、「ツリー構造」を発見する。しかし、彼は同時に「都市という複雑な実体は、より複雑なセミラティス構造で構成されている」ことに気付かされる。≪アンサンブル≫、≪サブシステム≫、≪エレメントを共有しあうセミラティス構造≫の重要性。≪デザインとはコンテクストをつぶさに読み解いていくことにほかならない≫、≪建築と呼ばれる、教育可能な職能の発明に伴って、形をつくる昔からのプロセスの質が落ち、それが成功する機会はなくなってしまった≫。そんな彼の設計思想の原点がここにある。

合理的なデザインプロセスとは?

人間、動物、植物の生活の生態的バランスは、日に見えない部分と、与えられた外部の物理的諸条件に対して正しく調整されねばならない。人々は、自分の望む独自の生活を送ることができるようでなければならない。そこに起こる社会の諸条件は、全体の不健康さや全体の人間の惨めさを導くようであってほならないし、またそれらが、犯罪の源となるようであってはならない。食料品や日用品の周期的な供給が、住宅の日常交通を妨げてはならない。発展する経済の諸力が、住居専用地域と都市を支える産業地域の間の機能的な関連性を破壊するような、土地投機を誘発するようであってはならない。人々が、何らかの緊密な協力関係と同時に、できる限り多様な個人の関心事を追求できる生活を営めるようでなければならない。全体の施設配置は、予測される将来の地域発展と両立するようでなければならない。人口増加と水資源、エネルギー資源、緑地の減少などに対して何らかの対策が講じられねばならない。

こんな一文で本書は始まる。アレグザンダーが言うように、現代の都市・建築設計においては、非常に複雑な多くの要望のバランスを取らなければならない。だが実際には、往々にして、求められた要素間に矛盾があったり、実際に利用するうえでの不都合・不適合が出てきてしまっていて、最高に合理的なデザインができていないと彼は言う。この論文では、その理由について分析・考察し、新たなデザインプロセスに関する考え方が提示されている。

何故、現代の建築家たちは往々にして不適合の多い建物しか設計することができないのだろうか。その理由を彼は、「人間の認知能力や情報処理能力、創造力には限界がある」という事実に求めている。つまり、現実に都市や建築(群)を設計する際には、上に挙げたような多種多様な要望が併存しているが、まさにその数が多すぎるために情報処理が追いつかず、結局のところ「ある一面の要求はよく満たしてくれるけど、ほかの要求には全く答えてくれない」形態に落ち着いてしまうということである。

そういった「人間の処理能力を超えた要求間の調整」という難題に直面したとき、近代以前の建築家たちは≪伝統的な様式≫や≪設計の教科書≫に依拠することによって、その責任から逃れようとした。そして、現代においては、≪"芸術家"としての地位、人の気を引く言葉、自己流の言いまわし、そして直感など≫に頼り、結局≪芸術的な個人性の中に自分の無能ぶりをひた隠す≫。ようするに、論理的なやり方でのデザインを諦め、直感的に美しいと思った形、あるいは既成事実として自分が築きあげた自らの建築理論の型を当てはめることによってデザインしてしまっているとアレグザンダーは言うのである。しかし、彼はそんな中でも≪理性的で合理的な設計プロセスは必ずあるはずで、多くの情報をひとりの人の頭の中で上手く処理する方法を見つけなければならない≫と考える。では、彼の提唱する新しいデザインプロセスとはどのようなものなのだろうか。

デザインとはなにか?~アンサンブルの構築過程~

まず、アレグザンダーにとって「デザイン」とはどのような行為なのだろうか。彼にとってのデザインは、本質的には「要求される諸要素をできる限り多く満足させつつ、全体としてのアンサンブル(後の「全体性」の概念)を保つために、最適な形態を模索すること」であると言える。では、彼にとっての「最適な形態」、つまり「良いデザイン」とはなにか。それは意外なかたちで定義される。

