紹介文
「家族」という存在は、恐らく人間が誕生してから今まで、古今東西を問わずに存在してきた。しかし、そのあり方は決して一様ではない。伝統社会・伝統家族は、騒々しいながらも愛情があって、濃密な人間関係の中でのぬくもりがあるというような、今となっては郷愁を感じさせるイメージがある。しかしそれは、彩られた記憶の回顧であり、身も蓋もない言い方をすれば、幻想にすぎない。実際には、伝統社会の夫婦、親子、家族‐共同体の関係は、もっと殺伐としていて、決して愛すべき存在ではなかった。本書の著者エドワード・ショーターはそんな、家族をめぐる伝統社会の姿を描写し、友愛結婚を経て生まれた、家庭愛に溢れる近代家族が生まれた原因を探求する。そして、そんな近代家族が今まさに「類型のひとつ」になろうとしている現状を分析する。再帰的近代化のひとつとしての、現在の家族問題を考える際、本書は大いに役立つに違いない。
本書の概要と伝統家族の形式的特徴
「家族」という存在は、恐らく人間が誕生してから今まで、古今東西を問わずに存在してきた。しかし、そのあり方は決して一様ではなく、時代によって固有の家族像が存在している。フランスの歴史家フィリップ・アリエスは、「社会や共同体、家族にとっての子ども」を研究し、「大人の世界から隔離し、大切に育てられるべき存在としての子ども」は、有史以来連綿と受け継がれていた唯一無二の子ども像ではなく、近代の産物にすぎないことを明らかにした。その著『子供の誕生』では、家族のあり方についても言及されているが、その中心点はあくまでも「子ども」であり、家族関係をダイレクトに扱ったわけではない。本書『近代家族の形成』では、アリエスが提示した「近代家族」という家族像が形成される過程を、夫婦関係、親子関係、家族‐共同体関係という観点から分析している。分析の対象とするのは、18世紀初頭から両大戦間までのヨーロッパ社会全体(イギリス、フランス、ドイツからロシアに至るまでの都市や村)における、(上流社会ではなく)庶民階級の歴史的経験であり、そこから続けてその延長線上にある現代の家族について考察している。近代以前の家族と近代・現代の家族を区別する形式的な特徴は、ひとつの家屋に暮らす人数の違いである。アリエスが述べているように、近代以降の家族は子どもを産む数を計算し、ひとつの家族で多くても4~5人くらいの人数しかいないが、伝統的な世帯は子どもの数が多いことにくわえ、それ以外の者も同居させていたため、構成員が幾分多く、明らかに複雑な構成をもっていた。具体的には、祖父母、親戚、未婚の兄弟姉妹、召使といった人々である。《所得が高くなり、社会的地位が高くなれば、世帯の規模が大きくなり世帯構成は複雑になる。セーレムでもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。〔…〕農場で生活をともにする人数は、平均して14名であった。妻と3人程度の子どもからなるヴィルスの家族、ヴィルスの親族3、4人およびその配偶者と子ども、それにくわえて家族以外の作男、牧夫、ヴィルスとは血縁関係のない夫婦、孤児、養子などの人々がいた。したがって、こうした世帯には、何組もの夫婦がふくまれることになる》。
伝統社会における結婚と夫婦生活①:打算と実利にもとづく婚姻
本書の著者エドワード・ショーターによれば、《伝統社会における結婚、ならびに夫婦生活には3つの特徴がある》という。それが、(1)打算と実利にもとづく婚姻、(2)妻に対する敬意と愛情の欠如、(3)不可侵の役割である。以下でその3つの特徴について、詳しく見てみることにしよう。
現代であれば、結婚は本人たちの肉体的・性格的な相性にもとづいて決められ、本人たちの想いが重視される。しかし、伝統社会においては、結婚を最終的に決めるのは両親や共同体であり、周囲の人々の承諾がなければ、結婚することは叶わなかった。そして、結婚相手を決める際に決め手となったのは、相手の人柄や器量などではなく、体力や家事・裁縫などの技術、そして、財産=持参金の額といった要素であった。本書の中の表現で言えば、《人々は通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚した》ということになる。それは、「個人」の単位では「気まぐれな自然条件の中で、なんとか生き抜いていくこと」、「家」という単位では、「家柄や財産を絶やさず、少なくとも維持すること」、「村」という単位では「共同体の規模や繁栄を維持すること」という共通の目的が存在したからだ。資本主義社会以前の伝統社会において、個人のもつ富や財産は、自らが生み出し、増加させていくものではなく、基本的に世襲によって次の世代に引き継がれていく分しか存在しない。だから、《世襲財産をもらえないことにでもなると、自然と餓え死に寸前にまで追いこまれることになる》。財産を相続させるか否かを決めるのは、基本的に両親(とりわけ父親)であるが、当時の家族にとっての相続には、ある意味で自分自身の生活保障と言ってもいい側面があった。つまり、その土地や家畜の状態をきちんと維持し、生活の糧を生産し続けることではじめて、生産性が低下した高齢者の生活が保証されるということである。だから、両親にとって老後の生活に不安を抱かせるような結婚は許可することができず、それゆえ両親が少しでも反対すれば若いふたりは結婚を諦めざるを得なかった。男性が結婚相手を決める基準となるのは、まずなによりも《厳しい野良仕事に耐え、しかも女性の仕事を抜かりなくこなす力を備えている》ことであり、家族の生存にとって絶対の条件であった。
富を蓄積しない、資本主義社会以前の伝統社会では、限りあるパイを減らすことなく、最低限でも維持することが、人々の経済観念において最大の関心事であったことは、何度でも強調しておく必要があるだろう。家族や共同体(=村)は、とにかく富が流出しないよう個々人の結婚に積極的に介入してきた。例えば、ある村の男がどこか別の村の女性に惹かれたとしても、その結婚が許されたのは、相手方から持参金をもらえることが見込める限りにおいてであった。当時の結婚は、お互いが同じ属性をもっている人どうしの間でするのが基本であった。つまり、同じ村の者、同じくらいの財産をもっている者、そしてより極端に言えば、同じ職業や専門分野の者(葡萄栽培業者、織物業者、樽屋など)ということである。その理由は、《結婚が村の者どうしでおこなわれれば、富は村の外へ流出することはないし、また、息子や娘が同じぐらいの富をもっている家族と結婚すれば、家から富が出ていくことはない》からである。こうした家族や共同体の意向に逆らって自らの情熱を貫くには、それ相応のコストを支払う必要があった。すなわち、《村人以外と結婚すれば、シャリヴァリやオストラシズムの対象にされ、社会的に身分不相応な人と結婚すれば、世襲財産ももらえず、家族からも白い目で見られることになる》ということである。
男女が出会ったときの愛の表現もまた、形式化・儀式化されており個人はただそれに従うのみであった。つまり、《「申し込み」をするための複雑なダンス(男性は決まりきった口上を完全に覚えてしまっている) 、自分の愛がいかに純粋なものか、そして、どれほど夢中になっているかの表明》は、習慣によって決められており、個々人はただ自らに相応しい役割やセリフ、立ち回りを機械的に覚えて、《男女交際劇》を演じればよかったのである。ここにおいても、《人間どうしの自発的な関係、あるいは個人と個人の創造的な交渉といった世界はほとんどなかった》と言うことができる。
