デイヴィッド・ライアン(2001年)『監視社会』

公開日: 更新日:

社会学

この記事をシェアする
  • B!

紹介文

現代は、街頭や店舗、交通機関など、さまざまな日常空間の中に監視カメラが溢れ、メールやSNSの内容は必要に応じて開示されてしまう。その意味で人々は常に監視されている。しかし、本書の著者、デイヴィッド・ライアンは現代の「監視」の様態はそうした古典的なものだけではないと言う。人々は、行政への届け出に始まり、クレジット・カードやフィットネスクラブ、旅行会社などの利用に際して、日常的に自らの「情報」を提示している。しかし、そうした情報は、データベース上でつなぎ合わされ、知らず知らずのうちに、自分でも知らないような「自分像」を生み出され、人々はカテゴライズされる。貧しい人、なんらかのスティグマを抱えた人は、そうした情報をもとにライフ・チャンスを閉ざされる。それでもなお、社会が「監視」を許すのは何故か。そんな社会で必要な原理とはどんなものなのか。高度情報社会における、情報と人のあり方を問うた1冊。

古典的監視とパノプティコン

本書は、そのタイトルが示すように「監視」という現象を扱っている。彼は「監視」という言葉を《個人の身元を特定し得るかどうかはともかく、データが集められる当該人物に影響を与え、その行動を統御することを目的として、個人データを収集・処理するすべての行為》と定義する。彼は、自身が論じる「監視」は《主として、お互いに警戒し合う生身の人間に関わるものではない》と述べ、《個人から抽出された断片的事実》が重要であると言う。この言葉が何を意味するのかは後々明らかになるので、まずは、古典的な「警戒」としての監視について見ていこう。

「監視」という語について、原書では、フランス語由来の“Surveillance”という言葉が使われているが、これは《上から見張る〔watch over〕こと》を意味する。だが、日本語の「監視」という言葉から真っ先に連想するのは、やはり「監視カメラ」や「看守」といったものであろう。その際にテーマとなるのは、「逸脱」の防止である。フランスの歴史学者ミシェル・フーコーは、その著『監獄の誕生』の中で、「パノプティコン」と呼ばれる監視装置について分析し、権力が、監視対象者に対し、自身にとって望ましい「主体」を形成させるメカニズムを明らかにしている。監視は、むろん不正行為や逸脱行為をじかに目撃し、逮捕・拘束から処罰に至るプロセスを迅速化する点に有用性がある。しかし監視は、物理的な視線だけではなく、個々人に内在化された「視線」、あるいは「言説」の力によって、個々の「主体」を構築してしまう。つまり、非対称な視線の流れによって社会の構成員たちに「規律」を植えつけ、権力の想定するように「主体」の行動を制限していくイメージである。ライアンは、《主体を犯罪者として構成し、彼/彼女を更生へ向けて、(ベンサムの言い方で言えば道徳的矯正へ向けて正常化される)、システムの言説・実践の全体的な働き》の中において、強力に主体の自己認識を形成していく点に《言説的権力》の本質を見るマーク・ポスターの指摘を引用し、その「まなざし」による言説的権力が《学校や病院、その他の官僚的組織》にその影響力を拡大していったと述べる。言説は「規則」や「ルール」と言い換えることもできる。マックス・ウェーバーが述べたように、近代的な官僚組織は合理的に定められた規則を、個々の成員が忠実に守ることによって、最大限効率的にその機能を果たすようになっている。

その規則を守らせるうえで必要不可欠なのが、我々が無意識のうちに受け入れている《特定の主体的立場(学生・被雇用者・タクシー運転手・議長など)》や「社会的役割意識」といったものである。それぞれの主体の間には、上司‐部下、元請け‐下請け、客‐店員などさまざまな関係が生まれており、それぞれの役割に応じて期待される振る舞いをしなければならない。官僚的組織においては、その目的を達成するために「役割」は言語によって定義され、そこから逸脱すれば、なんらかの制裁が加えられる。近代以降の資本主義企業は、ひとつの空間の中に全労働者を集め、管理者の目を光らせることで、「逸脱」の防止を図った―またそれは、単にサボりの防止とった消極面の回避だけではなく、時計やスケジュール表(時間割)といった人工物によって、万人に共有される規則を生み出し、人々の社会活動を積極的・合理的に管理していった。「近代」の段階においては、同じ空間に存在している人の目そのものだけが監視のツールであったが、テクノロジーが発達した現代においては、例えば監視カメラというツールを利用することができる。それはもちろん、《手癖の悪い客》や《内部の人間》による窃盗を防止することを目的としているが、テクノロジーの利用方法はそれだけではない。例えば、店内に設置された監視カメラによって、《レジ操作や払い戻し・両替の規則の順守状況だとか、感情表現面での労働―スタッフがどれだけ「親しみ易く」、「親切に」見えるか―だとか、労働者の行動の別の細部》も把握することも可能である。《eメールの使用が会社の方針に違反していた場合に警告を発する「メイルコップ」》というシステムも既に存在している。このシステムの中には、「(実際はともかく)見られているかもしれない」との意識を植え付けられずにはいられない、パノプティコン的な作用があるだろう。

