J.S.ミル(1859年)『自由論』

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哲学・思想

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紹介文

少数の権力者が、民衆を力ずくで従わせる時代は終わった。しかしそれは、個人にとって「専制政治」が終わったことと同義ではない。本書の著者J.S.ミルはそう考える。彼は、「1人の君主が大衆を黙らせるのはもちろん不当だが、世論がこぞって個人を黙らせるのはもっと不当である」と考え、《個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界》について論じる。ミルは、今でいう「思想の自由」や「幸福追求の自由」、「団結の自由」といった自由を絶対に守られるべき自由として挙げる。だが、本書で重要なのは、それが絶対に守られるべき「理由」の方である。「意見の多様性」はなぜ大事なのか。個人の自由が制限されるとき、それはなぜ正当と言えるのか。そして、ミルにとっての理想の社会とはどんな社会で、彼の生きた社会には何が欠け、そして現在の社会はどの程度彼の理想に近づいたのか。憲法に掲げられた「当たり前」を問い直す原点となる1冊。

本書の概要:「社会」の個人に対する権利とその限界

本書の著者、ジョン・スチュアート・ミルによれば、本書が公刊された1859年までには《支配者が国民の利益に対立し、国民と無縁の権力であるのが自然で必然的なこととされていた時代》は終わり、イギリス社会は《支配者の利害と意志は、そのまま国民の利害と意志》となるべき時代を迎えていたという。国家権力は、《社会の同意》の具体的なかたちである「憲法」によってその行動を規制され、その同意に反した行いをした場合には《それにたいしてなら限定的な反抗も、さらには全面的な反乱も正当化される》とした「抵抗権」が法理論的に確立された。そのような中で、本書で彼は《個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界》について論じている。

それは、たしかに「国王」による圧政の可能性を封じることには成功したが、「国民」自身による権力の乱用に対する懸念は、いまだに払拭されていなかったからである。彼は、《権力を行使する「人民」は、権力を行使される「人民」と、必ずしも同じではない》と述べ、さらに《「自治」とは、自分が自分を統治することではなく、自分が自分以外の全体によって統治されることなのだ》と言う。それはつまり、《多数派の思想や感情による抑圧》に対する防御であり、《多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なる人々に、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押しつけるような社会の傾向》への対策である。

社会には、法律や習慣、道徳などのかたちでさまざまな規則(ルール)が存在している。その規則は、有形・無形を問わず、その集団の各々に受け入れられ、共有されることで効力を発揮する。賞賛すべきもの、非難すべきもの、寛容であるべきもの、窘めるべきもの…。ある行為や言動が、これらのうちどれに当てはまるのかを判断する基準は、個々人でさまざまであるが、それには、《理性》もあれば、《偏見》や《迷信》もある。《人間の社会的な感情》もあれば、《羨望や嫉妬、傲慢や軽蔑といった反社会的な感情》もある。この基準を決めるのは、《各人が守ろうとする自己利益》がその根源であり、より単純に言えば《好き嫌いの感情》に収束していく。このようにミルは、《社会全体、あるいはその有力な部分に拡がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役なのである》と述べ、社会的規則は、実は難攻不落の論理に裏打ちされているわけではないとの考えを示す。

