ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(1961年)

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建築・都市論

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紹介文

「この本はいまの都市計画と再建に対する攻撃です。それはむしろ、現代の正統派都市計画や再開発を形成する原理や目的に対する攻撃なのです」というなんとも挑戦的な言葉で本書は始まる。本書の著者ジェイン・ジェイコブズは、エベネザー・ハワードに始まる従来の都市デザイン理論を「インチキ」や「でたらめ」といった辛辣な言葉で批判する。「そうではない。それは間違っている。みんなすべて逆なのだ」。「都市を生かすのは多様性と混在であって、単一性と分離ではない」。「あなたがたがなんの価値も見出していない街路こそが、地域の安全を守るのです」。「都市に必要なのは、一体感ではなく、ちょうどいい距離感なのです」。従来型のトップダウンによってもたらされる都市から、何気ない日常をすごす都市の人々が主役となるまちへ。まちづくりに対する考え方に対して、根本的な問題提起を行った、都市デザイン史上稀に見る「問題作」。

「いまの都市計画と再建に対する攻撃」

「この本はいまの都市計画と再建に対する攻撃です。それはむしろ、現代の正統派都市計画や再開発を形成する原理や目的に対する攻撃なのです」。こんな文章で本書は始まる。なんとも、挑戦的である。事実、本書は、「インチキ」や「でたらめ」といった、既存の正統派都市計画や再開発を形成する原理や目的に対する辛辣な言葉で溢れている。本書の著者である、ジェイン・ジェイコブズ(1916~2006)は、アメリカのノンフィクション作家・ジャーナリストであり、特別都市デザインの専門家というわけではない。だから彼女の主張は精緻な検証や科学的な理論にもとづいているわけではなく、基本的に彼女が自分の目で観察したいくつかの例にもとづいて展開されている。無論そこに、ジャーナリストの無責任や限界は存在するだろう。しかし、正統派の都市計画理論の外側の立場であったからこそ、何の遠慮もすることなく、根本的な問題提起をすることができたし、ある種のパラダイムシフトを起こすほどの強烈な印象を残すこともできた。自分の感覚を信じるということは、科学的な思考の第一歩であって、それが客観的に正しいかどうかは、追々すりあわせていけばいい。本書ではたしかにひとつの都市デザイン理論が提示されるが、それが本当に正しいのかどうかは分からない。言ってみれば、本書は科学と文学の間にある本である。しかし、彼女の観察眼はなかなかに鋭く、直感的に納得させられる部分も多い。さて、では本書の内容に入っていくとしよう。

本書は基本的に、それまでの正統派都市計画理論が拠り所としていたエベネザー・ハワードの都市デザイン理論に対して、その理論に従ってつくられた都市や再開発の実態をもとに批判している。ジェイコブズの理解では、ハワードは19世紀のイギリスにおける都市の害悪に辟易したために、「都市を滅ぼし、ロンドンの成長を止めて、村落が衰退しつつあった田舎に人を移住させ、新しい町田園都市(=自給自足の小さな町)を建設すること」を目指した。具体的には、「産業は計画された保留地」、「学校、住宅、公園は計画居住地域」、「中心には商業、クラブ、文化施設」を配置することによって、明確に地域の機能を規定し、「町とグリーンベルトは全体として、町を開発した公共当局のもとで永遠にコントロールされ、土地の投機や、土地利用の不合理な変化と称するものを防ぐ」ことによって、不要な変化が起こらないようにする。「立派な住宅の提供こそが中心的な問題だとしてそれに専念し、他のものはそのおまけだ」と考え、「商業というのは、決まり切って標準化された財の供給だと捉え、しかも自ずと限られた市場だけを相手にするもの」と考えた。つまり、「メトロポリスの複雑で多面的な文化生活をあっさり無視」して、「良い計画というのを、一連の静的な行動だと捉えて」いる。そして「彼は、大都市が自警したり、アイディアを交換したり、政治的に動いたり、新しい経済的な仕組みを生み出したりする方法といった問題には興味がなく、こうした機能を強化する方法も考案」しなかった。こうした静的で、自己の内部のみで自己完結し、他地域とのつながりを拒絶して、永遠の安寧を目指すハワードの都市像は、彼に影響された影響された人々(パトリック・ゲデスやル・コルビュジエなど)の基本的な考え方を構成した。つまり、次のような前提である。