彼は「コンテクスト」を≪この世界の形に対して要求を提示する部分≫、「適合性」を≪形とコンテクストが相互に受け入れあう関係≫としたうえで、≪台所の掃除がしにくい、車の置き場がない、交通事故の起こりそうなところで子供が遊ぶ、雨もり、過密とプライバシーの欠如、目の高さにあるため熱い油が目に入る肉焼器、人の期待を裏切る金色のプラスチックの扉の取っ手、見つけにくい玄関扉≫といった≪適合が予定されていた住宅と生活と習慣の間の不適合≫を挙げ、≪二つの存在の間に良い適合を達成するプロセスを、不適合の原因となる不一致、または刺激、または力を中和する逆のプロセスとして考えることを私はおすすめしたい≫と述べている。ようするに、彼は「実際にその空間を使用するにあたって、不満や不便さ、不都合が全く出てこない形態こそが良いデザインである」と言っているのだ。こう見ると、それは「逃げ」の姿勢なのではないかとも思えるが、デザインの質を「不適合の除去」としてとらえるのは、彼が≪コンテクストに適合している家の性格づけはほとんど困難である〔…〕が、良い適合を防げている不適合を名指すほど容易なことはない≫と言うように≪論じるためには充分個別的で、実体的だから≫である。「デザインするなかで生じる問題は、分かりやすくて具体的な誤り、という意味でしか、それを説明することはできない」というわけだ。

彼は≪要求されるコンテクストにとって最高のもの、積極的に評価できるものをつくろうとすると、コンテクストを詳細に描写していく必要があるし、それにともない要求も無限に出てくる。しかし、実際には、有限の要求を抽出しなければ、いつまで経っても実際の作業にとりかかることができない≫というようなことも付け加える。この意味で、彼はある種の現実主義者と言えるのかもしれない。

例:ヤカンのデザイン

彼が整理したデザインプロセスを、本書の中で取り上げられたヤカンのデザインを例に見ていこう。まず、デザインの第1段階は「コンテクストの解読=ダイアグラムの抽出、列挙、リスト化」の作業である。「コンテクスト」とは、「その製品や建築物が満足すべき欲求・条件」のことで、「ダイアグラム」とはそのコンテクストを読み取った結果、(通常)文章のかたちで視覚化される「条件の表」のことである。例えば、商品としてのヤカンをデザインする際には、「1.小さすぎてはいけない、2.熱いときに持ち上げにくいものであってはならない、3.誤って手を放しやすいようであってはならない、4.台所に収納しにくいものであってはならない…」といったことが求められるので、それをまずは考え得る限り書き出していき、視覚化することで情報を把握しやすくするのだ。

しかし、こうして列挙していた要求の中には、例えば「n.ヤカンは水を十分早く熱さなければならない、n+1.ヤカンは熱した水を保温せねばならない」あるいは「m.ヤカンは水によるサビに強くなければならない、m+1.維持・管理のために労力や費用がかかってはならない」のように、互いに矛盾したり、相互作用をもたらしたりするものがある。そこで必要になってくるのがデザインの第2段階である。ある意味で、この点に対して自覚的になることが、本書でアレグザンダーが提唱するデザインプロセス理論の肝なのだが、アレグザンダーはこういった諸要素間の結びつきを考慮しつつ、例えば「n’.ヤカンは一方向のみに熱の伝導を許すべきである、n+1’.ヤカンは小さい熱容量をもつべきである」といった具合に、≪前にあげた対と多少とも同じ基盤を有しながら、それでいてより独立した二つの変数に書き換える≫作業を要求する。つまり、それぞれのダイアグラム同士が互いに影響を与えないように、できる限り独立した要求として処理できるかたちに変換するということだ。こうすることによって、複雑な相互作用を考えずに、目の前の要求だけに集中して材料や形態を考えていけるようにするのが、彼独自の工夫といえる。

では、そうやってダイアグラム同士をバラバラに解きほぐしたら、次はなにをすべきなのか。これがデザインの第3段階にあたるが、ここでは≪一度完全に独立したダイアグラムを、上位概念を用いてまとめなおす≫作業が必要となる。つまり、ヤカンの例で言えば、「1.製造コストは十分安くなければならない、2.維持費は安くなければならない、…」といった要求を「経済性」という概念でくくり、「o.子供や病弱な人が利用しようするとき、事故を起こすような間違いやすいものであってはならない、o+1.何の警報もなく、空だきが起こるようであってはならない、o+2.湯が沸いているとき、ストーブの上ですわりの悪いものであってはならない、…」といったものを「安全性」という言葉にまとめるということだ。

アレグザンダーはこのまとめられた要素の集合を≪サブシステム≫と呼び、さらにそれらのサブシステムをまとめた、ひとつの大きなダイアグラムを、その形から≪ツリー構造≫と呼んでいる。