伝統社会における結婚と夫婦生活②:妻に対する敬意と愛情の欠如
現在の夫婦は、お互いに承認し合える感情的な紐帯を基本として、生活が成り立っている。「尻に敷かれる」とか「かかあ天下」、「頭が上がらない」といった言葉があり、女性が絶対的な権限をもっている場合も珍しくない。最低でも、男女は家庭内において平等・対等であり、配偶者に対する虐待や暴力・暴言は、ドメスティック・ヴァイオレンスとして扱われ、被害を受けた側は法的保護の対象とされる。しかし、伝統社会では、(とりわけ男性は)《相手に敬意を払ったりすることはなく、気遣いや優しさも見られなかった》。女性は男性の「所有物」であり、完全な服従を強いられる存在であった。妻が夫を叩いたり、姦通をすれば、法的・社会的制裁が加えられたが、夫が妻を叩いたり、姦通をしてもそれは黙認されることが多かった。むしろ、姦通相手が既婚であった場合、責められるのは、不貞をはたらいた女性と、妻をしっかりと管理・服従させず、隙を見せた男の方であった。より冷酷に言えば、妻はある場面では家畜以下の存在にすぎなかった。伝統社会の夫たちは、《妻の死を深く悲しむことなく『平然』としていた。病気の家畜のためなら金を惜しまないが、妻が病気になっても医者にかかる費用を出し惜しんだ》のである。なぜなら、家畜を失えばたちまち生存が危うくなるが、家畜の世話をする人がいなくなっても、負担は増えるかもしれないが、まだ持ちこたえられるからである。家畜は死んでしまえば、新しく買うのにお金がかかるが、配偶者を見つけることにはお金は大してかからないし、むしろ財産を持参してくれるかもしれない。《妻を失ってもまた違う相手が見つかるさ》というわけだ。そして、こうした結婚生活における愛情の欠如、ないし冷淡さは、ショーターによれば《小プルジョワや農民の結婚におけるヨーロッパ各地に共通した特徴であった》という。
伝統社会における結婚と夫婦生活③:不可侵の役割
女性がそうした状況に置かれていたのは、(伝統や共同体によって)それぞれの果たすべき役割が厳密に定められていたからである。つまり、たとえ夫が本当は優しくて誠実な人物であったとしても、妻に文句を言われるままであったり、妻の仕事を肩代わりすれば、たちまちほかの住人や年長者に詰られ、自らの立場が非常に危うくなったために、(外部からの圧力によって)粗暴で残忍にならざるを得なかったということだ。くわえて、男性は過酷な肉体労働の主役であり、《彼らは往々にして40歳までに体を擦り減らしてしまっていた》。そうした余裕のなさが、結婚生活における《理解や歩み寄りをするだけの愛情》の欠如の一因であった。
伝統社会においては、全員が生産に従事し、子どもの養育に口を出していたというイメージがあるかもしれない。いわば、生存の一挙手一投足が全員プレーであったということである。しかし、厳密に言えば男女の間で性的役割分業が存在したのであり、むしろ《伝統社会の夫婦にとって性役割は絶対的なものであり、共同体もこれを破ろうとする者に対しては、笑いものにして懲罰を加えた。〔…〕夫が妻の仕事に口を出そうものなら、妻が咎めなくとも、友人か隣人の誰かが夫をたしなめた》。例えば、当時の男性には、農具(鋤、熊手、馬鍬など)の手入れや修繕、種蒔き、鋤耕、耕転、そして収穫といった過酷な肉体労働が割り当てられ、農民の一日の大部分はこれに費やされた。また、作物の生産だけでなく、穀物や家畜(牛馬)を市場で売買したすることも男性の仕事で、《彼は、これらの取引から得た収入で、税金や地代といった対外的な賦課金を支払った》。市場での役割は取り扱う家畜の種類によっても、細かく分けられていて、《家畜の市は男性だけが集まって村の広場の一隅で開かれたが、乳製品や家禽類(鶏)の市はその反対側の場所で開かれ、そこには女と子どもだけが群がるといったぐあいであった》。そして、《それぞれの市から得られた収入は、世帯の中でそれぞれの性の役割に応じて分配されたため、配偶者のどちらかが失敗したときには、厳しい非難が浴びせかけられた》。
一方女性には、料理、掃除・洗濯、子育て、糸紡ぎ、編物、手袋やレースの製造、豚や鶏への餌やり、卵の回収、牛の乳搾り、チーズ・バターづくり、除草や草刈り、若木の剪定といった仕事があてがわれていた。もちろん、これらの仕事は家業の形態によって異なっており、農作物を中心にするか牧畜を中心にするかで、担うべき仕事の種類も変わってくる。しかし、基本的には「家の中」の仕事の比重が大きく《実のところ男性は、家の中では何もすることがなかった》。
そうした家事の負担については、ショーターによれば、掃除・洗濯と子育ては過大ではなかったようである。なぜなら、《床を張ったり、壁や天井に漆喰を塗ったり補修したりしないかぎり、また飼っている動物が家に入らないようにし、畜舎と人間の生活空間を区別しなければ、家の中はいつも汚れていて、ほとんどきれいにしようがなかった。それゆえ、伝統社会の農婦にとって床をワックスで磨いたり、煤をはらったり、蜘蛛の巣を取り除いたりすることなどまったくする必要がなかった。〔…〕幼児の世話や子どもの社会化は、これらの大きな農村世界においても確かに女性の仕事ではあったが、必ずしも母親の役目いうわけではなかった。もし祖母がまだ生きていて同居していれば、彼女が幼児の世話を引き受けた》からである。だから、女性にとっては、料理が最も負担感の大きい仕事であったのである。
だが、だからといって女性の生活負担が少なかったわけではない。問題の本質は女性に「自己犠牲」と「従順さ」、「受動性」が強いられていた点にある。例えば、バスク地方の典型的な農婦は、《朝、男たちが起きてくる前に起床し、(使用人も含めた)家族のために食事をつくる。子どもたちを学校に送り出したら、次はベッドを整え、掃除や後片づけをする。それから、昼食用に菜園まで野菜を採りに行き、それを洗って皮をむき火にかける。男たちが戻ってくると、昼食を出し、給仕をするために夫の椅子の後ろに立っている。夜にはランプの灯の下で糸を紡ぎ、夫よりも遅い11時頃に就寝する》というような生活を送っていた。そこには、常に「奉仕する立場」に立っている女性の姿を見て取れるが、それは当時の共通意識として《女性はいくつかの重要な生活領域において劣った存在でいるように期待されていた》からである。《自分の身体の美容》や《流行の衣服を追い求める》といったことは、《無益で「利己的」な気晴らし》としか認識されなかった。国家の役人や領主との交渉は、男性の専権事項であり、それに口を出すなど言語道断であった。女性が大切にされるのは、ただ自らの役割をまっとうする限りにおいてであり、《産む機械》として、《求めに応じて夫とベッドを共にし、共同体が要求する数の子どもを産む》ことが女性の仕事であった(このような、性愛とは無関係の目的を達成するためのセックスをショーターは「手段としての性関係」と呼んでいる)。伝統社会においては、男女はそれぞれ《異性の前で演ずるべき役割》が存在し、《男は家父長的権威を盾にして威圧的で、利己的で粗暴、そして冷静でなければならなかったし、女は忠実で控え目、そして従順でなければならなかった》。だからこそ、この時代の夫婦には、容易に埋めがたい心理的な溝があったのである。
男女の出会い①:都市部の上流・中流階級