国家による監視①:治安維持活動

上述した「警戒」のため監視を用いるイメージが強いのは、もちろん国家的な警察権力のそれで、治安維持のためのそれである。その対象は、窃盗などの小さな犯罪からテロリズムなどの大きな凶悪行為までさまざまである。監視カメラ網は、いまや社会のあらゆる場所(バス、列車、タクシー、電話ボックス、エレベーターの中など)に張り巡らされており、ある雑誌の広告では《「あなたは1日に平均10回ビデオ・カメラに写っています。服装は大丈夫ですか」》という文句で、自社の衣類をアピールしようとするほどである。しかし、今や監視カメラはたんにその場所の様子を映し出し、記録するだけの道具ではない。現在では、ネットワーク型のコンピューターに接続されることによって、瞬時に画面内の情報に危険、あるいは不正な因子が含まれていないかを判別することができる。例えば、「ナンバープレート自動認識システム」は、《ニューラル・ネットワーク型コンピューターを用いて、高架カメラから撮影されたナンバープレートを認識し、盗難車や不審車のリストと照合する》。そして、監視の技術は、原則として、いったん導入されれば除去されることはなく、逆に永続的に維持・拡大される傾向にある。ナンバープレート自動認識システムはもともと、《1980年代後半のロンドンにおけるアイルランド共和国軍(IRA)の爆弾闘争への対応策として蕃入された》が、いまだに《北アイルランド和平プロセスのひとつとして撤去される気配はない。それどころか、警察は、今度は、運転者・車両認可局(DVLA)の道路利用税、および車両安全検査の記録との、将来的には、裁判システムや保護監察局、救急サーヴィスとの、更なるネットワーク統合を目論んでいる》。イギリスで1998年に成立した《犯罪・治安紊乱法》は、警察に《保健衛生や自治体といった他領域を代行して機密情報を吸い上げる》権限を与えるものであったが、やがて、《保護観察施設、教育・保健衛生機関》といった独立した公的機関や《青少年犯罪者チーム》などの《機関連合的存在》が、《犯罪抑制名目で治安活動機能を担うようになる》。特に、《国家の力への多種多様な挑戦》が数を増している時代にあっては、政府は監視を重要事項と位置づける。イギリスでは、《通称「鋼鉄の環」がロンドンのビジネス地区シティーを取り囲んでいる》し、《100〔m〕先のタバコの箱に書かれた文字も読み取ることができる》ような監視カメラ、および《複雑なコンピューター・システムが設置されている》。《区域内に入ってからある時間以内に退去しない車両があれば警戒態勢が発動され、ナンバープレートが関連データベースに照合》され、日本では地下鉄サリン事件以降、《広範な電話盗聴やファクス・コンピューター通信・Eメールの傍受も用いた厳しい取り締まりに向けての政府の動きが加速されている》。

国家による監視②:外交戦略・グローバル犯罪への対抗

しかし、監視の目はいまや、国内の動向のみに向けられるわけではない。それは、国外の人物や組織、そして外国政府にも向けられている。そうした活動は「コミント」と呼ばれる。コミントとは、《通信情報収集活動〔communication intelligence〕の略語》である。コミントを最も積極的に行っているのが、《英語圏諸国のUKUSA同盟、なかんずく米国のNSA》であり、最も古典的・典型的な行為は、他国の首脳や政府機関への盗聴や不正アクセスといった軍事・外交上の諜報活動である。だが、コミントは1960年代を境に、その性格を変え始め、主に《経済的な機密情報や科学・技術開発関連の情報の収集》に資源が振り向けられるようになった。それは、《通常の企業ビジネスの様相を帯びる》に至り、《国営/民営の郵便・電話・電信企業が国際的に張り巡らした通信網(高周波帯域の無線通信、マイクロ波無線中継局や海底ケーブル、通信衛星)を経由する国際通信を傍受する》ことで情報を手に入れる。《1990年以来、ほとんどの通信がデジタル化されると、コミントはインターネットのデータも収集》するようになり、現在では、アメリカとイギリスを筆頭に、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、ロシア、中国やインド、イスラエル、パキスタンを初めとするほとんどの中東・アジア諸国などが、合わせて毎年150億から200億ユーロをコミントに支出している。

コミントはまた、《麻薬取引・資金洗浄・テロリズム・組織犯罪も標的》とし、国境管理にも利用される。特に薬物取り引きについては、国境を跨いだ薬物の調達、輸送、売買というローカルで物理的な動きもさることながら、現在ではサイバースペースでの取り引きといった、精妙で、音もなく密やかに達成される非合法活動も警戒しなければならなくなっている。《シチリアのコ―ザ・ノストラ、米国のマフィア、コロンビアおよびメキシコのカルテル、ナイジェリアの犯罪ネットワーク、日本のヤクザ、中国の三合会、ロシア・マフィヤ、トルコのヘロイン密輸業者、ジャマイカのパッル》といった組織は、国際的なネットワークを構築し、《兵器、放射性物質、不法移民、女性や子供(売春のために)、臓器売買、資金洗浄》などの犯罪を遂行する。モノやサーヴィスの提供と対価の支払いは同時とは限らず、不正行為や資金洗浄への関与を疑われる資金は《電子的に移転されている》のである。

