レオン・フェスティンガー『認知的不協和の理論:社会心理学序説』(1957年)

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社会学 心理学

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紹介文

認知的不協和とは、簡単に言えば、「心の中に生じる矛盾」のこと。そして人間は、認知的不協和の状態に陥ったとき、なるべくその不協和を緩和し、解消しようと、自身の行動を正当化・合理化をしたり、自分の方が譲歩したりする。そして、その正当化や合理化は、社会的な支持が得られるとよりいっそう強固なものになり、その人の心の安定に大きく寄与することになる。本書は正統派の心理学者によって書かれた書物らしく、著者フェスティンガーが立てた仮説の、実験室実験による検証の様子が描写されているが、より面白いのはむしろ彼の理論を用いて、社会的な現象を解釈しようとしている部分にある。宇宙との交信を信じた人々は、どうやって自分たちの誤りを合理化したのか?そしてなぜ、自分たちの秘密主義を破ったのか?そこには、自分たちのグループ内部での社会的な心理力学が働いたと彼は言う。個人の心と社会の反応との関係を描いた1冊。

心の中の不快な矛盾「認知的不協和」

本書のテーマは、タイトルにもあるように「認知的不協和」である。フェスティンガーは、認知(cognition)を「自分自身に関する、自分の行動に関する、あらゆる知識、意見、または信念」と定義し、複数の認知の間の関係に矛盾がない状態を「協和」、逆に矛盾や不一致がある状態を「不協和」と呼んだ。本書の中で挙げられている例で言えば、例えば愛煙家の人が「タバコは健康に悪い」という宣伝や情報を耳にしたときには、人間ならたいていの人が願うであろう「自分は健康に生きていきたい」という認知と件の「タバコは健康に悪い」という情報は、互いに矛盾する。そしてこの2つの事実は、矛盾しあうがゆえに、同時に併存することはできない。このような状況において、人間の心の中にはアンビバレンスな感情、あるいは葛藤が生じる。これが「認知的不協和」にほかならない。人間にとって、この認知的不協和の状態は、居心地が悪く、不快であるため、原則として人はその不協和の低減や解消に努めることになる。この際、認知的不協和を低減する方法としては、「自分の誤りを認め、自分の行動の方を変える」という方法と「自分の行動を合理化したり、矛盾を生み出している認知に対して否定的に考える」という2種類の方法がある。先の愛煙家の人の例で言えば、前者はすぐにタバコをやめることによって、2つの事実の間の矛盾を変えてしまうということだ。それに対して後者は、「(a)自分は喫煙を非常に愉しみにしているので、それだけの価値はあるのだ、(b)自分の健康をそこなう可能性は、ある人々がいうほど重大ではない、(c)自分は、起こりうるあらゆる危険な事故を避けることはできないとしてもともかくこうして生きているではないか、(d)おそらく、たとえ煙草をやめても体重が増えるであろうから、健康に悪いという点では同じことである」と合理化することで、喫煙を続けるということである。これは、実際に矛盾する2つの事実に直面した場合に起こる心の動きであるが、人はこういった不協和の発生や強化を避けるために予め、不協和を起こしそうな情報への接近を回避するということもある。要するに、禁煙を勧めるであろう医者にかかりたがらなかったり、タバコの害悪を解説するテレビ番組を避けたりするということである。

また、この認知的不協和は、どんな対立においても同じくらいの不快感をもたらすわけではなく、基本的には「不協和(または協和)の大きさは、その要素の重要性または価値が増大するにつれて増大する」。例えば、ある人が何かの買い物をするときに、AとBというふたつの候補で迷った挙句、どちらかを選択したという場合に、それが100円のお菓子であったならば、「Aを選んで失敗したな」と思っても、「まあ、100円くらいいいか」とあまり気にすることもなく不協和は解決するだろうが、それが100万円の自動車であった場合、「Aではなかったのかもしれない…」と思ってしまった際の認知的不協和は非常に大きくなる。この際、人は自分の失敗を認めるのにけっこうな勇気を必要とするため、なんとかして「いや、でもAの方が燃費も良いし」とか「Bのデザインは良いとは思えないし」といった理由を探し出し、自分を納得させようとする。