では、そうした夫婦生活に入る前に、男女はどのようにして出会い、そして結婚したのであろうか。まず、都市部で暮らす小ブルジョワジーの娘は、基本的に親が見つけてきた相手と出会い、両親に言われるがままその相手と結婚していた。なぜなら、彼らにとって結婚とは、「家柄を守り、財産や社会的地位を維持・拡大するための商品取引」にほかならなかったからである。結婚する娘は、純潔を守っていなければならず、それを失った者は文字通りキズ物とみなされ、結婚市場での価値は大いに下落してしまうことになる。だから、そんなことになる危険を避けるために《彼女たちは出かけるとき、両親と一緒にでなければならず、男の兄弟のように、上流階級の仲間たちとにぎやかな社交生活を楽しむこともできなかった》。農村では狭いコミュニティの中で厳しい監視の目が光っているために、女性を妊娠させて雲隠れすることはほぼ不可能であったが、都市の中ではそれが容易であったのである。あまり良い家の出でない娘には、「せっかく決まった縁組も、相手がより良い相手を見つけたから破談になった」ということもあったし、彼女たちは「嫁き遅れを避けるためには、もうこれ以上結婚を遅らせることができないから、仕方なく結婚する」という屈辱にも耐えなければならなかった。裕福な農家においても同様で、子どもが幼いうちに親同士が縁組し、子どもが思春期になった段階で結婚させた。《子どもの意に沿わない結婚でも、それによって家族に肥沃な土地が手に入るなら、子どもはそれに従わなければならない》ということである。ただし、こうした見合い結婚は中流・上流階級の人々で多く、下流の人々は個々人が自由に相手を見つけていた。
男女の出会い②:農村部の下流階級
今しがた「自由に」と述べたばかりであるが、それは「親に相手を探されない」という程度のものであり、現在の恋愛と比べれば自由の度合いはかなり低いと言わなければならない。なぜなら、《伝統社会での男女関係において、若い男女は、社会集団の監視のもとではじめて出会いの機会をもつことができた》からである。
伝統的な農村社会では、若い男女は「ナイト・コーティング」や「ヴェイエ」、夜なべ仕事の寄り合い、祭りなどの場で出会っていた。ナイト・コーティングとは、「若い男たちが少女の品定めをしに集団で家々を訪ね(キルトガング)、1人ずつそれぞれの家に留まってその家の女性と過ごす(バンドリング)」ことである。ヴェイエは、要するに「年頃の男女が集って、一緒に歌ったり、踊ったりして遊ぶこと」であり、建前上、女性たちが羊毛を紡いだり、靴下を編んだりしていた小屋にみんな集まることによって《人や家畜の発散する熱や湯気あがる家畜の寝わらからの熱を利用して、貴重な薪を節約する》という理由があったが、仕事は程々なところで切り上げて、そのままヴェイエに突入することもあった。また、伝統社会においては今日よりも頻繁に祭りが開かれていたので、多くの人が飲み食いしたり、ダンスをしたりする機会があり、その際に男女が出会い、親睦を深めることがしばしばあったのである。
ただし、そこには厳格な掟と個々人に対する厳しい監視の目が存在していた。ナイト・コーティングやヴェイエが若者たちだけの組織で行われる場合には、「キャプテン」を中心として会が開かれ、気になる相手を見つけたとしても2人だけで姿をくらますことは御法度で、みんなが同じ空間内にいなければならなかった。バンドリングの際に性行為にまで発展すれば(それが発覚した場合)、その2人は共同体から寄ってたかって罵られ、嫌がらせを受ける運命にあった。その費用は強制的に徴収される会費から捻出され、未払の者は会合から排除された。祭りの場合は、若者たちだけではなく年長者も参加したが、年長者が酔っ払っていたとしても、そこには《村人たちの目があり、共同体の監視があった》ため、どさくさに紛れて逢引することは難しかった。
このような厳しい監視があったのは、「婚前セックスの禁忌」があったからである。それは、婚約し、結婚式を目前に控えたカップルも例外ではなく、きちんとした儀式を終えることではじめて、合法的に性行為が許された。ショーターはこのような状況の下での若者の性欲について、伝統社会においては《独身者の性衝動は完全に抑圧(昇華といいかえてもいいが)されていた》と考えている。田舎の人々は共同体による厳しい監視の下、粗食に耐え、過酷な農作業に従事していたため、刺激も誘惑もほとんど存在していなかった。それでも年頃になり、いよいよその欲求が強くなり始めれば、農村社会の人々は実際の肉体関係の中にそのはけ口を求めた。それに対し、都市部の若者は、部屋にこもって《自慰行為や下品な小説》によって自身の性欲を処理していたという。この点、マスタベーションはある意味で《青年たちの最先端のエロティシズム》であり、《多くの人々が都市型の生活をし、高等教育をうけるようになるにつれて広がる》という意味で、近代的な現象であると言うことができる。
伝統社会における親子関係:粗末に扱われる子どもたち
現代の子どもがいる家庭において、子どもは両親の最大の関心事であり、フィリップ・アリエスの言葉を借りれば「子ども。それは家族のすべてに」である。子どもは怪我や病気に見舞われぬよう注意深く目をかけられ、その成長や教育、幸福のためには、両親は自らの時間、労力、肉体的・精神的負担を犠牲にする。子どもを亡くすことは耐え難い悲劇であり、一生消えることのない傷として、親の心に残り続けるだろう。
ところが、伝統社会においては子どもにそれほどまでに入れ込み、特別な扱いをすることはほとんどなかった。幼児は《巻き産衣にぐるぐる巻きにされ、何時間も排池物にまみれさせられていたり、暖炉の前に放置され、服に火がついて死んでしまったり、また、誰も気をつけていなかったために飼い豚におそわれて食べられたり》した。さらに、生みの母が自分で子どもを育てず、乳母に任せたり里子に出したときにも、子どもたちはいい加減に扱われた。例えば、「酩酊した乳母に逆さに抱かれた」、「汚くて悪臭を放つ藁のマットに、シーツもひかず寝かされていた」という仕打ちである。今であれば、そんなベビーシッターは即座に虐待者と判断され、訴訟を起こされ罪や責任を負わされる運命にある。しかし、乳母や母親が、子どもの食事のときに母乳を与えず、劣悪な衛生環境の中に子どもを長時間放置することは、どこの世帯にも見られる普通の光景であった。捨て子もまたありふれたこととして認識され、《嫡出子を産んで捨てたり、真夜中にその土地の慈善施設(子どもが雇われ乳母によって育てられるよう取りはからってくれる)のドアの前に子どもを置き去りにする母親がいた》。母親の乳母も、子どもが死んでもそれを意に介さず、心の平静をかき乱されることなどなかった。とりわけ乳母は《預かった子どもの半分が死んでも、まったく平気であった。子どもが死んだところで、乳母はただ再び養育院にいき、別の子どもを預かることになるだけである》。なぜなら、《乳母にとって、報酬がすべてであり、子ども自身―経済的理由云々からではなく、本来それ自身として大事に育てられるべき小さな輝かしい命―のことはまったく関心がなかった》からである。
こうした仕打ちを受けて子どもたちは生きていけるわけもなく、捨て子の死亡率は3分の2、成人するまで生き残れる確率も2分の1でしかなかった。それは先天的な病気、あるいは当時治療法がなかった病気に罹患していたというわけではなく、単に《乳幼児の食事、離乳年齢、ベッドシーツの清潔さなど、親の努力でかなり変えられるはずの環境によるものであった》。母親は、「昔から伝わる有害な幼児の健康法やしつけ」を機械的に繰り返すだけで、子どもの幸福のために、あれこれと思案したり、調べたりする自発性に欠けていた。《母親は、幼児といえども自分と同じように喜びや痛みを感じることのできる人間だとはほとんど(「まったく」という人もいる)思っていなかった。いいかえると、幼児の身になって、幼児にこの世界がどう映っているかを想像し、できるだけ幼児にとって居心地のいい、楽しい世界を作ってやろう―われわれが「共感」という言葉で言いあらわしていることである―とは思わなかったのである》。