グローバルな移動という意味では、移民もまた監視と管理の対象となっている。《最新テクノロジーが職や住居の情報の伝達を容易にし、移動に要する費用を低下させていくのにつれて、より安価な形態の労働への需要は、次第に、他国からの移民集団が満たすようになる。カリブ諸国やメキシコの労働力はアメリカに向かい、トルコ人・ユーゴスラビア人・ギリシア人はドイツに向かい、そして、北アフリカ人はフランス・イタリア・スペインに職を見つける》。こうした人の流れは、世界中で拡大中であり、内戦や戦争がそれに拍車をかける。《少なくともヨーロッパでは、不法移民の流入率が合法移民のそれ》をはるかに上回っており、もはや無視できる規模ではなくなっている。移民はその社会では文化的異分子であり、すぐに溶け込めるわけではない。特に不法移民は、「汚れ仕事」も厭わぬ安価な労働力となってその社会の経済を下支えするが、下層にいる人々は、「仕事を奪っている」と言って、最下層にいるそうした人々に「負け組」から抜け出せない怨嗟のはけ口を見出す。しかし、すべての移民が「仕事を奪える」わけではない。移住してきても職を見つけられず、生き延びるために《特定の移民集団が、例えば、麻薬取引や売春と結びつけられる》ことも起こる。こうなると自体は複雑な様相を呈し、「犯罪の温床」を盾に、排斥の声を堂々とあげる集団を増長させる。イギリスでは、厳重な移民労働者の制限を行ったため、相対的に移民の数は増えにくくなっているが、ドイツでは《1988年から1994年の問に、ドイツへの移民労働者数は25倍近くに拡大した》。だからドイツでは、《すべての市民・外国人が、転居する度に登録を要求される。すべての定住外国人が中央の外国人登録簿に記載され、求職の際には、すべての居住者が国籍を証明する書類の提出を求められる》。すべては国家的な管理のためである。

企業による「監視」①:効率的マーケティング

しかし、「監視」を「ある人物についての情報の収集」とする彼の定義から言えば、それは国家の専売特許ではない。むしろ、企業による情報収集活動の伸びはめざましく、カナダのケベック州では、《1980年代中葉に、公共部門よりも民間部門の方が市民のデータを多量に保持・取引しているという証拠が提出された》。そして、その傾向は《1990年代を通じて、〔…〕むしろ以前にも増す勢いで発展した》という。企業が「監視」の対象とするのは、労働者と消費者の2つである。前者については、フレデリック・テイラーの古典的な管理によって、労働者を組織化し、より効率的な生産を行おうとするものである。だが、近年企業が特に力を入れているのが消費者、それも個人のレベルでの細かい情報の収集である。その目的は、「リスクの回避」と「効率的マーケティング」にある。現状の世界経済は、大量生産・大量消費の時代を終え、需要主導型にシフトしモノやサーヴィスはつくれば売れる時代ではなくなっている。世界の貧しい地域においては、イヴァン・イリイチが批判するようなパノプティコン的宣伝攻勢によって、コーラやスマートフォンを売ることができるかもしれないが、特に富裕な世界においては、マスメディア(による宣伝)は、もはや直接的な影響力をほとんど失ってしまっている。だから、経済成長が鈍化し、人々の財布の紐が固くなる中では、的確にその人が求めているものを探り、そして的確にそのニーズを満たすものを提供しなければならない。例えば、スマート・メーターは《エアコンがフル稼働する高温多湿の天候下といった、重要な時間帯における電力使用量の割り振りに役立つ》が、企業はそのデータをさらに詳しく分析することによって、《家電製品の故障状況や特定の種類の家電製品が所有されていないこと》を把握し、《標的を絞った新機種の宣伝》につなげていく。

だが、今の企業はマーケティングにおいて悠長に「待つ」ようなことはしない。そうではなく、《散在するニッチ市場に向けてカスタマイズやパーソナル化、個別サーヴィスを行い、自分が必要とする消費者を「創出」しようとする》のである。そのために企業は、あらゆる情報を収集し、そして活用する。情報の経路は、閲覧したサイトの情報が記録されている《私たちのハードディスク》であったり、《郵便番号や配達区域》であったりする。つまり、企業は《「類は友を呼ぶ」 という単純だがたいていは的確な仮定》にもとづき、《人口地理学的データと国勢調査の情報を組み合わせ、そこに、特定の支出パターンに関する既知の事柄(その一部は、割引カード付きの「顧客優遇クラブ」から得られたものかもしれない)を付け加えることによって、ダイレクト・メールを送るべき地域、電話セールスを行うべき地域を正確に割り出す》というカラクリである。「この地域には裕福な人が多い」→「裕福な人は、○○を求めている傾向にある」→「ゆえに、我が社の製品やサーヴィスを買ってくれる確立が高い」という三段論法的なシミュレーションを根拠に、《ポイントカード制の顧客「クラブ」、ブランド限定版のクレジット・カード、差出人名の入った限定発送のダイレクトメール、個々の消費者の購買パターンに応じてカスタマイズされた、請求書に同封の対象限定型の広告》を的確にばらまく。こうすることで《都市での消費者監視は、軍隊並の正確さで販売促進策を立案・設計する》のである。