ツリー構造のイメージ図
図1 ヤカンのツリー構造

このサブシステム内部の要素同士にも、当然のことながら相互作用が働き、互いに影響を与えあう。だが、サブシステムとしてまとめられたものは基本的には、似たような要求をまとめたものなので、あまり互いを邪魔することがない。だから、まずは調整しやすいサブシステムとしてまとめてしまって、内部での調整を経た後に、「経済性」と「安全性」、「機能性」といったサブシステム同士のバランスを考え、最終的に統合・調整作業に入っていけばいいとアレグザンダーは考える。これが、彼が整理したデザインプロセス理論の概要である。これを図示すれば、図2のようになる。すなわち、左がコンテクストの解読やエレメントの翻訳作業、右が統合のプロセスを表している。

デザインプロセスのイメージ図
図2 デザインプロセス

このように、アレグザンダーのデザインプロセス理論はおおまかに分けて3つの段階で構成されているわけだが、このプロセスを成功させるためには、彼が≪このように変数をくり返し調整して、それができる限り独立したものになるまで、初めの段階においてかなりのエネルギーを費やさねばならない≫と述べているように、第2段階に心血を注がなければならない。ある意味でこのプロセスが完璧にこなせれば、第3段階におけるまとめの作業はそれほど苦にはならないだろう。しかし、彼のデザインプロセスにおいて、最も本質的、かつ最も大変な作業であるといえるのは、むしろそのまた前の「コンテクストの解読=ダイアグラムの抽出、列挙、リスト化」の作業である。この作業は何故≪最も本質的、かつ最も大変な作業≫なのだろうか。

それは(1)都市・建築設計においては、クライアントやそれぞれの地域によって、固有のコンテクストが存在し、自分が経験したことのない要求に応えなければならない可能性が高いから、(2)その都市や地域、建築が真に快適なものとなるためには、逆説的ではあるが、使ってみてから出てきた「もっとこうなればいいのにな」という不満や要望に応えていくしかないから、(3)本来人はすべての認知を言語化して他者に伝えられるわけではないため、本人の中に直感的にしか存在せず、言葉で表現し難い要望、あるいは言語化・概念化されていないダイアグラムが存在するから、といった理由による。たしかに、建築設計の教科書や手引、ガイドラインには「音響」や「照明」、「動線」といった既に言語化・概念化された留意すべきポイントが数多く載っている。しかし、それはあくまでも最大公約数的な人間の欲求を満たしてくれるだけであり、将来生じるであろう「潜在的な欲求」や設計時にクライアントすら上手く表現できない欲求、使ってみてはじめて出てくる不満などには対応することができない。この点、既に言語化・概念化された要素というものは、本来先人たちがたまたま発見し、名前を与えることに成功した、数ある要求のうちの一部分にすぎない。しかし、それが教科書に載り、明確に教育されていくようになると、たちまち「準拠すべき基準」になってしまって、デザイナーたちを思考停止の状態に陥らせる。だが、アレグザンダーにとって本質的なことは、「クライアントや地域の住民たちが求めていること=コンテクスト」をつぶさに理解していくことであり、なによりも、「人」と向きあうことなのだ。

自覚的なプロセスと無自覚なプロセス

さて、ここまではアレグザンダーが整理した一般的な設計プロセスの手順について見てきたわけだが、ではこの理論にもとづいて、現在のデザインプロセスのどこに問題があるのかという点を見ていくことにしよう。

彼は、≪建築はそもそもその発端から失敗していた、と私は言いたい。建築と呼ばれる、教育可能な職能の発明に伴って、形をつくる昔からのプロセスの質が落ち、それが成功する機会はなくなってしまった≫と言う。アレグザンダーは、現代的な設計プロセスに欠けている点を、前近代的な建築の設計プロセスとの比較によって明らかにする。ここでいう前近代的な建築とは、≪百姓家、エスキモーの家、アフリカ人の泥の小屋など≫のことを指すが、それらの建築物は基本的に≪石、土、芝、草、わら、彼らが食べた野牛の皮など身近にあるもの≫を材料として、そこを実際に使う人自身がつくり上げる。施工の技術やノウハウは原則として、誰かに教えられるわけではなく、親や近隣の人の仕事を手伝うことによって習得される。また、建物の様式や形式について、人々は往々にして保守的であり、≪勝手な変化に対する抵抗を、神話、しきたり、タブーなどの様々な型で、保有している≫。変化が起こるとすれば、それは≪既存の形の修正を要求する強力な(そして明白な)不都合があるときにのみ≫に限られる。