それではなぜ、大人たちは子どもをこのように扱ったのだろうか。この点、ショーターは《これら何百万の伝統社会の母親は、別に残虐非道の人間であったわけではない》と考えている。そうではなく、それは基本的に貧窮によってもたらされた。つまり、まず自分たちの生存を確保するためには、子どもの世話よりも野良仕事や機織りを優先しなければならなかったというわけである。当時は、子どもが死ぬ数も多かったが、生まれてくる数もまた多かった。だから、厳しい生活を強いられるなかにあっては、ひとりひとりの子どもの死に対して鈍感になり、「どうせ代わりの子どもが生まれてくる」と軽い気持ちで受け流すことが必要だったのである。人々はまず自分たちが生き残るために、作物の価格が上昇すれば家計の負担となる子どもを容赦なく捨てた。必要に迫られれば、年長の子どもであっても例外ではなかった。そうでなくとも、実際には2~3人の子どもを成人するまで手元に置いておくだけで、残りの子どもは10歳頃にはもう家から追い出され、《農家の使用人や羊、牛、七面鳥の見張り番、あるいは親方の下で徒弟として働くため》、《下男や使用人の仕事》のため親元を離れていった。総じて、《15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れていた(一方、女子は4分の1にすぎなかった)》。このように、当時の人々が生活していた状況は、母性愛と呼べるようなものを育み、発揮するためには、あまりにも余裕がなさすぎたのである。
老後の生活保障と相続
それでは、時が過ぎて子どもが成人した後の親子関係(高齢の両親‐成人した息子・娘)はどのようなものであったのだろうか。そこにおいても、富を増大させることができない余裕のなさからくる生々しい利害関係が存在している。社会保障制度もないような状況では、自らの生活の糧は自分で生産しなければならない。しかし、人間は必ず衰え、無理な労働が不可能になることは避けることができない。そうした老後の生活保障は、家族によって担われざるを得なかった。農民の人生の主要な目的は、《彼の人生の主要な目的は、先祖から受けとった土地を―縮小せずに、できれば拡大して―次の世代に譲り渡すこと》であった。しかし、子どもはそもそも幼い頃から酷い仕打ちを受けてきたし、「働かざる者食うべからず」と言うように、生産の役に立たない者を養う余裕などない。だからこそ、《いったん家督を譲り渡してしまえば、息子が自分を蔑ろにするのは明らかであった》。それゆえ農場主は、相続にあたってできるだけそれを遅らせたが、あまりにも遅くなれば、隠居した後でいっそうひどい仕打ちを受けるかもしれないし、子孫に伝えるべき家産を減らしてしまうおそれもある。最悪の場合には、しびれを切らして家を出て行ってしまうことも考えられる。そんな、「どうしても依存せざるを得ない立場」に立たされていた年老いた農民は、《次の世代に農地を譲り渡す際に、道理にも欲にもかなうような微妙な計算をしなければならなかった》。そんなギリギリの駆け引きによって、互いが納得して財産を相続したあとは、子どもは隠居した両親を扶養する義務を負った。とはいえ、両親が存命中は、実質的な支配権は両親にあったため、父親が亡くなってはじめて本格的に自立を果たし、兄弟はそれぞれの相続分を受けとることになる。それまでは、《数組の夫婦が文字どおり「同じ屋根の下で、同じ釜の飯を食べた」のである》。だが、ときには《父親が長男と結託し、次男以下の子どもになにも相続させないようにすると、長男以外の子どもたちが結束し、ついに暴力沙汰や殺人に至った》こともあった。あるいは、また、《「悪魔にとりつかれた」父親が息子を殺すこともあった》。世襲財産を相続することが自身の生活の状況をほぼ決定するということもあって、《相続問題や家産の譲渡についての争いになると、かれらは互いに憎みあった》。彼らが親愛の情を抱いていたのは、そうした濃密な利害関係をもたない仲間集団であって、《「家族の強い団結」は、まったく実利的なものであり、決して愛情にもとづくものではなかった》のである。
監獄、足かせとしての共同体:家族と個人のプライヴァシー
これまでに見てきたように、近代以前の伝統社会において、家族や親子関係に親密さが見られなかったのは、根源的には当時の乏しい生産力が原因であるが、より直接的には共同体や家族以外の者による私生活への介入が盛んだったことによると言える。《伝統社会の家族は情緒的に結びついた単位というよりも、まず生産および再生産の単位》であり、人々はむしろ《家族よりもさまざまな仲間集団に対して情緒的に相通じるもの》を感じていた。人々は伝統的共同体に対し、《自分が属する共同体の要求を個人的な野心や欲求にすすんで優先させた》。家族の内部では家父長が家族の全員を支配し、子どもの配偶者や就職の決定権を握っていた。共同体は、その秩序を維持し、習慣を墨守するために集団的に個人を厳しく監視した。監視の対象は、子どもの腹痛の治療法から婚前セックスの禁止に至るまで、さまざまであった。しきたりを守らない者は、すぐに体面を失い、社会的立場をなくしてしまった。旧知の人々だけで構成される、狭くて濃い人間関係においては、《家族の評判の半分は、日常的なしきたりを守っているかどうかにかかっていた。財力や政治力だけでなく、清潔さや誠実さ、外出するときいつもちゃんとした服装をしているかどうか、家庭内の秩序が保たれているかどうか、夫が年少者に居酒屋で気前良く酒をおごるかどうか》など、日常生活のすみずみまで、人々は籠の鳥(というよりは、縛りつけられた鳥)であった。
その集団的な懲罰行為はシャリヴァリと呼ばれている。シャリヴァリは、本質的には、《逸脱した行動をした個人を共同体員の面前ではずかしめるための騒々しい公的示威行為で、その形態は、仮面をつけた人々が、夜ある家を取りかこみ、叫び声をあげ、鍋を打ちたたき、牛の角笛(土地の牛飼いがこれを貸し与えた)を吹きならすこともあったし、違反者が捕えられ、ロパの背に後むきに乗せられたり、罪を知らせるプラカードをもたされて通りを引きまわされたりすることもあった。またシャリヴァリは若者たちだけで行うことも、また年齢、性別を問わず村人全員が一緒に行うこともあった。〔…〕シャリヴァリによって共同体は個人の行動を常に監視することができ、個人を逸脱行為から引き戻すことができた》。それは、ショーターに言わせれば、《憎悪や敵意が渦巻く》人間関係であり、決して「友人」ではありえなかった。
この時代においては、対外的にも対内的にも、個人にプライヴァシーは存在しなかったと言っても過言ではない。それはそもそもの家屋のつくりや間取りから言っても、存在しようがなかった。フランスやドイツの下流階級の家では、《家族も家族以外の人も全員が、ただひとつの同じ部屋で日常生活を共にし、そして寝ていた(残りは物置、貯蔵用、家畜用の部屋として使用された)。〔…〕小都市に住む小ブルジョワは通常2部屋と台所からなる比較的恵まれた住居に住んでいたが、その場合でさえ、夜には薄い壁や狭い路地をとおして、若夫婦が愛し合うのが聞こえた》というありさまである。そしてこの傾向は、《上流から下流になるほど、また地威的には西から東になるにしたがって、強くなっていた》。