企業による「監視」②:リスク回避

しかし、企業はこのような「攻め」のためだけに情報を利用するわけではない。企業は「守り」、すなわちリスク回避の手段としても情報を用いる。ここで特に注目されているのは、保険会社の影響力である。保険会社のビジネスは、なにかモノとしての製品を売るわけではない。そうではなく、現代においてとりわけ人々が不安を抱える、諸々のリスクに対する備えを提供している(いわば「安心」を売るということだろうか)。それは、個々の加入者が支払う保険料を原資としているわけだが、そこから自分たちの利益を確保しなければならない。保険商品が対象としているリスクが現実に起これば、保険会社は保険料よりも多額のお金を払う必要に迫られる。だから、支払い義務が数多く生じてしまうと保険会社は債務不履行になり、倒産してしまう。ゆえに保険会社は、自分たちが負け戦を戦わずにすむよう、「リスク」の大きさを慎重に吟味する。その際の判断材料となるのが、個人に関するさまざまな情報である。保険会社は、本人に直接聞いたり、調査した情報にもとづいて、同性愛の男性の生命保険への加入を拒否したり、強盗多発地区の住民の家屋保険への加入を拒否したりする。《精神的不安定性や法律への抵触、家族を扶養する能力の欠如がリスク履歴から判明している人々》、《警察・保健衛生・福祉方面からの非常に徹底的な監視の標的となっている》人々は、端から融資や保険加入や売り込みの対象となることはできない。彼らは、《国家とは独立に経済秩序に寄与し、ライフ・チャンスや資産形成を広く左右する》。市場経済は、《リスクを累乗化》する。富裕層は、《保険コストに変換するという選択肢が与えられる》が、貧しい=リスクが高い人々は《リスクのただ中に取り残される》。それは、与えられたデータにもとづく統計的計算の結果なのであり、保険会社は国家とは別のかたちで、個人の人生を大きく左右する影響力を行使しているのである。

「消失する身体」

このような状況において、ライアンは、「アイデンティティ確認としての身体が消失する」と言う。このように言うと、大袈裟に聞こえるかもしれないが、その意味するものは《はるかに平凡なこと》にすぎない。例えば、私たちは友達と会って話をする。そこでは、相手の身体(顔から足までの全身)はまざまざと現前している。彼・彼女に会う前にその人を探すとき、たいていは顔や体つきによって、その人を識別することができる。しかし、例えば別の友達と一緒にいた友達と偶然、電話で話をするときには、相手の「身体」は自分の目の前には存在しない。相手を識別するのは声や喋り方といったサインだけである。この程度であれば、《身体性の痕跡》ととらえることで「身体」のにおいを感じることができるかもしれないが、電子メールを使うときには《この身体性の痕跡すら消え去る》。そのメールがその人からのメッセージであることを識別させてくれるのは、基本的にメール・アドレスしかない。これが、《コンピューター利用のデータ通信にもとづく関係》が大部分の人間関係となっている現代における《消失する身体》という問題の意味するところである。

その人を個人的に知っている人であれば、その人をほかの人の中から識別することは可能であるかもしれない。しかし、赤の他人はその人の顔も知らないし、声も聞いたことがない。だが、近代の社会システムは、そうであっても個人を個人として識別する必要に迫られる。例えば、選挙における投票や売買契約、キャッシュ・カードの使用といった場面で、別の人が本人になりすまして権利を行使することは避けなければならない。そうした客観的な個体識別(ほんにんかくにん)をするうえで、万人に共有することが難しく、また変化する可能性のある「身体」を利用することはあまり合理的ではない。だから、署名(筆跡)やカード、書類、番号(暗証番号、IDナンバーなど)、パスワードなど、確認する側が発行した、本人だけが所持できるアイテムや当人だけが知り得る情報が用いられることになる。

けれどもこうした方法は、客観的で共有可能であるがゆえに、盗難や紛失、失念などによって、他人に悪用されたり、サーヴィスの提供が滞ったりする可能性を完全に排除することはできない。それは、身体を全くあてにしなくなったことの帰結である。だが、現在では《身体監視テクノロジーの出現によって、人間や機械の記憶の中に保持される合言葉や暗証番号は不要》となっている。それは、指紋や網膜などの《生物学的特徴》を《新たなレヴエルのコード化》し、《言葉や数字を越えた、記憶もカード呈示の必要もないパスワード》を《その特性的指標を正確に登録したデジタル・ファイルと照合》することで、完璧な個体識別を可能とする。この技術によって、イリノイ州クック郡の収監者は、《拘置所と法廷を行き来する度に網膜スキャン》を課せられ、コネティカット州やペンシルヴァニア州の福祉受給者は、《指の画像によって、身元を記録と照合させられる》。