こういった合理化の力、あるいは理由を見出したときの心の安定性というものは、自分自身で考え出したものであっても、十分効果を発揮するものではあるが、それが他者から与えられたものであったり、周囲からの賛同を得られることになれば、より強力なものになる。つまり、タバコの例で言えば、愛煙家仲間と愚痴を言い合い、「俺達にはタバコが必要なんだよな」と確認しあったり、ある専門家の人が「タバコを我慢するストレスよりは、タバコ自体の影響の方が少ない」と言えば、その意見に飛びついたりするということだ。

ただし、そのような社会的支持というものは、いつも得られるというわけではない。ときには真っ向から反対されることもある。そのような場合、人はその「反対された」という事実に対しても認知的不協和を感じるわけだが、その際、(1)自分が周りに合わせる、(2)周りを説得して、自分に合わさせる、(3)そもそも、周りは自分と比較できる存在ではないと決め込む、といった行動を取ることで、その不協和を解消しようとする。例えば、家族に喫煙を反対された場合、(1)の場合は、自分が折れて喫煙をやめる、(2)の場合は、例えば「部屋が臭くなる」という理由で反対されたとして、「じゃあ外で吸うようにするから」といって、家族を納得させるということである。また(3)については、例えば「健康に悪いから」という理由で反対されたとして、先に挙げたような理由を持ち出し、「お前たちは、タバコの良さを知らないからそんなことが言えるんだ!」とふてくされ、交渉を拒否してしまうということである。このように、認知的不協和の増大や解消においては、他者との相互作用が大きな影響を果たすことが考えられるために「社会心理学序説」というサブタイトルがついているのであろう。

本書においてフェスティンガーは、今まで述べてきた認知的不協和の存在とその解消方法について、正統派の心理学者らしく、実験室実験によって、自身の仮説の妥当性や科学性を検証しているわけだが、正統派の心理学者であるわけではない私にとっては、その辺の検証については正直に言ってあまり興味はない。むしろ私の興味を引くのは、実際に起こった現象を認知的不協和の理論を使った解釈を試みている例である。今からそのうちの2つの例について考えてみたい。

宇宙との交信を信じた人々

1つ目の例は、フェスティンガー自身も観察した、とある教団の例である。この教団は、「宇宙に住む数多くの守護神からの託宣を受け取った」ことを自称するひとりの婦人を中心として展開されていて、25人~30人の女性信者たちは、この宣託を信じきっていた。また、託宣を受け取った婦人のまわりに集った集団は、大部分、教育のある中流の上の階層に属する人々であった(正常な生活をし、社会において責任ある役割をはたしていた)。そんな教団の教祖である婦人はある日、「指定された日のちょうど夜明け前に、大洪水がこの大陸の大部分を一呑みにするであろう」という予言を受信した。この予言に対して、信者たちは、「自分の知り合いのグループに2~3回にわたって予言を伝えた」り、「迫り来る出来事を予告する2種類の折り込み広告(press release)を全国紙の集配機関(assortment)送った」りした。しかし、これらの行動は決して新しい信者を獲得するための布教活動ではなく、単に来るべき日に霊魂の救いを受けるための義務にすぎなかった。この教団の宣託は、どちらかと言えば秘密主義的だったのである。

しかし、ある日医者である信者が、その信仰を理由に解職されたことによって、新聞に特ダネとして取り上げられてしまった。そのことによって、多くの報道陣が彼女たちのところに集まってきて、執拗に取材をしようとしてきた。しかし、彼女たちは、基本的に秘密主義の立場を取り、自分たちの信仰を世に広めたいという欲求は持っていなかったため、苛立ちと迷惑の情を表し、基本的にメディアを無視した。

そうこうしているうちに、来るべき日が迫ってきたため、「多くの人々は自分たちの職を捨て、いままで大事にしていた財産を放棄し、金銭にも無頓着になった」。なぜなら、世界の滅亡と自らの肉体的な死を目の前にすれば、そのような世俗的な価値など取るに足らないものにしかならないからである。しかし、このような選択をしたことによって、このグループの大部分の人々にとって、信仰を断念するということはもはや容易なことではなくなった。