ミルの自由主義:絶対に守られるべき3つの自由

ミルはこの考えにもとづき、人々の自由に関してひとつの原則を打ち立てる。それが、人は《他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由》を有するという原則である。彼は、《個人の行為において、ほかの人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない》という留保を与えつつも、《自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者なのである》と述べ、《個人の私生活と私的な行為の部分》といった《自分にしか影響を与えない部分》についての自由は絶対的に保護されるべきだと主張する。この《自分にしか影響を与えない部分》について、ミルは3点を挙げる。1つ目は、《科学や道徳や宗教の、実践的もしくは思弁的な、あらゆる問題について、意見と感想の絶対的な自由》である。これは、「思想・良心の自由」や「言論(や出版)の自由」と言うことができる。2つ目は《自分の性格に合った人生を設計する自由》であり、《好き嫌いの自由、目的追求の自由》である。3つ目は、十分な判断能力を有していること、《強要されたり、だまされたりもしていないこと》を前提とした、《個人どうしの団結の自由》である(これは「結社の自由」にあたるだろう)。彼は、《人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ》と述べ、《こうした自由が大体において尊重される社会でなければ、そこは、どのような政治体制をとっていようとも、けっして自由な社会ではない。また、こうした自由が絶対的に無条件で存在する社会でなければ、そこはけっして完全に自由な社会ではない》と言う。では、彼がこのように考える理由はどこにあるのだろうか。

真理に到達する方法:思想の自由、言論の自由

ミルが《民衆が、民衆自身によってであれ政府を介してであれ、言論を統制する強制力を行使する権利をもっているとは絶対に思わない》と考えるのは、先程のような自由を保証することが個人の幸福や理性の発達、そして社会の進歩に貢献すると考えるからである。世の中には、税負担、環境問題、紛争・人道問題、治安、教育などさまざまな社会的な事柄に、数多くの意見が存在する。そして、その意見に対し、人は正誤の判断を下す。彼が問題にしたいのは、この正誤に至る過程についてである。数学、物理学、化学など自然科学に属するものについては、《間違っている側に釈明の余地》は存在せず、真理はひとつしか存在しない。いっぽう、《道徳、宗教、政治、社会関係、そして実生活の問題》はそれよりもはるかに複雑な問題であり、議論の余地が生まれる。だが、ミルは真理に到達する方法、あるいは少なくとも、自信をもってその意見を主張できるようになる方法はひとつしかないと考える。

それは、《さまざまに異なる意見をすべて聞き、ものの見え方をあらゆる観点から調べつくすという方法》にほかならない。ミルの見立てでは、《ひとつの意見を弁護する言葉の4分の3が、自分と異なる意見の積極面を否定することに費やされる》。全知全能でない人間は、そのような吟味の中で《どんな反対意見にも耳を傾け、正しいと思われる部分はできるだけ受け入れ、誤っている部分についてはどこが誤りなのかを自分でも考え、できればほかの人にも説明すること》を習慣とすることによってしか、《自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない》。

だが、たいていの人はほとんどの事柄について、そうした過程をすっ飛ばしてしまっている。だから、人は自分の判断や意見の正しさについて確固たる自信をもつことができない。そして、そうであるからこそ、批判や孤立、論破されることを恐れ、自らの思考を停止し、周囲の人々の意見を《絶対的に信頼してしまう》ようになる。信頼はやがて思考様式の習慣となり、人はそれについての疑いを抱こうとも思わなくなる。そして人は、《疑わしいと思わなくなったことがらについては、考えるのをやめたがる》。その螺旋が永遠に続くことによって、その見解は触れてはならぬタブーとなっていく。

社会が停滞するとき、そこには必ずそうした桎梏が存在する。しかし、そうした軛は社会の進歩を阻害する。ミルにとって、「進歩」とは、《真理が積み重なっていくこと》にほかならない。誰かが自分の立場に依拠して、自らの主張を声高に叫ぶ。しかしそれは、たかだか、自分の所属する集団、団体、階級にとっての利益にすぎず、社会にとっては善のほんの断片でしかない。

社会には、2つの原因から、論争の起こらない、安定と停滞の時期がある。ひとつは、《ある意見が、いかなる反論によっても論破されなかったがゆえに正しいと想定される場合》。もうひとつは、《そもそも論破を許さないためにあらかじめ正しいと想定されている場合》である。だが、この2つの状況は現象としては似ていても、その意味合いはまるで違う。前者は進歩の結果、《もはや論争も疑念も生じさせない学説》が登場し、深刻な論争が集結した結果である。それは、積み重なった真理が束ねられ、ひとつに収束していく、《必然的な現象》にほかならない。ミルは、《人類の幸福度は、反論の余地のない段階に適した真理の数と重さによって測られる、と言ってよいだろう》と考える。そこには、ある種の「秩序」があると言ってもいい。