  • 街路は人間にとって悪い環境であり、街路が多すぎるのは無駄
  • 住宅は街路に背を向けて内側の、保護された緑地に向くべきである
  • 都市デザインの基本単位は街路ではなく街区、それも特にスーパーブロックである
  • 商業は住宅や緑地から分離されるべきである
  • 物資に対する近隣の需要は「科学的」に計算され、それに応じた商業空間だけを配置する
  • 他人がたくさんいるのは、よくても必要悪でしかない

ジェイコブズはこのような、暗黙の前提に対し、自分自身の観察の結果にもとづいて、その前提がいかに間違っていて、かえって都市を「死」に追いやっているかを論証し、むしろこういった前提とは真逆の状態こそが、都市を「生かす」ための条件であることを主張する。では、生きている都市、すなわち、魅力的な都市とは、どのような都市なのだろうか。

私が思うに、都市が形成される理由やメリット、ルイス・ワースが提唱したアーバニズムというライフスタイルなどを考慮すれば、(1)安全性、(2)ちょうどいい距離感のコミュニティ、(3)利便性、(4)経済的な活気といった要素が必要であるように思われる。すなわち(1)安全性とは、「犯罪の発生率が低く、仮に巻き込まれたとしてもすぐに誰かが助けてくれる」という犯罪に関する安全性や「自分の住んでいる家やアパートが火災や地震などに強い」というような災害に関する安全性である。また、(2)ちょうどいい距離感のコミュニティとは、農村社会のような息苦しさがなく、かつ悩みを相談したり、気軽におしゃべりしたり、一緒に行事を楽しんだりというような、仲間意識、友達意識を持つことができるコミュニティのことである。(3)利便性とは、「本が欲しい」、「映画を見に行きたい」、「食材を買いたい」、「服を見に行きたい」、「ステーキが食べたい」、「今晩は寿司」、「運動がしたい」、「語学を習いたい」といったような、生きていくうえで生じてくるさまざまな欲求を満たしてくれる手段や場所が、自分の住んでいる地域にそろっているということを意味する。そして、(4)経済的な活気とは、自分がそこで生活していくうえで必要な雇用や、飲食店や商店の経営を維持していけるような市場があるということである。

安全性の条件~街路の有用性~

街路とは、ジェイコブズの言うように「場所と場所をつなぐ、物や人の移動、輸送を可能にする街路とその歩道は都市の主要な公共の場所であり、その最も重要な器官」である。しかし、従来の都市計画理論においては、街路というものは、あくまでも場所と場所をつなぐためのもの以上のものではなく、したがって街路のために土地が取られてしまうよりかは、なるべく街路を少なくして、その分建物を建てた方がいいとされていた。しかし、ジェイコブズは、「都市を安全に保つのは、都市の街路や歩道の根本的な仕事のひとつ」であると言う。街路というものは、その上を多くの人や物が移動する。それゆえに、それだけ多くの人の目が自然に街路の様子に注がれることになる。実はこの点こそが、重要なのだ。路上での強盗や誘拐、強姦などの犯罪は、普通衆人環視の下で行われるわけではない。むしろ、そういった犯罪は誰も見ていないところでこそ起こる。たしかに、警察や近隣住民によるパトロールによって、そういった犯罪を防ぐ、あるいは起こったとしてもすぐに駆けつけられるようにするための監視の目を光らせることはできるだろう。しかし、そういった人工的な監視体制だけでは、どうしてもマンパワー不足になってしまい、どうしても死角や空白が生まれてしまう。ジェイコブズは、「街路の自然の店番とでも言うべき人々の目」が必要であると言う。つまり、どこかへ移動するために、都市の街路を普通に使っているだけ、あるいは店番をしながら、カフェで何かを飲みながら、仕事の合間に、ただ街路を眺めているだけの人々の目である。通常こういった人々は、「自分が治安活動を行っているということを通常はほとんど意識しない」。しかし、そこに目がある以上、犯行は自重されなければならないし、起こったとしても、すぐになんらかの対処をすることができる。そういう目の存在が、地域の治安を守るのである。