断片の結合:諸機関の連携

しかし、現代的な「監視社会」は単純な個体識別をゴールとしているわけではない。むしろ、その本質的な特徴が現れるのはここからである。ライアンはウルリッヒ・ベックのリスク社会論を引用する。彼の理解によれば、リスク社会では《単に犯罪を起訴したり、危険を予防したりするだけでなく、「リスクの兆しすら回避すること」が目的》となっている。そうした過敏な反応は、治安活動(事件・事故やテロリズムへの対策)と企業経営の領域に特に見られる。通常、自動車を運転するためには安全に運転できる技能が必要だが、誰もその人を見ただけでは、その人がそういった技能を身につけているかどうかは分からない。だから、その能力があることを認められた人物には、その証拠として運転免許証が交付され、運転者は求めに応じてそれを提示しなければならない。ここで重要になるのは、「その人の顔と免許証の写真が同じである」という意味での本人確認もそうだが、それ以上にその名前と免許証番号が登録者名簿の中に存在するかどうかが重要になる。いいかえれば、それはその人の「資格」を問うているということになる。そうした「資格」をライアンは《信用可能性》と表現しているが、《信用可能性》は経済の領域でも重要視される。私たちは、いちいちお金を持ち歩く手間や危険性(盗難や紛失)を避けるために、信用にもとづいた取引を日常的に行っている。それは、カード会社に自身の経済状況などを審査してもらい、審査を通過すればクレジット・カードが発行され、基本的には有効期限までそのカードで買い物をすることができる。商店主にクレジット・カードを提示するとき、それは信用のおける第三者に「銀行に預金があること」を証明してもらったことを意味する。

だがリスク社会は、こうした個々の証明が併置されているだけでは飽き足らない。その人が運転免許証を所持していたからといって、その人が「安全な人物」であるとは限らない。過激な思想の持ち主かもしれないし、運転中に突然死してしまう持病をもっているかもしれない。クレジット・カードをそのときにもっていることは、その人に浪費癖があることを隠してしまうかもしれないし、キャッシュ・カードをよく落としてしまううっかりな性格であることを明かしてはくれない。それが自らの利害や評判に直結する集団は、そうした可能性も排除したいと願う。しかし近代は、輸送機関の発達によって人々の流動性(=物理的移動)が高まり、《見知らぬ人々、つまり、私たちと現実的な関係をもつこともなければ、私たちが何者で信頼に値するかどうか知ることもない人々と、係わり合う機会がますます増えている》点に特徴がある。そんな中では、《ひとりひとりの他人に個人的に身元を証明してもらうだけの余裕はない》。そんな状況で、諸集団はどうするか。

ここに監視社会の特徴のひとつが浮かび上がるのだが、ライアンはその答えを《監視システムに依拠して、多種多様な機関に対する自分たちの為替相場を維持・上昇させるのに十分なだけの信用を連出してもらう》と表現する。つまり、《評価を確立した資格(運転免許証のような)や試験(尿検査のような)から引き出される》情報を共有するということである。クレジット・カード会社は、カードの利用者が債務不履行になれば、もう自分のところのカードを店が使わせてくれないかもしれないので、審査は慎重に行う。警察は、交通事故が多いと批判されるので、免許の発行は厳格に行うし、本人の適性を絶えず確認するために、起こした事故の記録もしっかりと管理する。こうしたチェックは、それぞれの領域を司る企業や組織が、責任をもって専門的かつ慎重に行う可能性が高いから、それ自体が「信用」の源になる。個々の「確からしい」情報は、集約されるとその人の全体像(パーソナリティ)を把握する手がかりとなる。それはその人が、義務を果たすか、真面目か、とんでもないことを起こさないか、技能はあるか、ひとことで言えば、その人が「安全」であるかを判断する材料となる。「過去に事件を起こしたことのある人は、今度は交通事故を起こすかもしれない」。「スピードの快感を抑えきれずに事故を起こした人は、預金を1日で使い果たしてしまうほど、欲望に逆らえない人かもしれない」。《クレジット・カードの発行に信用調査所が利用され、運転免許証の発行に警察記録や運転者登録簿が、国境で提示されるパスポートのチェックに移民局のデータベースが利用される》ときには、そうしたパーソナリティ診断のようなものが行われている。

個人には、さまざまな性質や属性がある。それゆえに、人はひとことで形容することも、全体像を把握することも難しい。リスク社会の諸システムも、その人の正確な全体像は分からなくてもいいし、興味もない。しかし、諸々の監視主体が関係する《断片化された利害関心》に繋がる情報には、これ以上ない関心を示す。監視のネットワークは、自らの必要とする情報を集め、個々人を《カテゴリー化・類別化》し、「診断」を下す。過去に犯罪歴のある者、交通事故を起こした者、病歴のある者、破産したことがある者、特定の宗教を信仰している者、ある民族として生まれた者…。そういった「安全性」にとってリスクとなる《個人の痕跡》、《断片化・瞬間化された事柄、ほとんど墳末とさえいえる事柄を束ね上げ、少なくとも調整》し、《視野から逃れ去るものを可視化する》。