そして予言された日が訪れた。彼女たちは宇宙からやってきた円盤で救い出されるはずであった。しかし、当然ながら件の円盤は、待てど暮らせど自分たちを助けに来ないし、大洪水も起こらない。外部の人間の感覚からすれば、この時点で信者たちは目を覚ますだろうと思うが、実際には人間の信仰心はそこまでやわではない。結局彼女たちは、「今夜の出来事は、近いうちに起こるほんとうの救出のテスト、訓練、ないし下稽古であったのだ」と解釈することで、目の前の現実と自分たちの信仰・行動との間の矛盾を合理化してしまったのである。そして、その後、教祖である婦人が、本当の救出のための時、所、方法をかれらに告げる託宣をキャッチしたため、その場はそれで皆納得して、場は収まった。

しかし、件の「本当の日」がやってきても、当然円盤は来ないし、大洪水も起こらない。ここからの信者たちの2通りの行動に、認知的不協和の解消に関する人々の相互作用のポイントがある。2度も期待が裏切られた結果、信者たちはどのように思い、行動したのだろうか。普通の感覚ならば、「なっ?やっぱり大洪水なんて起こらなかっただろう?」と言って、信者たちを馬鹿にするだろう。実際に、その日ひとりで円盤の到来を待っていた人たちは、激しい恥辱や憤り、自分への失望を感じながら、「あの女はインチキだった…」と認め、目を覚ましたのだった。しかし、教祖の婦人と一緒に円盤の到来を待っていた人々は違った。彼女たちはなんと、「神はこのグループに免じて、また、その夜かれらが世界中にひろめた光と力強さとに免じて、この世界を救い、洪水を起こすのを猶予した」と解釈し、またも予言の失敗を合理化してしまったのである。そして妄信的な信者たちは、あろうことか自分たちのそれまでの秘密主義的な態度に反し、「4日間、毎日新しい理由を見つけて、かれらは記者を招き、長時間インタビューを行ない、一般人をかれらの考えに引き入れようと試みた」のである。信者たちはなぜこんなことをしたのだろうか?

フェスティンガーはこの行動の意味について、「信者が増えれば増えるほど、自分たちの行動は間違っていなかったと思えるから」という解釈をしている。ここに、認知的不協和の解消における社会的支持の効果が認められる。すなわち、信者たちにとっては、自分の職も財産も何もかもを捨ててまで信じた宣託であったため、「その予言を信じたことは間違いで、何の意味もないバカな行動であった」と認めることは、もはや不可能であった。だからこそ、まず2度目に予言がはずれたときに、みんなが互いを支えあうことができてしまったし、自分たち意外の人々の支持も得ることができれば、さらに、予言がはずれたことによって生じた認知的不協和を低減させることができると(直感的に)感じたからこそ、自分たちの秘密主義を破ったのである。要するにこの例においては、グループ内部での相互的な社会的支持が、悪い方向に作用してしまったのだ。