こういった目を働かせるためには、「街路沿いの建物が、街路に顔を向けていること」と「歩道にかなりの利用者が継続的に存在すること」が必要となる。後者は単純に、多くの利用者自身が(無自覚に)監視の目を光らせるということもそうだが、「街路沿いの建物にいる人々が十分な数だけ歩道を見るように仕向けるため」という理由もある。なぜなら、「だれもいない通りを、ポーチや窓から眺めたりして楽しいと感じる人」はほとんどいないからである。「多くの人は、街路での活動を見て楽しむ」。そういった自然発生的な目の存在こそが重要なのだ。しかし、それが自然に発生するためには、人々が自発的にその街路を利用する理由、つまり、その延長線上にある目的を持った建物がなければならない。しかも、監視の空白時間が生まれないようにもしなければならない。ジェイコブズの言葉で言えば、「監視における基本要件は、その地区の歩道に沿って、相当数の店舗や公共の場所が散在しているということです。特にその中には、夕方や夜にも使われる事業所や公共の場所がなくてはなりません。商店や酒場やレストランが主な例ですが、これらはいくつかのちがった複雑な形で、歩道の安全性を助けるのです」ということである。

また、街路は子どもたちにとって、格好の遊び場を提供する。「街頭が青年たちに与える道徳的肉体的な被害」に曝されているかわいそうな子どもたちを救うために造られた「運動設備があり、走る空間があり、魂を向上させる芝生のある公園や遊技場」は、往々にしてその親切心とは裏腹に、「ギャングの決闘場」や「ガキ大将が弱い者いじめする場所」として使われる。それは、やはり街路での自由な遊びの方が楽しいからそういった場所が使われず、誰の目もないところだからこそ、そういった悪事がはびこるということを示している。「子供の屋外生活の相当部分は、ちょっとしたかけらの総和です」と彼女は言う。それは、「お昼ご飯後のちょっと余った時間、「放課後に、子供たちがどうしようか考えて、だれが集まりそうか思案しているとき」、「タご飯の声がかかるのを待っている間」、「夕食を終えて宿題にとりかかるまでのちょっとした空き時間」などに、何の目的意識も持たずに、偶発的に生じる遊びなのだ。「水たまりで水をはねちらかし、チョークで落書きをして、縄跳びをし、ローラースケートをして、ビー玉をし、宝物を持ってうろつき、会話してカードを交換し、三角ベースをし、竹馬に乗り、ダンボール製のスクーターの飾り付けをして、古い乳母車をばらし、手すりにのぼって、あちこち駆け回る」。「こうした活動の魅力は、それに伴う自由の感覚」なのだ。「歩道を自由に行ったり来たりするのは、保護地に押し込められるのとは話がちがうのです。そうした活動を偶発的かつお手軽にできなければ、それが実行されることはまずないでしょう。歩道が多種多様な人々により、多種多様な目的で使われていない限り、歩道での遊びを計画しても無駄です。こうした各種利用は、適切な監視や、ある程度の活力ある公共生活、一般的な興味のために、お互いに必要とし合っている」のである。

ちょうどいい距離感のコミュニティのための条件~商店や酒場やレストランの有用性~

正統派の都市計画理論や再開発プロジェクトの理論には、「会議室、工芸・芸術・娯楽室、屋外ベンチ、緑道などがお手本のように揃っている」。しかし、そういったものは、プロジェクトの計画者の意に反して、「だれも使わず無用の長物になってしまう」。ジェイコブズの見立てによれば、そういった場所は「この上なく確固とした努力や出費で利用者を丸め込まねばならず――そしてその後も利用者の統制を保たなければならない」からこそ、継続して利用されない。彼女はそういった人工的な箱ではなく、むしろ「酒場、菓子屋、みすぼらしい立ち飲み屋、レストランなど」が必要であると主張する。それはなぜだろうか?