こうしたカテゴライズは、何をもたらすか。それはもちろん、「排除」である。出自や過去(病歴、学歴、犯罪歴)などは、典型的なスティグマである。北米の職場では、《薬物やアルコールの抜き打ち検査》が多いそうだ。それは、主に中毒や依存症に現在かかっていないかをチェックする。しかし、現在では「遺伝子スクリーニング」という技術も存在する。それは、《乳癌や卵巣・大腸・甲状腺・眼球・腎臓・皮膚の癌、ハンチントン病といった疾病の可能性》を判定したり、《職務中に有害物質に晒される影響の程度をチェック》したりできるそうだ。だが、このような技術によって「遺伝子」という、存在する以上切り離しようがないアイデンティティも立派なスティグマとなり得るようになったと彼は言う。ライアンは、ある53歳の男性が、保険会社の採用面接で、《自分は血色素沈着症の保因者だが発症はしていないと打ち明けた》ところ、《2回目の面接で、彼は、採用はされるが保険プランには加入できない》と告げられ、これに同意したうえで臨んだ3回目の面接で、《遺伝的状態を理由に不採用を告げられた》というエピソードを紹介し、カナダの先住民集団が《概して健康状態が不良だとされているし、他の集団と比べて収監率が高く、社会福祉への依存度も大きい》ことに対し、《これらの集団に対する遺伝的決定論や遺伝的アパルトヘイト》を懸念している。職場で重視されるのは、《もはや単に、資格や業務適性、面接での振る舞い》だけではく、《未来の潜在的な健康状態が今や、就職差別や隔離・類別化の根拠》となり得る。監視によってカテゴライズされるアイデンティティは、昇進や地位保全といった個人のライフ・チャンスに決定的な影響を与え、《個人を差別する手段ともなり得るのである》。

スーパー・パノプティコン

客観的な世界において、個人のアイデンティティを決めるのは、友人や家族の中にある生身の人間のイメージや共有された記憶ではない。そうではなく、属している集団の名前や社会階層、居住地域、買い物履歴などの「情報」なのである。古典的な監視装置であるパノプティコンは、絶えず注がれる他者からの視線に浸すことによって、ある性格をもったアイデンティティなり行動・思考様式を内在化させる作用がある。しかし、現在においては、《もはや、それらの旧来型のアプローチはもはや適切ではないと主張される》。そこで構築される《合理的・自律的な個人は、「人類学的不変項」ではなく、ひとつの構成彫物》にすぎない。たしかに、私たちは《自分が特定の主体的立場(学生・被雇用者・タクシー運転手・議長)に就くことを、日常的交渉の一部として無意識のうちに受け入れる》。パノプティコンとは、ある意味でそうした立場にふさわしいアイデンティティを固定させることを目的とする。だが、そのアイデンティティの構築作業は《決して完成せず、終結しない。アイデンティティが固定されたように見えるときでも、それは必ず、異議申し立て・再配置・抵抗に開かれている》。タクシー運転手であっても、気のおけない友人が偶然乗ってきたら、多少ラフな言葉遣いになるかもしれないし、知らない人であっても、偶然、趣味の話で意気投合するかもしれない。現代の「監視」は、むしろそうした主体の構築ではなく、自由な活動をする個人のアイデンティティの断片を拾い集めることで、その主体を構成する。例えば、「年収1000万円以上の人」とか、「旅行が趣味の人」といった属性をコンピューターのデータベース上に保存する。それらは、《アイデンティティを構成するデータの帰属先である個人》からを切り離なされた情報ではある。しかし、それらの断片は必要に応じて《再結合可能な状態》に留め置かれる。《データベースの中で増幅・脱中心化された主体は、当の個人への参照は決してなされぬまま、何らかの記録が別の記録と自動的に照合・チェックされる度ごとに、遠く離れたコンピューターによって起動される》。人々は、コンピューターのデータベース上では、《アイデンティティの分散した個人》とされているが、フィルターをかけていくことによってクロス集計され、ひとつの統合的な属性を与えられる。これをジャン・ボードリヤールは「ハイパーリアリティ」と呼び、マーク・ポスターは「スーパー・パノプティコン」と呼ぶ。《個人は新たな存在形態を獲得》するのである。

プライヴァシーとの相克

こうして個人は、自らの「情報」を断片的に収集され、自らのあずかり知らぬ場所である「属性」なり「アイデンティティ」を与えられる。ある者は、スティグマを抱えた者としてライフ・チャンスを奪われ、またある者は、魅力的な消費者として、企業の宣伝攻勢にうんざりさせられる。監視は、必然的に個人のプライヴァシーと相矛盾する関係にある。個人的に「プライヴァシー」という概念は、なかなかその本質をとらえがたい概念である。だがそれは、本書の文脈と合わせて考えれば、その人の「属性」や「嗜好」、「過去」、「行動」などに関する「情報」ととらえることから始まり、今やそうした「情報」をもとに自身のアイデンティティや自身に対する評価を勝手に構築されない権利と言うことができるだろう。「なりたい自分になる」という自己実現の欲求が人間にとって最高位の欲求であるとすれば、その自己に対するイメージを勝手に構築されることは、たしかに文学的な正当性をもつ権利の侵害となるだろう。だから、人々は知らない企業からダイレクトメールが送られてきたり、勧誘電話がかかってきたり、世論調査員が自宅を訪れてきたりすると、不快感や不安感を覚えたりする(少なくとも迷惑には感じる)。そうした「知られていることに対する薄気味悪さ」に抵抗しようと、《要求された情報の提供―例えば、会員登録や保証書》を拒否したりする。そうした感覚は、やがて社会の人々に共有され始め、異議を申し立てる社会運動へと発展していく。それはベックがサブ・ポリティクスと呼んだもので、社会的な影響力は無視できないものとなっている。実際に、カナダのケベック州では、1980年代の中頃に、《公共部門よりも民間部門の方が市民のデータを多量に保持・取引しているという証拠》を提出し、《民間運営の個人データベースの実態》を暴き出した。これによって、《1990年代初頭までには、民間部門によるデータ取引に法的制限が》課されるに至り、《多くの司法組織が、こうしたシステムに適用されるプライヴァシー関連法の制定に向けて動いている》。