一方、現代的な設計プロセスにおいては、資本主義社会的な専門分化の法則に則り、設計する人、施工する人、そしてそれを実際に使う人はすべて別の人間であり、≪材料は、もはや手近にはない。建物は、耐久性のあるものとなり、補修とか調整を繰り返すことは、以前に較べると少なくなる。建設はもはや住む人の手から離れ、不都合が起こると、専門家がそれを確認し永久的な処置をする前に、幾度か報告され説明されねばならない≫。また、施工の技術やノウハウは原則として、専門的な教育機関によって教授され、一定のカリキュラムやプログラムに沿ったトレーニングによって習得される。さらに、とりわけ身ひとつで仕事を獲得して、自分の名前や理念、思想を売っていかなければならない建築家・建築デザイナーは、往々にしてその人を売り出すためのなんらかの「個性」を打ち出さなければならないし、≪束縛から逃れる欲求≫、≪個性表現の傾向≫、≪伝統やタブーからの脱出≫といった衝動や流れにしたがって、「正解のない」自由な状況において、自らの責任において「解答」を出さなければならない。

アレグザンダーはおよそ以上のように要約できることを述べて、≪形をつくることが形式化されない、模倣と修正を通じて学ばれる文化≫を、『自覚していない文化』と、≪形をつくることが、明確な規則によって学問的に教えられる文化≫を、『自覚している文化』と定義する。むろん、この定義においては、前者が前近代的な建築の設計プロセスであり、後者が現代的な設計プロセスに相当するわけだが、その「自覚的なプロセス」がうまくいかない理由には、本書で述べられている情報を整理する限り、(1)ダイアグラムの収集作業が甘い、もしくは専門分化しているために不可能、(2)エレメントやサブシステム間の相互作用、あるいはアンサンブルの重要性に対する理解を欠いている、(3)短期間のうちに完璧なものを完成させることにとらわれている、といったものがあると考えられる。

(1)ダイアグラムの収集作業が甘い、もしくは専門分化しているために不可能

これは、主に住む人と建てる人の分離によってもたらされる問題である。つまり、実際にそこで暮らす人が建築をつくる分には、自分の要求を誰よりもよく理解することができるし、それがうまく言語化・概念化できないにしても、実践の中で試行錯誤を繰り返していって、感覚的に適合する形を見つけていけばいい。事実彼は、≪以前はゆっくりと動いていて、適応の時間も十分にあった文化が、今は、あまりにも早く変化するので、適応がそれについて行けなくなる≫と述べている。

また、身近にあるもの、あるいは普段の生活の中から出てきたものを材料にしているため、≪自分がつくった形の中に住むだけではなく、欠陥のある細部の絶え間ない再調整と絶え間ない改良を導く、人と形の特別な接触の親密さがそこにある≫ことも、自身の感じる不満や不適合への感度の維持に貢献する。一方、自覚的なプロセスにおいては、本文の最初の方で書いたような、コミュニケーションの問題や人間の情報処理能力の限界などによって、ダイアグラムの収集作業にどうしても隙が生まれてしまう。

(2)エレメントやサブシステム間の相互作用、あるいはアンサンブルの重要性に対する理解を欠いている

これは、主に人間の情報処理能力の限界にもとづいて生じる問題である。彼は、ル・コルビジェやフランク・ロイド・ライトなどの偉大な建築家の建築について、≪素人は、デザイナーが主婦の仕事の実用的な細部に興味がなく自分の関心事にばかり夢中なので、明快さのために機能を犠牲にする、と非難する傾向がある≫が、≪これは間違った非難である≫と擁護する。彼の理解によれば、≪デザイナーは機能的なプログラムの一部を、他の犠牲において発展させることが多い、というのが正しい≫。つまり、アレグザンダーは、「近代の偉大な建築家たちは、建築のデザインにおいて重要な全体のアンサンブルを保つという点はクリアできているが、代わりになんらかのサブシステムを犠牲にすることで、成り立たせてしまっている」と言うわけだ。この点、彼は≪あえてそのようにする理由は、彼らにとって形を明快に組織できると考えられる唯一の方法が、何らかの比較的単純な概念の推進力によってデザインするということだからである≫と考えている。彼は偉大なモダニズムの建築家たちの偉大さを認めつつも、やはりある種の「型」や「理論」に当てはめるかたちで全体のアンサンブルを達成しようとしている点に、物足りなさを感じているのだろう。