それは取りも直さず、人々の自然なコミュニケーションを誘発し、ちょうどいい距離感を保ち、人々の間に適度な信頼をもたらすものだからである。地域の中にあるお店での何気ない挨拶、子どもたちが駄菓子屋に集まって遊ぶ光景、ふらっと立ち寄った行きつけの店での仲間との出会い、公園で子どもを遊ばせた後の、レストランで行われる井戸端会議の延長戦。そうした、「ほとんどは突発的で、何らかの雑用のついでで、すべて当の本人が加減を決めたもので、だれにも強いられない」、「地元レベルの何気ない市民交流の総和が公的アイデンティティの感覚であり、公的な尊重と信頼の網であり、やがて個人や近隣が必要とするときに、それがリソースになる」のである。

一般的に、田園都市的な小さなコミュニティにおいては、どちらかと言えば農村的な凝集性の強い、独立したコミュニティ像が理想とされている。しかし、ジェイコブズの見立てでは、そうした「一体感」というものは、都市での生活では重荷にしかならない。それは、ルイス・ワースが都市で暮らす人々に特徴的な人間関係やライフスタイルをアーバニズムと名付けた際に観察したものと同様である。農村的な社会というものは、もっとネガティブに見れば「ムラ社会」であるとも言える。つまり、自分たちと同質的な人々しか受け入れず、かつその同質性を保とうとする微妙な人間関係の力学が、そこに住んでいる人々に息苦しさを感じさせてしまう。つまり、コミュニティが「多くを共有する結果、隣人がだれか、あるいはそもそもだれとつき合うかについて過度に選り好みが始まらざるを得ず」、「所得、人種、学歴の異なる母親たちが子供をこの公園に連れてくると、あからさまに親子ともども、ぶしつけに仲間はずれにされる」ということだ。そうした疎外感を感じた人は、その地域にやってきたとしても孤立感を感じざるを得ず、その地域に対する愛着は決して芽生えないだろう。また、そういう排他的なイメージが強くなってしまうと、そもそも人はその地域にやってこない。それではその地域からは人々が逃げてしまうことになる。

しかし、それは田園都市的な都市計画の思うところであり、ある意味その排他性はむしろ望むところでもあると言うことができるかもしれない。しかし、そういった「近すぎる人間関係」は人々の間に気苦労を生じさせる。例えば、井戸端会議の延長戦をやろうとしても、周りに喫茶店やレストランがなければ、結局自分の家に招待して、もてなさざるを得なくなるといったことだ。そういったことは一度だけならいいかもしれないが、それが常態化してしまうと、招く方としては息苦しくならざるを得ない。そうなってしまうと、あるきっかけで、その人はその地域から逃げてしまうことになる。自分の生活を他者の協力に依存せざるを得ない農村での生活であれば、「一体感」というものも有用なのかもしれないが、商業的サービスによる機能分離が進み、それぞれが客としてサービスを利用すれば、ある意味で自立的な生活ができてしまう都市では、それは重荷である。子どもを遊ばせる公園の道すがらに喫茶店やレストランがあれば、みんなそこでおしゃべりをすることができるが、そういったものが建たないように想定されているがために、「ちょうどいい距離感」を保つことができずに、「近すぎる関係」になってしまう。だから、良い都市の近隣とは、「自分の基本的プライバシーを守るという人々の決意と、周囲の人々からさまざまなレベルの交流や楽しみや助けを得たいという願いとで、驚くほどのバランスを実現」している近隣であり、商店や酒場やレストランといったものが、そうしたバランスを実現するために必要な装置として機能しているのである。

自然な経済が成立するための条件~選択肢の広さと豊かな機会の重要性~

さて、都市が魅力的であるために必要な残る条件は、利便性と経済的な活気ということになるが、これは実はひとつの自立的な経済について、住民の立場から見るか、経営者の立場として見るかという違いしかない。つまり、住民や都市の利用者にとってみれば、自分の欲求を満たすサービスをしてくれるのは、なんらかのお店や商業施設であり、逆に自分たちの経営を成り立たせるために必要な市場を提供してくれるのは、住民や都市の利用者にほかならないということである。では、自然な経済が成立するためにはなにが必要なのだろうか?