この時代においては、人々は共同体に嫌気がさしたとしても農地や都市に縛りつけられ、逃れることができなかった。それは先程から述べているように、土地こそが自らの糧を生産する手段であるがゆえに、離れたくても離れられないということもあるが、その土地を誰かに売って別の場所で暮らそうとしても、共同体はその売買にも介入することができたからである。つまり、《村会は村の土地の売買に閲して、村の中で買い手がみつかるなら、よそ者への土地の売却を拒むことができた―ともかく「外部の者」が家を構えるには近所の者の承認を得なければならなかった》ということである。都市部においても、過度な人の流入や流出を避けるため、都市当局は《十分な法的強制力》をもって人々の流入を規制したり、《赤貧状態の改善に努めた》。また、《同職ギルドが職人の営業について直接認可権をもっているか、あるいは市参事会に送った代表をつうじて間接的に営業を統制していた》ため、部外者は簡単には転職することができなかった。このようにして、伝統社会は、《都市も村も自分たちにかかってくる圧力を、ある程度まで避けることができた》。
資本主義社会と諸革命:性、家族、プライヴァシー
しかし、そのような強すぎる紐帯に彩られた伝統社会的な人間関係もやがて「終焉」(ないし、衰退)を迎えることになる。ショーターの考察を結論から言ってしまえば、それは資本主義社会という経済制度が確立し、それに付随して生産力と雇用状況の向上、分業体制の確立、都市部への人口の大量流入といった現象が次々と定着したからにほかならない。資本主義という経済制度が、共同体の権力を解体した理由は、これまでに述べてきた伝統社会の生産体制の特徴を考えれば理解できる。つまり、農村にあっては土地を所有することがまず生存の第一条件であり、乏しい技術力などによって、ギリギリの労働を強いられていたからこそ、人々は土地や共同体に縛られていた。そして都市においては、ギルド集団という専門技能を有した独占的団体が職業を牛耳り、そこに所属しなければ生計が立てられないからこそ、人々はそこに従うしかなかった。伝統社会は、強い「排他性」があったために、どこかから逃げ出しても、どこかに受け入れてもらえるあてが存在しなかったのである。
だが、産業革命と資本主義体制は、そんな状況を一変させた。つまり、職種の多様化である。それまでの人々は、農業なら農業、職人なら職人、召使は召使というように、自分の生まれた家庭や身分によって、実質的に従事する職業は決められていた。だが、労働力を必要とする事業主と個人の自由な契約によって労働=生活の糧を確保できるようになれば、もはや人々が従来の束縛に服従すべき理由は存在しない。徹底した分業体制によって、圧倒的な物量を生産し、廉価で販売できる近代的工場は、ギルドの職人たちに「市場」という場で圧力をかけ続け、そして駆逐していった。そんな工場が集積する都市部には、強力な排他性を発揮する集団がいなくなったので、人々は職を求めて「寛容な」都市に引き込まれていった。都市はそういった、さまざまな出自をもつ人々が併存しあう空間になったのである。ショーターによれば、こうした個人の自由化が生産体制だけでなく、「性」、「家族・親族関係」、「プライヴァシー」の3つの領域に革命的な変化をもたらしたという。では、ここからはそのダイナミズムを見ていくことにしよう。
セクシャリティとジェンダー(男女関係):ロマンティック・ラヴの隆盛
個人が共同体のくびきから解放されたことによって、個人は両親や共同体の打算的意向に従って結婚相手を決める必要がなくなった。これが革命的とも言える、男女関係の最大の変化である。それまで個人は、財産の相続や家柄の維持が、生存するうえでの前提条件であったが、資本主義社会では財産を増やしていくことが可能になる。これにより、個人は共同体から自立・独立することが可能になり、共同体への忠誠を誓わずに、個人の幸福と自己成長を重視する価値体系を育むことができるようになった。また、そうやって共同体から離脱するということは、ナイト・コーティングやヴェイエへの参加も少なくなるということだが、それは同時に、男女の出会いをそうした場に頼らなくてもよくなったということを意味していた。職人社会においても、職業とは無関係に、生活上さまざまな仲間的な人的つながりをもつようになり、人々は《自分が何者かを語るときに、仕事(自分の職業)はそれほど重要なものではなくなった》。それゆえ、《たとえば、自分がIBMの社員であるとして、子どもがIBMの社員の子どもと結婚するかどうかなど、ほとんどまじめに考えるに値しない》ことになり、職業や生産能力の有無、財産の多少といった要素ではなく、より内面的な自身との相性や性格、あるいは外見の良さなどによって、自分がつきあうべき人物を選べるようになった。これが、「ロマンティック・ラヴ」なのである。ロマンティック・ラヴは、実利ではなく「感情」に根ざした人間関係であるため、近代的な夫婦は《表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめる》ことができる。セックスは、生物学的な生殖、あるいは性欲処理(=手段としての性関係)としてではなく、互いの親密さを確認し合う行為としての意味が強まった。これをショーターは《愛情にもとづく性関係》と呼んでいる。
なお、彼によればこうした変化がまず起こったのは、中流・上流階級ではなく、下流階級の人々であった。それは、《ブルジョワジーの洗濯場や作業場で働く下流階級の人々は、守るべき財産、あるいは子孫に残すべき財産を何ももたなかった》からである。この性革命が起こった当初の中流・上流階級はまだ、より裕福な家と結婚することで富を維持・増大させることができたので、まだ家族の打算的な意向によって相手を決めることが多かった。しかし、下流の人々は完全なる「自由」であったため、《家族としての目的ではなく、個人的な目標を自由に追求すること》ができた。この点が、ショーターが従来の見解に加えた修正のポイントである。つまり、《最初に市場経済に完全に適応したのは、下流階級の人々だったのである。こうした発生期のプロレタリアートを構成したのは、ほとんど土地をもたない小農民、農業労働者、それに相続財産がなく、持参金をもたない農民の娘であった》ということだ。18世紀末、資本主義社会における経済的個人主義が下流階級の人々の間で文化的自己中心主義を生み出し、それが普及していくにつれて、やがて中流・上流階級の人々も自身の気持ちのおもむくままに恋愛をしていった。19世紀には階級や地域を問わず広くいきわたり、20世紀には、ロマンスは男女関係の異論の余地のない公準となったのである。こうした変化は、中でも、生存のための手段や主体的役割をもっていなかった若い女性にとっては、賃金労働という《両親や町の権威者から受ける性の束縛を逃れたいという気持ちを実行に移す可能性》を手に入れ、経済的・心理的な自立の第1歩を踏み出したという意味で、大きな意味のある出来事だった。
ロマンティック・ラヴの影響:性の多様化と婚前セックスの増加