監視への服従:安全性・セキュリティー・利便性

だが、ライアンは《1990年代を通じて、民間部門の個人データベースは、〔…〕むしろ以前にも増す勢いで発展した》と述べ、《監視社会の類別的コードに挑む社会運動のサブポリティカルな戦術の考察も、理論面では素晴らしく響くが、しかし、現時点で極めて有望な根拠を与えてくれているとは言えない》と悲観的な態度を取る。私たちが今まで見てきたような描き方をすれば、「監視」とは相互不信の象徴であり、自由を侵害するものであるように思える。彼は《人類は常にお互いを見張り合ってきたし、それによって、危険を回避すると同時に不安を誘発してきた。だが、近代以前には、その規模は概して小さく、警戒も体系化されていなかった》と述べ、日常生活が《史上例を見ないほど綿密にモニターされている》現状について、《統治や管理のプロセスにおいて通信情報テクノロジーに依拠する社会はすべからく監視社会といえる》と言う。だからそれは、実際に正しいだろう。

しかし、ライアンはそうした見方を《資本家や官僚組織の悪意に満ちたパノプティコン的権力といったパラノイア的理論》と評し、《たとえ技術的にはそうなる可能性があり、そして、そうした潜在的傾向性を安易に看過すべきではない》としても、《監視社会は全体主義的ではない》と主張する。それは何故だろうか?その答えを私たちは、実はもう既に垣間見ている。

それは、「監視」が《安全性・セキュリティー・利便性》に貢献するからにほからならない。人々の管理を実現するための、野心に満ちた不気味なまなざし。それは、たしかに「監視」が見える表情のひとつである。しかし、「監視」がもつ顔はそれだけではない。彼は《監視には2つの顔がある》と言う。冒頭で述べたように、監視〔Surveillance〕は、「上から見張る〔watch over〕ことを意味する。この言葉は、《子供が道路に迷い出て車に轢かれないよう「見張って」いてくれと頼む」の場合》にも使うことができる。この場合、念頭にあるのは《何よりも保護ということ、子供が元気な状態で目を配られているようにするということ》である。

個人のプライヴァシーが問題となるのは、社会が「管理」を必要とするからである。しかし、それは個々人を同質化させようとする意図ではなく、逆に個人が個人として認識されるようになったからである。近代以前の社会においては、個人は個体としての輪郭をもたず、《家族・氏族・都市》の一部としか認識されていなかった。財産は基本的に「家」の単位で所有・相続され、家長でない者・家長になれない者にはたいした財産もなかった。女性や社会の大多数を占める庶民には選挙権などの権利は認められていなかった。共同体は成員の意思決定や行動に介入することは当然のこととされていたから、プライヴァシーはなかったし、その侵害も問題にはならなかったのである。だが、近代以降は《資本主義と国民国家を構成する「主権者としての個人」》を決して無視できなくなる。夫婦間・親子間といえども原則として別の主体であり、勝手に財産を使うことは許されないし、選挙の代理投票も無効である。個人は生存権という基本的人権を認められるから、社会保障制度を利用することができる。個人の権利は尊重されるから、人々は納税や遵法などの義務を負う。だからこそ権利主体となる個人は、正確に弁別されなければならなくなる。なぜなら、親戚が勝手に土地を売ったり、親が勝手に自分の支持しない候補者に投票したりしたら困るし、家族の中の誰かが起こした事件の容疑者として自分が逮捕されてしまうことは甘受しがたい。同じ村に住んでいるからといって、他人が滞納した税金を払うことはできない相談だし、行政は給付金の不正受給を決して許さぬよう厳しい視線を送られる。だから、《医療記録・有権者名簿・不動産登録・納税台帳・被雇用者番号》などを用いることで、《各自の個人としてのアイデンティティ》を確立することが必要となる。そして、これらは実際に、《給付や権利の適格性・有資格性の証拠を与えることで近代的な生活を促進》すると彼は言うのである。

私たちが生きるうえでのリスクが増し、そして不確実になるほど、そのリスクへの対抗策としてさまざまな情報が利用される。私たちは、《日没後も心配なく街路を歩ける》よう願い、《市街地から無謀なスピード運転が排除されて安堵》する。《火事の発生や泥棒の侵入の際、直ちに警報が発せられる》ことを望み、テロに巻き込まれて死ぬことを最大の悲劇と考える。こうした市民的感情に対し、《多くの監視活動や監視装置は、都市生活を何らかの面で改善するためのものであり、そのようなものとして歓迎される》。《労働者は、ボーナスや達成度を判定する何らかの形式のモニタリング次第で自分の給与や昇進が決まるとなれば、監督されている方がされていないよりもよいと考えるだろう。産後で入院中の母親たちも、新生児を誘拐から守る電子標識システムを歓迎するだろう》。これは、《監視の力の肯定的で生産的な面である》ことは否定し得ない。この強力なメリットがあるからこそ、私たちは日常生活における「監視」の副作用を受け入れ、《社会的秩序編成》のため、《共犯関係》を結び、《社会的オーケストレーション》を共に奏でる。だからそれは、《軽視したり無視したり》するべきではない側面なのである。