それは、ある意味で同語反復となるが、とりもなおさず、「多くの人がその都市に住んでいる、あるいはその都市を利用していること」と「都市に住んでいる人々の生活を支えるだけの利便性があること」にほかならない。ジェイコブズの言によれば、本当に巨大な企業であれば、郊外に支店や社宅をつくって、社員の生活欲求を満たすためだけに、必要な施設(「通常の執務空間、洗面所、医療設備等々に加えて、大きな雑貨店、美容院、ボウリング場、カフェテリア、映函館、各種の遊戯施設」)を運営することもできるが、世の中に存在するほとんどの中小企業は、そういうふうに、自前で自分に必要なすべてを用意することはできない。だからこそ、お互いがお互いを支えあい、活用しあう必要がある。いやむしろ、そういった「選択肢の広さと豊かな機会」こそが都市の良さであり、だからこそ「仕事も歯医者もレクリエーションも、友人も広も娯楽も、ときには子供たちの学校でさえ、都市全体(あるいはその彼方)から探して選ぶことができますし、実際にそうしています」。

さらに、そうやって利便性が増すからこそ、人々はその魅力に惹きつけられてその都市を利用するようになるし、そうやっていろいろな人々が集まってくるからこそ、さらに別の需要が生まれ、ビジネスチャンスが生まれてくる。市場の拡大と利便性の向上は、どちらが先というわけでもなく、互いが互いを前提とする好循環(あるいは悪循環)の関係なのである。そして、そういった相補的な関係は、ある意味で補助金がなければ成り立たないような事業よりも合理的ですらあるのだ。

「生きている都市」を生み出すための4条件

以上のような、都市が魅力的である条件について考察した後、ジェイコブズはそれらをまとめて、都市がイキイキとするための4つの条件を提示する。その条件とは、①その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が、2つ以上(できれば3つ以上)の主要機能を果たすこと、②それぞれの街区を短くすること、③地区に、古さや条件が異なる各種の建物を混在させること、④十分な人口密度があることの4つである。

①については、主に利用の空白時間を生じさせないためである。たとえば、その地区が明確にオフィス街として規定されていて、それ以外には何の飲食店や商業施設もない場合、基本的には「朝に人が押し寄せて、昼間は閑散としていて、夕方に一気に人が流れだして、夜はまた静まり返る」という光景が見られることだろう。しかし、これでは安全性や利便性を満たすことはできない。だからこそ、さまざまな機能や用途を混在させることによって、時間的・空間的な利用をずらし、分散させる必要があるのである。

②が言いたいことは、要するに「利用される道と利用されない道が固定され、硬直化しないようにするために必要である」ということだ。ひとつの街区があまりにも長く、かつ入り口がひとつしかない場合、普通は自分の目的を果たすために必要な道しか、選んで使わない。しかし、それではよく使われる道とあまり使われない道ができてしまい、あまり使われない道では、安全性や利便性が低下する。しかし、街区が短く、道がさまざまに入り組んでいれば、気分によって、いろいろな道をぶらぶらしながら、目的地にたどり着くことができるようになる。そうやって、ぶらぶらしている中で、それまで気づいていなかった「良さそうな店」や「面白そうな場所」に出会うことは、個人にとっても、面白いことだろう。だからこそ、「街路や角を曲がる機会は頻繁でなくてはいけない」のだ。