これに対し、後者の場合は、《部分的で不完全な真理が、別のやはり部分的で不完全な真理に置き換わるだけ》なのだと彼は言う。「改善」と呼ばれている現象は、「進歩」と同義語ではなく、《新しい真理の断片が、以前のものより求める声が大きく、時代のニーズに合うので、以前のものと入れ替わることを指す》だけである。それはいわば、権力と時代の主導権を争う闘争であり、力の均衡や歴然とした差によってもたらされる脆い「秩序」でしかない。だが、そんな「秩序」であれば、社会にとっては「有害」であるとミルは考え、むしろ激しい衝突が起こるべきであると主張する。そういう衝突は、自らの立場を崩す用意がない限り、衝突している当人たちにとっては、ただ自らの疲弊させ、敗北と屈服という屈辱のリスクを背負っているだけの闘いではあるが、それでも、《もっと冷静でどちらの側にもつかない傍観者》にとっては、真理へ至るための論理と発想のかけらが勝手に生産されていくのだから、《益をもたらす》ことになる。

だから、ある見解を余すところなく吟味するためには、《意見の多様性》が必要である。しかもそれは、《極端な場合》であっても禁止すべきではない「絶対的なもの」でなければならないと彼は言う。これは《意見の発表を封ずるのは特別に有害なのだ》という主張につながるわけだが、彼がそう考えるのは、《人類全体、つまり、その時代の人々だけでなく、後の時代の人々にも害を及ぼす》からである。彼はそもそも、ある仮説、ある見解は、完全な0か100だけではなく、みなある程度の正しさを有していると考える。そうした意見の「正しさ」に点数をつけるとすれば、大きく分けて0、1~99、100の3つの場合が考えられる。ある意見の「正しさ」が100である場合、そうした意見の発表が封じられれば、当然、社会は間違った考えにもとづいた、間違った行動を取ることにより、本来得られるはずの利益を得られないわけだから、損をすることになる。それが、1~99の場合、正しい部分を吸収してより真実に近づくための修正をする機会を失うわけだから、やはり損害が生じる。ここまではいいが、0の場合はどうだろうか。

この点、彼はそれが全く間違っていたとしても、《間違いとぶつかりあうことによって、真理はますますクリアに認識され、ますます生き生きと心に刻まれる》ようになる機会を得られるのだから、やはりある程度の利益を吸い出すことはできるととらえる。みんなが思考停止し、自分の主義の意味が分からなくなったとき、その意見は《偏見と変わらないもの》となり、信条は《単なる標語にすぎなくなる》。それは、《人間を育てるどころか、人間の成長》を妨げ、《理性や個人的体験から、本当の心の底からの確信が育つのを妨げる》。自らの思考を停止し、安寧に阿るのは、《人間のどうしようもない性向》であり、《人間の過ちの半分はそれが原因だ》とミルは考える。しかし、ひとつの宗教的共同体としてではなく、知性ある市民社会のひとりとして生きるうえでは、そのような性向に抗わなければならない。大切なのは、《自分なりの意見を支える根拠を学んでいくこと》であり、少なくとも《普通の反対意見にたいして、きちんと自己弁護》できるくらいの知性を育もうとする態度である。それは、《少数の賢い人間》だけの特権にすべきではなく、大衆もまたそうした態度を身につけるべきであるとミルは考えるのである。そしてそれゆえに、「1人の権力者がほかの全員を力ずくで黙らせるのはもちろん不当だが、世論が団結して1人を黙らせることはもっと有害だ」と彼は主張するのだ。