ロマンティック・ラヴの隆盛にともなって、人々の行動も具体的なレベルで変化した。それが性の多様化、そして婚前セックスの増加である。伝統社会は、個人を堕落させないため、性を非常に抑圧していた。自慰行為や婚前の交わり、配偶者以外の者との姦通は、シャリヴァリの対象となり、指弾された。だが、《ギルドが衰退するにつれ、婚前セックスを罰する力がギルドから失われていき、中央集権的な国家権力の拡大や教会の世俗化とともに、地方の聖職者の道徳的権威も失墜した。さらに人々の移動が激しくなり、多くの所に人々が移住していく。しかし、新しく移住してきた人々は、その地に古くから閉じ土地に住んでいる家族が個人的生活にどのような規範をもっていようと、そのようなことには無関心》であった。厳しい性の規範を強制してくる共同体から解放された個人は、性的衝動を昇華や抑圧ではないかたちで発散させるようになった。ショーターは《1900~1950年の期間は、過去の数世紀と比べれば明らかに「近代的」であるとはいえ、この期間内にはほとんど変化がみられなかった》と言っている。しかし、《性体験も自己実現の一部》であればこそ、タイミングや相手を自由に選択・判断し、事に及ぶことは、個人の幸福追求のひとつであったし、マスタベーションやアナル・セックスといった快楽を目的とした行為も徐々に広がっていった。異性と肉体関係になることは、契の証ではなくなり、《男友達や婚約者とベッドをともにする若い女性の割合は確実に上昇した》。このような傾向については、当初は年長者から解放された若者集団の中で緩やかな管理が行われていたが、1960年代にもなるとそうした集団による管理もなくなり、若者の相手選びやデートは完全に個人的領域へと移行していった。
ショーターはこのような仮説を「非嫡出子の増加」という統計的事実から導き出している。それは、非嫡出子の定義が「婚姻関係にない男女の間に生まれた子ども」であるのだから、すなわち「婚前セックスが増加した」と結論づける、ある種の同語反復であると言える。もちろん、性の解放は「軽率な行為」を増加させ、「無責任な男」と「残された母子」という問題を引き起こすことになった(とりわけ、技術的には可能であった避妊への意識が低かった1950年代~1970年代には顕著であった)。《1950年代から60年代になると、年齢にかかわりなく(といっても特に若者であるが)、人々は、ロマンティック・ラヴから感情的被いを取り去って、性的本能をあからさまにするようになる。そして、人々は人間関係においてエロティシズムこそが貴重であると考え、かつてのように時間をかけて感情的つながりをえようとせず、すぐに性的関係をもつようになったのである》。しかし、セックスが個人の欲求充足の手段として《それ自体に目的(喜びや快楽)がある》ようになったとしても、やはりそれは、相手との親密性の現れであり、「相手は自慰行為ための道具」であると思っている人は伝統社会よりもはるかに少数になっていたと思われる。多くの人にとって《性と愛との分離》は起こっていない。《人々はセックス・パートナーにたいしては、あいかわらず情熱的で、それぞれ相手を〈深く愛して〉いる》。そうではなく、《変わったのは、数年間に何人もの人を次々と〈深く愛する〉ことが容認されるようになった》ということなのだ。
母性の開花:家族(夫婦・親子)関係
そうした親密性にもとづく夫婦が数多く出現したことによって、家庭内での行動にも変化が現れた。すなわち、厳密な性的分業の緩和である。ここでショーターが言っているのは、例えば「男性は、農具(鋤、熊手、馬鍬など)の手入れや修繕、種蒔き、鋤耕、耕転、そして収穫。女性は牛の乳搾り、チーズ・バターづくり、除草や草刈り、若木の剪定」といったそれまでそれぞれの“聖域”とされていた具体的な仕事を互いに分担しようとする態度が出てきたということである。それは、《友愛結婚においては、相手の立場がよくわかるために、進んで他人の仕事を分担してやろうという気持が強くなった。〔…〕夫婦は、およそなにごとにつけても相談し、協同しあうものである。そのため、それぞれに完全にまかされる領成は小さくなってきている》という理由からだ。
ただし、厳密な(分担の)境界線が曖昧になったとはいえ、夫婦の双方が家庭生活のすべてを平等に負担するというわけではない。ショーターは、本書の中で「性的分業」と「性的役割」という言葉を区別して使っているが、ニュアンスとしては「分業」というと「その人が100〔%〕の権限と責任」を有するのに対し、「役割」というと「その人に主導権があり、その人中心として事が運ぶ」という意味合いがある。具体的に彼の言葉を引用すれば、《手工業の職人の数が多くなるにつれて、同様に、農民の場合も作男の数が増えるにつれ、妻の援助はそれほど必要ではなくなったからこそ、女性は生産活動よりも育児に専念するようになった》というわけである。分かりやすく言えば、「男は仕事、女は家庭」という性的役割観がここで誕生したということである。近代的な家族像、とりわけ「子ども」という存在を考えるうえで、資本主義によってもたらされた物質的な豊かさとそれに付随する性的役割観は、非常に重要なある感性をもたらすことになる。それが「母性愛」にほかならない。
ショーターもまた、母親が子どもに対して抱く《説明のつかない愛情》を否定しない。だが、伝統社会の人々は、子どもに構うためにはあまりにも多忙で、まず存在している成員の生存のためには、子どもの健康や幸福、そして生命を犠牲にせざるを得なかった。だが、洗濯、掃除、離乳食の用意といった子どもの世話に専念できるようになると、女性たちは母性愛をダイレクトにかたちにすることができるようになった。まさに「子ども。それは家族のすべてに」というわけである。そうした感性の現れとして、ショーターは「母乳保育」の増加と「里子の減少」に注目している。保育方法については、1790年代には子どもをおとなしくさせておくために、「ミイラのように子どもをぐるぐる巻きにする野蛮な慣習」はほとんど見られなくなった。そして、乳児にとって最大の栄養源である母乳を自分の子どもに独占的に与える母親が増加した。それは、《他人の子どもを預かると、自分の子どもに十分な母乳を与えられず、その生命を危うくすることになるだろうから》である。それができないにしても、とにかく《家庭外の雇い乳母に預けるのをやめ、母乳かミルクかを別にして、自らの手で我が子に食事を与える》ことに変わりはない。里子という習慣もまた、「子どもを他人に任せず、自分の元に置いておきたい」という感情の現れだろう。
親密性の組み換え:核家族化と家族のプライヴァシー
このように、人々が生存のための手段=賃金労働を手に入れ、男女関係、親子関係が変化した結果、必然的とも言える帰結として、家族、そしてその成員と共同体との関係もまた変化した。つまり、《共同体的な生活様式が解体し家族と共同体の力関係が変わって、家族は共同体に取り込まれるのではなく、家族どうしの親密さを大切にするようになった》ということである。それは、単に個人主義の台頭によって、個人や家族の共同体に対する忠誠心が弱まっただけではなく、共同体という存在もまた、そこに所属するメリットや機能、力を失ったからであった。アメリカの文化人類学者J.P.マードックによれば、核家族とは「1組の夫婦とその子どもからなる家族」であるが、その世帯を構成する最小単位たる核家族は、物理的に住み分け、それぞれの家族がそれぞれの建物や部屋に分離することになる。ここでショーターが強調しているのは、家族のお互いに対する認識が本質的であるという点である。《核家族というのは、世帯構成における特定の構造とか型とかを示すものではなく、むしろひとつの心の状態をあらわすものである。数世代の人々が一緒に住んでいるかどうか、あるいは、傍系親族の誰が同じ屋根の下で寝起きしているかどうかという問題とはほとんど関係がない。また、親族関係図や家族規模をあらわす数字によって理解できるものでもない。〔…〕核家族が自分たちだけの単位として家庭を考え、それを周囲の共同体と切りはなす固有の団結意識をもっていることである。