この点、アレグザンダーはさらに商業的な住宅設計に対しては手厳しい。彼は建売業者による平均的な住宅を、≪形についての様々な要求がばらばらに満足されており、そこにはアンサンブルを動かしている秩序に対して形が全体として寄与するために必要な、総合的な組織の感覚が少しもない≫と批判している。それは、≪今日、我々のまわりのすべてが安く手頃な値で買える品物で補われる≫ために、≪家を太陽と風向に対して垂直に配置するかわりに、業者はその構成に方位を考えず、光、熱、通風は換気扇、電灯、その他小細工的な装置で処理≫しようとし、≪間取りの上では、寝室が居間から離れておらずに隣接しており、その間の壁に遮音材が詰められている≫からである。そういうアップリケを当てるようにしてアメニティを高めていこうとする姿勢は、クライアントが満足感を得られればそれでいいのかもしれないが、それでも変に道具・設備や装飾ばかりが増えていって、維持費だけがかさむ合理的でない形態になってしまうことに変わりはないだろう。とりわけ資源やエネルギーの節約意識が高まり、パッシブシステムへの関心が高まっている今日においては、特に重要な視点であろう。

こういった類の失敗は、「全体としてのアンサンブルにこそ、居住するうえでの快適さや合理性、明快さを感じることのできる源が存在する」という点に気づいていないか、あるいは「コンテクストの解読=ダイアグラムの収集・翻訳、解体・分類作業を上手く処理しきれず、既存の『型』に逃げてしまう」ことによって生じる。無自覚な設計プロセスにおいては、個人が個性を発揮する機会は存在せず、形態や様式は非常に強固な伝統や掟によって守られている。それゆえ、形態の変化は「その利用者が本当に我慢できない」不適合が生じたときにしか起こらない。しかし、これがむしろ幸いしているのだ。なぜなら、≪無自覚な文化の形づくりが、不適合システムの部分が独立して働くような仕組みで小さな変化に対応するのに対して、変化に対する自覚をもつ文化の反応は、サブシステムごとに起こらないために、その形は独断的なものになる≫からだ。

(3)短期間のうちに完璧なものを完成させることにとらわれている

これは、アレグザンダー自身、本書が書かれた段階で自覚的であったかは分からないが、「人間の絶えざる欲求の生成」や「サブシステム内、サブシステム間のバランスの重要性」といったことの論理的帰結として導かれる。実際に、彼の次の著作である『オレゴン大学の実験』(1975年)では、「漸進的成長」という言葉によって概念化されている。これは『時間の中の都市』の著者であるケヴィン・リンチも指摘しているが、近代的な設計プロセスにおいては、巨大なスケールの計画(マスタープラン)を一気に書き上げて、その計画に従って建築を実際につくり、その後は基本的に手が加えられることなく、寿命が来たときにまとめて取り壊していた。しかし、設計の段階で構成要素間、あるいはサブシステム間の複雑系を考えきることができないため、結局不適合の多いシステムを長く使わなければならないハメになる。つまりは、「永続性」という観念に、暗黙のうちにとらわれてしまい、変化を一切排除してしまうということだ。

これに対し、アレグザンダーは、むしろ細部や部分の小さな修正・調整を絶えず行うことによって、建築や都市を常に進化させていくことが重要であると考える。それゆえに、その建築が安定期に入るまでには長い年月を要することになる。ある意味で建築の製作プロセスに終わりはないのだ。こういったことは、彼の次のような言葉に表れている。

大体のところ私は、無自覚なプロセスは、動的平衡(homeostatic)の構造を持つがゆえに、変化の中にあってすらも、一貫して良く適合する形を生産するのだと主張したい。また、自覚している文化では、そのプロセスにおける動的平衡の構造が故障しているので、コンテクストに適合できない形の生産が起こるだけではなく、おあつらえ向きになっている、と言いたい。

アレグザンダーの自己訂正~都市はツリーではない~

本書の第1論文『形の合成に関するノート』において、アレグザンダーは彼の考える「良いデザイン」を実現するためのデザインプロセスについて整理した結果、合理的かつ快適な製品は各要素が「ツリー構造」を構成していることを明らかにした。しかし、彼はその翌年の論文『都市はツリーではない』において、早くもその考えを修正する。その内容は、タイトルのとおり「都市はツリーではない」ということなわけだが、では良い都市はどのような構造をしているのだろうか?