続いて③についてであるが、どうして「地区は古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはならない」のだろうか?それは、機能や用途の多様性を確保するうえで必要だからだ。ちなみにここで言う「古い建物」とは、「博物館級の古い建物」でもなければ、「みごとで高価な修復を受けた古い建物」でもない。そうではなく、一言で言えば、「ボロい」建物のことである。なぜかといえば、そういう古い建物は賃料が安いから。ただそれだけである。一般的に、新しくそこで事業をしようとする場合、新しさや清潔さなどが重要である場合がある。たとえば、ファッションや貴金属、大企業のオフィスなどは、そのイメージから言えば、古いものは敬遠される。逆に、小さいお店や中小企業、アーティストなどは、そういった高級感溢れる建物に入ることは、経済的に難しい。しかし、その地区が単に新しいものを求めて、新しいビルや店をたくさん建てたとしても、それはいつか必ず「古い建物」となる。これは自然の摂理であるから決して避ける事ができない。だが、そういうふうに、いっぺんに「古い建物」しか残らないような状況になってしまえば、大企業やイメージを大事にしたい業種は一気にそこから移転してしまうことだろう。そうなれば、一気に衰退することは避けられない。だからこそ、適度に古いものを残し、少しずつ建物を更新していく必要があるし、そうした古い建物こそが、ニッチなビジネスチャンスをつかもうと「新しいアイディア」だけを武器にしようとしている人々を受け入れるのである。

最後の④については、もういちいち説明するまでもないことだが、人々が密集して済むからこそ、そこには市場が生まれ、市場が生まれるからこそ利便性が向上し、多くの人々がひっきりなしに街路を利用するからこそ安全性が向上し、安全であるからこそ人々がそこに住み続けるという循環が生まれるということである。

スラム化と脱スラム化

スラム化を「人口の流出や経済的な衰退、犯罪の頻発など、地域の抱える問題を解決することができずに、その地域の魅力が低下し、そうした事態がますます人口の流出などを招く悪循環に陥ること」とするならば、今までの議論はまさに、そういったスラム化=都市の「死」を防止するための条件であったと言ってもいい。そのような都市がイキイキとするための条件は、互いが互いを前提とし、影響を与え合う関係であるため、どれかひとつが欠けると、連鎖的にほかの条件も薄れてしまうということがある。スラム化してしまった地域とは、ジェイコブズが挙げたような条件のうちのどれか、あるいは複数を満たすことができていないためにそうなってしまうのである。

しかし、逆にいえば、実質的に条件を満たしていれば、その地域は実はスラム化していないということになるし、事実脱スラム化しようとしている地域も存在する。だが、地域の実情を詳しく見てみれば、そういうことも分かるけど、それが表面上、あるいは為政者や再開発業者、銀行関係者のイメージ上、それが分からずに「スラム街」という烙印を押されてしまう地域がある。そういった地域は、「銀行がブラックリストからはずし、家の修繕のための資金を融資してくれる」というほんのちょっとした支援によって、自力で再生できるにもかかわらず、統計上の「低所得者地域」だとか「高密地域」、あるいは「スラム街」という烙印事態によって、再開発プロジェクトの対象になってしまうことがある。そういった、不必要な再開発を避けるためには、その地域における強い自治が必要となってくる。

ジェイコブズがイメージしている自治とは、「その地域の方針や政策について、役所や都市計画課、デベロッパーなどの専門家が勝手にやってくれるものとしてとらえるのではなく、自分たちの普段の生活から不満やアイディアを募り、それを実現しようと働きかける」というものである。そしてその自治は、「市や再開発業者と戦って、勝てるだけの規模と団結」がなければならない。ジェイコブズは良い自治のために必要な3つの主体を提示する。すなわち、1.全体としての都市、2.街路近隣、3.大型だが都市にはならない規模の地区である。