外部からの侵入に対して、プライヴァシーと周囲からの遊離によって守らなければならない特別の心の領域というものが、家族の間にはあると感じているのである》ということだ。それは《家庭愛》と言っていい。フィリップ・アリエスが描写したように、子どもは家族にとって中心的な存在となった。子どもを中心として、家族団欒の時をすごすために、《ブルジョア家族は夜、頻繁に外出することをひかえるようになった》。人と人との結びつきは、家族の外部から内部へと移行し、家庭は《くつろぎを与える安息所》となる。そうした個人、そして家族のプライヴァシーの欲求は、建築のあり方にも影響を与え、中世までの仕切りのない大空間は、別々の空間に仕切られ、別々の機能をもつ独立した部屋が設けられるようになった。また、各家庭が使える暖炉用石炭は、別々の世帯がひとつに寄り集まって暖を取る必要性を減らし、窓ガラスが登場したことで家庭内の音が多少外に漏れづらくなった。こうした変化によって、《洗い場とは別に調理のための台所を設け、娯楽を広間に、食事を食堂に移した。さらに、ご婦人客を寝室ではなく居間に通したり、夫は書斎に引きこもって本を読むという習慣が生まれた。〔…〕部外者の監視をつけることなく、性生活や感情生活を送ることができた》というような家庭内外のプライヴァシーが確立されるようになったのである。
しかし、より厳密に言えば、各家族は本当にその中だけの紐帯だけしか存在しないというわけではなかった。つまり、たしかに物理的に近くに住んでいる人との交流は必然的ではなくなったが、親族との交流はむしろ強化されたということである。家族とは、夫婦、親子、そして兄妹という関係で構成される。親密性が基本的には家庭内で発揮されるようになれば、それらの関係は強化される。子どもだった兄妹もやがて大人になり、それぞれに子どもが生まれれば、叔父・叔母、いとこ・はとこといった関係が生まれる。兄妹である親の結びつきが強ければ、生活を共にする子どもにも影響があるということである。いいかえれば、「地縁より血縁」ということになる。伝統社会において親族は、《情緒面で相対的に重要ではなく、なによりもまず不測の事態のときに物的な援助を行うものとして家族の周囲にいた》。しかし、近代以降では。その重要性は増大し、《ほとんどの人が定期的に親戚と親しく行き来している》。それは仕事仲間や友人、隣人よりも情緒的な結びつきは強い。《ベルギーのシャルルロワで面接調査したところ、10家族中9家族が頻繁に親戚を訪れていたのに対し、友人と親しい交際をもつものは10家族中4家族にすぎず、仕事仲間や隣人と行き来しているのはわずか2家族にすぎなかった(フランスでも実際に同じような現象がみられる)。夜、暇な時間があれば、友人を尋ねるよりも親戚に会いに行く方がよいと答えたものが、そうでないものの2倍にのぼっている。隣人については、調査対象者のほとんどが隣人の名前を知っていて挨拶もするが、家の外でかれらと時間を過ごしたり、あるいは砂糖を借りに行ったりするかどうかという点になると、そうすると答えた者の割合は確実に少なくなる。10家族中6家族が、親切心からであろうと隣人が自宅にやって来ることを嫌がり、家族は隣人と町に出かけたり、自宅で隣人をもてなすのを避けようとしていた》というわけである。彼によれば、こうした変化は、資本主義的経済体制への適応とは逆に、中流・上流階級から始まり、生活水準の向上などにともない、徐々に下流階級に広まっていったという。
近代家族の相対化と「近未来家族」の出現―それもまたひとつの類型にすぎない
以上に述べてきたような経緯で、近代社会に近代家族という家族のあり方が登場するようになった。しかし、注意すべきなのは、近代家族の誕生によって、伝統的な家族が消滅したわけではなく、あくまでもそのかたちが主流になっただけであって、一部の地域では引き続き伝統的な家族‐共同体関係を見ることができるという点である。それは世の中に存在する「類型」のひとつであって、唯一無二の家族形態ではない。そして、現在では、近代家族という家族のあり方ですら、ひとつの類型にすぎなくなっている。彼はその新しい家族のあり方を「近未来家族」と呼ぶ。ショーターがこう言うのは、1960年代になって、夫婦=男女関係においては、離婚率の増加、親子=世代間関係においては、若者独自の下位文化の形成が見られるからである。
まず夫婦=男女関係について言えば、家庭は必ずしも情緒的・性的欲求を満足させてくれる存在ではなくなったということがある。伝統的な夫婦関係においては、夫婦はそれが生存の条件であったため、役割を果たすことができれば、後はどんな人間であろうとも一緒に暮らさざるを得なかった。しかし、近代的な夫婦関係においては、互いの情緒承認と性的欲求の満足を果たす機能が重視されるようになった。だが、そうであるからこそ、その結びつきは弱い。「結婚してみたら、あまり自分にかまってくれない」、「ベッドに誘っても応じてくれない」、「意外とがさつ/神経質で一緒にいるとストレスが溜まる」などなど。そうしたことは、夫婦が離婚するうえで十分な理由となり得るのだ。「子は鎹」という言葉があるが、近代的な核家族の基礎には《母親の子どもに対する愛情が据えられていた》。しかし、《近未来家族の基礎には、それにかわってエロティシズムが据えられる》。だからこそ、《今日では、家族が結びつきを失ってばらばらになる可能性は十二分にあるのである》。
こうした現象が見られるようになったのは、女性の置かれている状況が変化したためである。ポイントは2つある。つまり、第1が女性の社会進出の進展、そして第2が女性のキャリア意識、ないし自己実現の欲求の高まりである。ショーターによれば、《アメリカでは、20歳から24歳の既婚女性で職業をもっているのは1957年には11%であったが、1968年には43%になっている。他の国においても、別の年齢グループであるが同じように増加している》そうだ。それまでの「男は仕事、女は家庭」という近代的性的役割分業観に沿った形態においては、女性は生活の糧を獲得してくる男性に経済的に依存せざるを得ず、「誰に食わしてもらっていると思ってるんだ!?」と言われたら、黙って耐えるしかなかった。しかし、女性が自分で稼げるようになれば、そうした圧力は通用しない。「耐え難いと思えば、我慢することなく互いに別れる。ただそれだけのこと」。そうした対等的・均衡的権力関係が生じてきたということである。
また、女性にとってたしかに子どもは可愛くて、母性愛を発揮することで自身のアイデンティティを確認・形成させてくれる存在ではある。しかし、やはり子育ては肉体的・精神的に過酷で、それがかたちとして評価されることが少ない「シャドウ・ワーク」である。《19世紀に核家族が誕生したとき、核家族はやすらぎの場であって、その温かさと安心感を与えるものであった。すなわち、それは子どもを大人世界から守り、冷酷な競争の嵐に曝されている男たちが仕事を終えてくつろぐ場であった。女性もこういう家族のあり方を喜んで受け入れた》。しかし、《周知のように現代では、女性は自分自身の人生の目的をもたないで、育児だけの人生を送ることはなにか報われないと考えている》。伝統的な社会では《育児は死と不衛生への英雄的な闘いであり、息子が疫病にかからず無事に一人前になれば、母親は大きな仕事を終えた満足感にひたることができた。しかし、20世紀になると、公衆衛生が発達し幼児が死亡する危険は小さくなり、母親が常に幼児のことを考えている必要もなくなった。そのうえ、少し大きくなると、仲間集団が子どもを独立した若者世界へと誘いだしてしまう。こうして母親にはすることがほとんどなくなってしまったのである》。(事実上の)職業の世襲制が崩れ、人は自らの努力によって(ある程度までは)就きたい職業に就き、なりたい自分になることができるようになった。しかし、それは裏を返せば、誰も自分の進むべき道を決めてはくれない悲壮な自由でもある。女性にとって子どもや夫の世話(だけ)が、アイデンティティの源でなくなったからこそ、仕事や趣味によって、生きる活力を得たいと思うようになるのは、自然のなりゆきでもある。