彼は、本論文の冒頭で≪都市はセミラティスであってツリーではない≫と宣言する。彼は、≪互いになんらかの関係があるエレメントの集まり≫を≪セット≫、≪セットを形成するエレメントが相互作用をもつとき、エレメントを構成するセット≫のことをひとつの≪システム≫と定義し、≪複数のサブシステムがいくつかのエレメントを共有している≫構造である、≪セミラティス構造≫こそが、良い都市構造の正体であると述べる。

セミラティス構造のイメージ図
図3 共有しあうセミラティス構造

本書でアレグザンダーが挙げている例を用いて説明すれば、≪タクシーは歩行者と車とが厳密に分離されていない場合に機能するわけである。また空のタクシーが客を求めて広い地域をカバーするために交通の速い流れを必要とするし、歩行者はどこででもタクシーを呼び止め好きなところへ行くことを必要としている。タクシーを含むシステムでは高速交通システムと歩行者のシステムとが重なり合う必要がある。マンハッタンでは歩行者と車は街の一部を共有し、必要な重なり合いが確保されている≫ということだ。

こういったアレグザンダーの主張について、1960年代における建築・都市論の古典を読んだことのある人であれば気づくかもしれないが、彼の主張は基本的にジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』で主張した「多様性と混在の重要性」と論点は同じである。人はひとつの場や空間にいくつもの意味を与え、そして生み出す。それは、建築家や都市デザイナーが頭のなかで想定した想像をはるかに凌駕する。ツリー構造において、あるエレメントはひとつのサブシステムの中に組み込まれてしまえば、もうそれ以外の機能を果たすことはできなくなる。それは大いなる「閉じ込め」だ。しかし、自然に発展してきたイキイキとした都市は、ひとつのエレメントをいくつものサブシステムが共有している。だからこそ、その空間は生きてくる。だが、セミラティス構造は一見複雑であるため、≪直感的に把握できる能力には限界があり、一度の思考では複雑なセミラティスを理解できない≫。しかし、だからこそ、自然な都市の秩序を形成する、構造を意識して、デザインしなければならない。この論文もそういった、近代的な「スーパーブロック構想」や「地域による用途の住み分け」に対する批判のひとつであると考えることができる。

デザインに王道なし

本書は現代の偉大な建築家、クリストファー・アレグザンダーの建築設計思想の原点として、発表以来デザインを志す人々に大きな影響を与え続けてきた。しかし、彼はこういった理論を学ぶことだけで満足してはほしくないと言う。実際に彼は本書の中で次のように述べている。

実際に、この本が出版されて以来、いわゆる「設計方法論」という名のさまざまな学術世界が形成され、私はこの方法論の代表選手であるかのように名指しされている。私はこうなってしまったことをまったく残念に思う。この公の場で私ははっきり述べさせていただくが 学問の主要目的として設計方法論を学ぶことをすべて否定させていただく。なぜなら、設計の実現と設計の学習を別々に考えるほど馬鹿げたことはないと思うからである。〔…〕この本を「設計方法論」の本であるかのように見る人はダイアグラム(パタン)の重要さとそのキーポイントを見失っている。その人たちはパタンに到達するための細部の方法に目がいってしまっているに過ぎない。私のこの方法に盲目的に従って、優秀なデザイナーになれるわけではない。否、どんな方法だって盲目的に従うべきではない。だが次に述べる人ならばこの本の核心に到達できる。その人は、まずある条件下の力の集合の意味することを検討し抽象的なパタンを自由に組み合わせて新しい形を創造する。その人はパタンの条件として、内部に絡まる相互作用の力が濃密でその力は外部に対してはほとんど影響を及ぼさないとよく理解している、その人はその条件を踏まえたパタン(図解)を独創的に創造するプロセスを最後まで続ける人である。

デザインの世界、いやより広く「正解のない問題」に取り組まなければならない人にとって、「これを守れば大丈夫」という万能な理論は、文字どおり存在しない。人々に満足してもらえるような解答は、その人々と触れ合い、議論し、意思疎通を図り、徹底的に向きあうことによってしか、出すことはできない。アレグザンダーが最も大切にしているのは、とどのつまり「目の前の『人』を見ろ」ということなのではないだろうか。

参考文献

  • クリストファー・アレグザンダー著『形の合成に関するノート』,稲葉武司 訳,鹿島出版会,2013.12.(原書:1964-1965),全253ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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