個性の自由な発展:個人の幸福と社会の発展の根源

この《意見の多様性》を重視する態度から導かれる帰結として、ミルは《自分の責任でなされるかぎり、周囲の誰からも、肉体的にも精神的にも妨害されず、自分の意見を自分の生活において実行に移す》自由が認められてしかるべきと考える。これは、本文で用いられる言葉を使えば、《個性》と言い換えることができる。個性とは、自分自身から湧き出る《欲望と衝動》のことであり、それは取りも直さず、自分にとって最高の状態を思い描くうえで基盤となる、価値の与え方を意味する。彼は、《蒸気機関が人間としての性格をもたないのと同様、欲望と衝動が自分自身のものでない人は、何の性格ももたない》と言う。自分の人生の指針を《世間や自分の周辺の人々に選んでもらうのであれば、猿のような模倣能力のほかには何の能力も必要ない》。個性とは《人間として成長すること》であり《個性を育ててこそ、十分に発達した人間が生まれる、あるいは生まれる可能性がある》。何を成長させるかと言えば、それは《ものごとを眺める観察力、ものごとを予測する推理力と判断力、ものごとを決めるために必要な材料を集める行動力、ものごとを決める分別力、そして、決めた後には、熟考の成果であるその決定を守り抜く堅固な精神力と自制力》である。こうした能力を育て、また用いることは、たしかに多大な労力を要することではある。しかし、そうした≪エネルギー≫が自らの奥底から湧いて出る人は、活力があり、≪自然な感性が豊かな人≫でいられる。それは、≪人間を幸せにする主要な要素≫であり、それが自分の外部にしかない人は、≪無気力で無感動な人≫のままである。自然な感性が豊かでなければ、≪洗練された感性≫を豊かにすることもできない。洗練された感性のことをミルは、≪感受性≫と言い換えているが、強い感受性は、≪個人の内的衝動を強め高揚させるが、それは同時に、美徳を熱烈に愛する気持ちと、自分を厳しく制御できる精神力を生む源にもなる≫。個性は発達すればするほど、≪各人の価値は、本人にとっても、ほかの人々にとっても、ますます高く≫なり、≪自分自身の存在において、ますます活力の充実≫が感じられるようになる。

自らに肯き、誇りをもって生きることが人生の充実につながることは、後の世の心理学的な観点からも事実であるが、そうした強い個性を育むことができた人の中には、やがて「天才」と呼ばれる人が出てくる。ミルの言う「天才」とは、単に絵や詩をつくる技巧に長けているというだけではなく、≪思想や行動における独創性≫をもった人のことである。≪独創性≫は、社会に新たな風を吹き込み、社会を進歩させる。だから、個性を自由に発展させることは、社会にとっても有益なことであり、≪個の単位≫に活気があふれている社会だけに、≪それを集めた全体にも活気がみなぎる≫ことになる。個性の自由な発展は、≪文明・知識・教育・教養といった言葉であらわされるものと並ぶひとつの要素≫だけではなく、≪そのすべてに必要な要素であり、必要な条件≫である。≪誰もがその人間性を存分に発揮できるようにするためには、誰もがそれぞれ違った生き方をするのを認めなければならない≫。≪人々に個性が残されているかぎり、専制政治でさえ最悪の結果≫は生まず、≪それが広く許容された時代ほど、後においても、注目に値する時代だったとされてきた≫。逆に、≪個性を押しつぶすような体制は、どんな美名で呼ばれようと、また神の意志を実行するのだと主張しようと、人民の命令を実行するのだと主張しようと、専制政治≫なのだとミルは考える。