政治的キャンペーンの意味

私の興味を引いたもうひとつの例は、主に政治的な情報・宣伝についての、メディアへの選択的接触というテーマである。「人間は、自分に認知的不協和を生じさせるような情報は、避けようとする」ということが真であれば、その逆もまた真なのだ。つまり、「自身の協和的な認知をさらに強化する情報や意見については、人は積極的に接触しようとする」ということである。例えば、ある国の税制について、ある税金の増税に賛成する人であれば、「増税することの意義を説くコラム」や「増税しないことのデメリットを批判する演説」は耳に入れるけど、逆に「増税の害悪を解説するテレビ番組」や「増税反対派のデモ行進に関するニュース」に対しては、すぐにチャンネルを変えて見ないようにしてしまう。また、たとえそれを読んだり聞いたりしなければならない状況であったとしても、自分と対立する意見に対しては、端から批判的にしか聞こうとしない。こういったメディアの効果について、アメリカの社会学者ポール・ラザースフェルドはその著『ピープルズ・チョイス』の中で、「マス・メディアによる政治的なキャンペーンは、既に立場を固めている人々の立場をさらに固めることには効果があるが、確固たる意見をもっていない人々や自分とは反対の立場を取っている人には、あまり大きな影響はない」と述べている。むしろ、確固たる自分の意見をもたない「根無し草」的な人々の政治的な意見は、「自分が普段から付き合っている親しい人々の表明する意見に左右されることが多い」。それは、自分の家族でも同僚でも、友達でも、ひいては自分が働いている店のお客さんでもいいのだが、その人たちが、表明する「確固たる意見」に影響されて、人々はある立場を取ることが多く、したがって政治的なキャンペーンとは、確固たる意見をもった「オピニオン・リーダー」を通じて、間接的に人々に影響を与えるにすぎないということだ。この点、W.F.ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサイエティ』にも同様のことが観察されている。

コーナーヴィルの政治集会に出席する人びとはたいてい、既に特定の候補者を決定済みである。サム・ヴェヌーティは、彼の選挙対策委員会で次のように述べている。「コーナーヴィルに関して言えば、私に投票してくれる人びとはみんな、すでに投票のしかたについて納得済みである。私はコーナーヴィルの政治集会に出かけるが、集会はまるでうっぷんを晴らす場所さ。私が政治集会に出掛けるのも、いわば時勢に遅れずについていくためさ。そこには、いつも同じ顔ぶれが出席している。彼らは取り巻き迎中なのさ」。コーナーヴィルの政治集会では、政治家はもっぱら彼自身の支持者たちにむけて演説する。このことは下院議員の地方選出の通常のやり方であるが、時にはまったく変則的に映るばあいもある。〔…〕コーナーヴィルの政治家が政治集会で演説をするのは、態度未決定者を説得すべく企てた、筋の通った議論をするのが目的ではない。彼はすでに部分的、あるいは充分に説得された人びとを活動的にするような、感情に訴えるアピールを試みるのである。そうすれば彼らは、成功した政治組織に備わっている人間関係のネットワークをさらに拡大しようと働くことになる。(W.F.ホワイト『ストリート・コーナー・ソサエティ』,奥田道大,有里典三 訳,有斐閣,2000.04.(原書:1943), p247-248)

政治的に中立的(ニュートラル)で、無党派層の人々にとってみれば、「党大会や演説会に意味なんてあるのか?」とも思いがちであるが、実際にはたしかに、こういったイベントは、新たな支援者を直接獲得するために行われているのではない。そうではなく、それは、その政党や利益団体の人々が、お互いに社会的な支持を与え合い、精力的な選挙運動を展開するための決起集会なのだ。しかし、こういった現象の中にも、フェスティンガーが言及するような「認知的協和」と社会的相互作用の影響というものを見て取ることができるのである。

より深き思索への鍵

本書で取り上げられた認知的協和の理論とは、それ単体であれば、さほど面白いものでもない。もともと心理学という学問は、誰しもが経験する人間の心理をただ「科学的」に実証し、理性の支配下に置こうとする学問である。だから、正直に言って「認知的協和とはかくの如きものである」と説明されても、「たしかにそれはそうだよね。自分も分かる」とはなっても、「だから何?」ともなりがちである。しかし、それが現実の現象の理解や解釈のために応用されれば、そこからさまざまな道が開けてくる。とりわけ、この認知的不協和の概念は、政治的・学術的な論争や、凶悪犯罪やカルト集団の合理化や盲信といった現象とは相性が良さそうだ。本書の提供する認知的協和の理論とは、あくまでもそういった深入りできそうな領域を理解・考察するための鍵であり、いうなればスタート地点のようなものだ。むしろ、この認知的協和の理論から連想されたものの中にこそ、本当の知的探求が始まるのだろう。

参考文献

  • レオン・フェスティンガー著『認知的不協和の理論:社会心理学序説』,末永俊郎 監訳,誠信書房,1965(原書:1957), 全277ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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