1.全体としての都市とは、要するに議会や役所、市長といった「都市の造成や開発、その他の政策形成に大きな影響力を持つ人々のことである。そして、2.街路近隣とは、例えば、酒場に集まってくる人々が「再開発なんてやられたらたまらないよな」とか、地域の子育てをしている主婦の人々が「もっと自然があればいいのにね」といったことを、会話の中で言及することによって生まれる、都市住民が何の気になしに集まってつくる小さな不満や理想の共同体のことである。最後の3.大型だが都市にはならない規模の地区とは、例えば「再開発反対運動」や「街路樹普及運動」などの運動を展開する住民組織(圧力団体)のことである。そして、この3つの近隣は、「近隣はどれもちがった機能を持ちますが、3つとも複雑な形で相互に補い合っていて、どれがどれより重要だと言うのは不可能であり、どの地点でも長持ちする成功のためには、3つすべてが必要」となる。くわえて、ジェイコブズはそれぞれが緊密に連携し合い、「市や再開発業者と戦って、勝てるだけの規模と団結」を実現するためには、人と人とのネットワークが重要であると言う。つまり、4~5人の再開発に反対する集団が、実は100組くらい存在したとしても、それぞれが孤立したままでいては、強力なブルドーザーの権力には対抗できない。そのためには、そういった100組の人々をまとめあげる人が必要となる。例えば、Aという人が、小学校のPTAである一方、近くの酒場に飲み友達を持っているといった場合、Aはそのふたつの集団を連携させる可能性を有している。そういうふうに、個人がさまざまな集団に属していることから生まれる、人と人との個人的なネットワークは自治を達成するうえで非常に大きな財産になるのだ。そして、B地区があるオピニオン・リーダーの下に団結し合った後には、C地区やD地区のリーダー達と連携し合い、より大きな地域としての世論を形成していき、やがては、為政者や議会に対する圧力団体となっていく。これがジェイコブズの言う「良い自治」の理想型である。

そして、そのような自治を達成するためには、人々が日常的、個人的に独自のネットワークを形成している必要がある。しかし、そのために何か特別なことをする必要はない。なぜなら、そういったネットワークは、まさに街路や小売店、飲食店といった何気ない日常の中で自然と育まれるからだ。都市の再生や活性化は、再開発プロジェクトによって一気にもたらされるのではなく、実はそういう日常的な小さなネットワークから生じる。市民ひとりひとりのイキイキとした生活こそが、都市を「生かす」のである。

ジェイコブズの主張~演繹から帰納へ~

総じて、ジェイコブズが本書を通じて訴えたかったこととはなんなのだろうか?それは、「机上で空論を練ることに終始するのではなく、その地域の実態というものを自分の目で観察し、その地域の課題や資源を肌で感じ、そこで暮らす人々の生の言葉から都市をデザインしていかなければならない」という極々単純なことだろう。そして彼女は、なによりも「多様性」と(人同士、地域同士の)「つながり」というものが重要であると主張した。都市とは、それぞれが有機的に関係し合い、互いに影響を与えあっている。だからこそ、ひとつの変数の変化が思わぬ結果を生むことにもなるし、うまくすれば、全体が生き返ることにもつながってくる。それは少数の専門家の頭の中の計算で予測できるものでもないし、都市の全体を把握することは、ある意味で不可能と言ってもいい。しかし、だからこそ、そこに住む人々のそれぞれが地域の問題を感じ、感じたことを実際の生活に反映させるために、なんらかのアクションを起こす必要がある。ジェイコブズは「生き生きとした多様で活発な都市には再生の種があり、自分たちの外部の問題やニーズにさえ対応できるだけの、あふれるエネルギーがあるのです」と言う。彼女は、都市に暮らす人々の可能性を信じ、むしろ都市に暮らす人々こそが、良い街をつくっていくためには必要なのだと信じる。そういうふうに、「トップダウン」のまちづくりから「ボトムアップ」のまちづくりへと、都市デザインの考え方を転換させたことに、ジェイコブズの功績があるのだろう。

参考文献

  • ジェイン・ジェイコブズ著『アメリカ大都市の死と生』、山形浩生 訳、鹿島出版会、2010.04(原書:1961)、全501ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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