リスク社会において、「監視」の論理を粉微塵に破壊することはできない。だからこそ、問題は《収入・ジェンダー・民族・宗教にもとづく既存の分割》に与える影響を解明し、それを《倫理的・政治的な行動》に結びつけていくことである。

監視社会における正義

それでは、今ある監視社会において、法と倫理は何を求めていくべきなのか。ライアンはその答えを個人の《再‐身体化》という言葉で表す。それはつまり、情報によって構築された像ではなく、《生身の個人》と対峙することにほかならない。個々人のコミュニケーションは《信頼関係の中での自発的な自己開示》が出発点に据えられなければならない。スティグマを告白しようともそれだけでは排除されず、自ら望むからこそメールマガジンの提供を受ける。

またそこには、必然的にもうひとつの基軸原理である《他者への配慮》が必要となる。この点、彼は特に《見知らぬ者たちの社会、監視によって否定的側面を電子的に激化させられた状況にあって、他者への配慮は徹底して再強調されなければならない》と述べ、その重要性を強調する。《他者への配慮》は、《不適格な者を僅かな基準にもとづいて排除する》という態度と真逆の態度であり、《見知らぬ者に居場所と歓待を与えようとすること》にほかならない。それは、《人間性の根源的要求》であり、《人間は本質的に社会的だという議論からの帰結》である。この倫理は、《市民・消費者・システム設計者・政策立案者》のそれぞれが熟慮し、そして共有されなければならない。その先にこそ《統計的規範への功利主義的強迫観念》を乗り越える光が見えてくる。《人間が生身の個人として理解される場所、抽象的コミュニケーションよりも面と向かっての関係が、自動的な類別化よりも正義が、そして、技術的な要請よりも共同の関係性が優先される場所、そこにこそ希望の強い兆しがある》のだ。

再帰的近代化としての監視社会

以上に見てきたように、本書は個人にまつわるあらゆる情報(データ)が日常の中で当たり前のように収集され、それによって個人のライフ・チャンスなどが良くも悪くも影響を受ける、監視社会の様を分析した1冊であった。本書の原書が刊行されたのは2001年であった。奇しくもその年は、国家間の闘争だけではない、新たな闘争主体が現前していることを象徴する出来事が起こった年であった。その後、現在に至るまで「脅威」は衰えることなく存在し続け、私たちは「いつ起こるとも知れない」テロ(あるいは戦争)への不安の中に放り出されたままになっている。国家は機密情報の秘匿を強め、代わりに人々の情報開示をいっそう強く求めるようになっている。それは、自身の組織を使うだけではなく、Googleなどの企業にメール内容の開示を求めたり、スマートフォンのロック解除を要請したりするようにもなっている。古典的な監視については、やはり緩められるどころかむしろ強化されているようだ。

監視社会は、何故生まれたのか?その答えは、本書でライアンが言っていたように、国家や資本主義の野心だけで生まれたわけではない。それは、「安全性・セキュリティー・利便性」を求める近代化が究極まで突き詰められた結果なのである。近代的な官僚制による行政統治は、《個人データの収集・記録に依拠》しており、資本主義企業も《効率性と利潤を高めるべく、前代未聞の規模で従業員をモニターし、監督》する。つまり、この領域での近代性とは、《権力を産出・維持するに当たって情報と知識に頼ること》なのである。従来の監視=記録は、紙の帳簿に書き込まれ、再結合するには多大な労力をかけて、人間の手で名前を検索する必要があり、また、そのためには帳簿を移動させなければならなかった。しかし、データベース上で情報が管理されれば、そうした作業はクリックひとつでできるようになる。そして、データの収集が自動化(巡回監視システム、利用者による登録作業など)されることによって《諸組織が個人の生に向ける注視―つまり、「監視」―が次第にルーティン化・システム化・強化》される。《データベースは書くことに新たな流動性(空間的に転送可能)と持続性(時間的に保存可能)を付加する》。しかし、その行為の本質は変わらない。なんらかのリスクに対抗しようとしたテクノロジーが、別の新たなリスクの原因となる。それはリスク社会、そして、再帰的近代としての現在の特徴である。テクノロジーは、完璧な解答を与えてはくれない。技術と人間の主従を逆転せぬよう、自身が疎外されることがないよう、テクノロジーを管理するのは人間しかいない。そして、強大な力の暴走を止められるのもやはり人間だけである。サブポリティカルな領域が力を発揮できるのは、合理的な理論をもってではなく、文学的な共感を集めて対抗するときだろう。いかなる人間も理屈の力には勝つことはできない。しかし、ときに情動が理屈を退けることがある。愚かな民となるか、それとも人間味ある正義を守ることに繋がるか。それも場合によりけりだ。しかし、他者の意志のままに構築される世界に生きることは、民主的でもなければ、味気もない。自らの理性や直感は、あらゆる類の「監視」をどう位置づけ、そして評価するのか。それを見定めて、はじめて、監視社会を修正する気力が湧いてくるのだろう。

参考文献

  • デイヴィッド・ライアン著『監視社会』、河村一郎 訳、青土社、2002.11(原書:2001)、全309ページ

自己紹介

自分の写真

yama

大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

このブログを検索

QooQ