次に親子=世代間関係について見てみれば、子どもにとってもまた、家庭は絶対的な存在ではなくなった。アリエスが言うように、伝統社会では子どもは「小さな大人」であるにすぎず、大切にされることなく、共同体によって厳しく躾けられ、こき使われる存在だった。しかし、近代になって子どもは非常に大切にされ、また共同体の監視からも逃れられるようになった。子どもの躾や社会化は家庭内部の問題となったのである。だが、そうだからこそ、それぞれの家庭に応じた方針に沿った親の態度や環境で子どもたちが育つようになり、価値観というものは多様化していくことになる。子どもは、周りの全員からひとつのしきたりを刷り込まれることなく、自らの家庭の論理によって育てられる。そして子どもは、大人の世界から隔離され、教師という限られた大人のほかには、自分たち(子ども)しかいない学校という空間に収容され、同じ世代と長い時間を共に過ごすことになる。そこで子どもたちは、互いに親交を深め、価値観を共有、ないし交換しあうことができる。近代家族の教育の決定的な特徴は、《子どもと一緒に日曜日の散歩をしたり、家族そろっての夕食にでかけたり、祖母の墓参りをしたりというような、両親(とくに母親)と子どもの間の排他的な関係―この関係は子どもの青年期を経て結婚まで続いた―にあった》。しかし、公的な学校教育制度の発展によって、家庭は社会生活を教えてくれる唯一の存在ではなくなった。子ども、そして若者たちは《思春期を過ぎるにつれ、事の善悪や当否、それに人生についての両親の考えに対する違和感》を共有しあうようになり、自分たちの好きなように独自の文化をつくるようになった。若者は、親や年長者に対して従順ではなくなり、そうであるからこそ、「敵対的な拒絶」ではなく、「無関心」を示すようになり、雑音に心を乱されなくなったのである。
こうした変化をひとことでまとめるならば、社会の人間関係がすべからく《リネージの体現者(機能的関係)から友人(友情的関係)となった》ということになる。友人。その関係になるためには、利害関係が生じてはならない。友人。それはそうしたければ、お互いに別々の時間を過ごすことができる存在。そして友人とは、根本的には互いに自立・独立していて、深く深く巻き込まれることのない関係である。互いに価値観やこだわりが違えど、そこに衝突すべき必然性が存在しないから、互いに対して寛容で、そして自由であることができる。伝統社会(あるいは現代の仕事上の関係)においては、堕落し、生産性が落ちれば自分たちがその負担を負わなければならないため、個人の行動に対して口うるさく干渉する。そこには利害関係が存在する。しかし、友人との関係においては、友達が浮気症であっても、物を片付けられなくても、自分が友人の子どもを世話するわけでも、部屋の掃除をするわけでもないから、そういった点に関して、深くは触れないで済ますことができる。そこには、利害関係が存在しない。もしどうしても気に入らなければ、関係をフェード・アウトさせていけば、波風が立つこともない。そうした関係において、個人は自由である。子どもや若者は、情緒的には親に頼らずとも、友達同士でつるんでいれば平気である。経済的にも、現代であれば、なんとかやっていける可能性は残されている。だから、親と衝突して共存せずとも、自立の道を歩むことができる。そこに支配‐服従の絶対的権力関係はもはや存在しないのである。若者は、親が結婚を反対しても、駆け落ちすることも、押し切って結婚することもできる。親の「子離れ」ができていなければ、昔とは正反対に、子どもが親を従わせることすらあり得る。そこには、絶えず変動する「権力のゲーム」が存在しているのだ。
現代の通過点としての「近代家族」の形成
イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは、現代は近代が終焉した後に出てきた質的に異なる時代ではなく、諸々の分野における近代化が最も推し進められた結果としての社会であると言っている。本書を概観してきた中でひとつ考えることがあるとすれば、近代とは「多様化」の時代であったということである。「豊かさ」という概念の定義のひとつには「選択肢が多いこと」というとらえ方がある。近代化によって、人々の生き方にいろいろな選択肢=多様性が生まれてきた。近代家族の形成は、そんな社会状況の中で観察される現象のひとつとして考えることができると思う。フーコー的にとらえれば、政治とは本質的に闘争であり、権力のゲームとは、そのゲームのルールを決めるうえでの影響力を競う競争となる。資本主義社会は、生々しい衝突を経ることなく、人々を共同体のくびきから解放した。そして、産業社会という社会形態に寄与するために、家族や都市、人々のライフスタイルといったものが設計され、それが現実のものとなってきた。しかし、まさに近代が絶え間ない前提の塗り直しである以上、近代家族という家族のあり方もまた、批判にさらされ、変動を余儀なくされる。「男は仕事、女は家庭」という近代家族のあり方は、家族形態の主流ではあるだろうが、近年では、その周辺に追いやられ、社会的に排除されてきた人々が注目され始めている。すなわち、母子家庭・父子家庭の人々や単身の高齢者世帯といった人々である。たしかに、シングル・マザーとなってしまっても、経済的に生きていけないことはなくなったかもしれない。しかし、そこには貧困の再生産の、いつ切れるともしれない螺旋が存在しており、「(社会から)大切にされる子ども」の枠から排除される、貧困状態の子どもが存在している。近代家族はそうしたケースを想定していないため、彼ら・彼女らは社会的に排除される。だが、それを決して無視できないし、すべきでもないがゆえに、近代家族もまた類型のひとつにすぎなくなっているのだ。
そもそも、人は「家族」という枠組みにすべからく所属しているという前提すら、有効性を保ち続けているのかすら怪しくなっている。自らの自己実現や性の権利の帰結として、結婚しない、あるいは出産しないという選択も認められるべき個人の生き方として、権力のゲームの主題となっている。女性の自立への希求のために、賃金格差の是正や男性の子育て負担も要求されている。人々にとって、家族はむしろ絶対的な存在ではなくなり、親と子はある時期を過ぎれば、互いに独立して生活するようになっている。しかし、そこには孤立のリスクが内在しており、親も子もそれぞれ貧困状態に陥れば、それをカバーするための心理的な義理も、またそもそもそれを伝えるべき手段も持ち合わせないまま、孤独に生が途切れる結果になることもある。本書は、ある意味では時代遅れの本と言ってもいいかもしれない。しかし、現在かくある現実が形成されるに至った過程、そして、近代化の極致として現在を考えるうえで、非常に興味深い一冊であることに間違いはないだろう。
参考文献
- エドワード・ショーター著『近代家族の形成』,田中俊宏 ほか訳,昭和堂,1987.12(原書:1975),全375ページ
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