「自由」が制限されるとき①:「奴隷になる自由」と判断力

だがミルは、無限の自由を認めているわけではない。冒頭で述べたように、必要なのは≪自由と社会的統制のあいだの境界≫の調整である。まず第1に、奴隷となる自由、つまり、≪自由を放棄する自由≫は認められない。ミルは、個人が主体的に選択した行動は、≪それが本人にとって望ましいもの、あるいは少なくとも我慢できるものだった≫という前提を立て、≪人がもっとも幸福になれるのは、全体として、その幸福の追求手段をその人が自分で選択できるときである≫と述べる。この考えにもとづけば、自らを奴隷として売り渡すときには、≪そのときの1回きりの行為によって、将来における自由の行使をすべて放棄する≫ことになる。それは、≪自分の生き方は自分で勝手に決めてよいとする正当性の根拠そのものを、その人は自分で打ち砕いてしまう≫ことになり、自己矛盾に陥るから認められない。

しかし、この論理からすれば、ある意味でミルは「幸福というものは他人に頼ってはならず、自分だけで確立していかなければならない」という厳しい態度をとっているようにも見える。彼は、≪他人に害が及ばないかぎり、個人の主体的な行為に干渉すべきではない。本人の自由を尊重すべきだからである≫と言う。そうであれば、事実上、本人の意に反しているにもかかわらず、あたかも本人の自発的な選択であるかのように誰かが見せかけているのであれば別だが、そうでなければ、「奴隷になることが自らの幸福を追求するうえでの最良の手段である」と当人が主張する限り、自らの「幸福追求権」を行使しているにすぎないから、ミルの主張はその人を説得する力をもたないことになってしまう。そのうえ彼は、≪災難が確実をものではなく、その恐れがあるだけの場合、その人には危険を警告するにとどめるべきだ、と私は考える。その人が自分で危険に向かっていくのを強制的に阻止したりすべきでない≫とすら言う。

この点、ミルは本文中でなにかを言っているわけではない。しかし、その中であえて「奴隷になる自由」を否定する立場をとるとき、当人の「判断力」や「思考力」といったものがポイントとなる。ミルは先に挙げた、誰かがあえて危険に向かう状況で、例外的にその人を止められる状況を2つ挙げている。ひとつは、例えば、≪絶対に危険だとわかっている橋を人が渡ろうとしているのを目撃し、警告する余裕もないとき≫である。なぜなら、≪自由とは、本人が望むことをすることであり、橋を渡る人は川に落ちることを望んでいないから≫だ。しかし、この論拠では本人が主観的に望んでいることを打ち消すだけの説得力はもたない。そこでもうひとつの状況、つまり≪その人が子どもでもなく、狂乱状態でもなく、また思考力がちゃんと働かないほどの興奮状態や没我状態でもない≫場合が出てくる。この理屈が有効になるためには、「奴隷になることは必ず、不幸になる」、つまり「奴隷になることで、幸せになれると思っているかもしれないが、いつかそれを後悔するときが来る」と言えなければならない。文学や歴史に鑑みて、それが真実だと確信しているならば、分別ある忠告として、ミルの主張は筋が通ることになる。もちろんミルは、人々が気づいているか否かにかかわらず、「自己の個性を発揮することがその人にとって、最もイキイキできる」と主張しているのだから、この話は、論理的整合性が整っていることになる。

「自由」が制限されるとき②:権利侵害、義務の不履行と非道徳

そのほかに個人の自由が制限されるのは、≪正当な理由なしに他人に害を与える≫とき、≪相手の利益を侵害≫するとき、つまりひとことで言えば、≪他人に迷惑≫をかけるときである。この場合、その個人は法的、つまり行政的権力によって、身体的・金銭的な制裁を受けることになる。例えば、穀物商は貧乏人を餓死させるとか、私有財産は盗みであるといった意見でも、≪出版物をとおして流布するだけなら、妨害されるべきではない≫とミルは言う。しかし、≪穀物商の家の前に集まって興奮している群衆にそういう演説をしたり、この群衆にプラカードの形でアピールしたりするのは、罰せられるのが当然≫と彼は考える。この原則は、既に起こってしまったことだけではなく、これから起ころうとしていることについても有効で、例えば目の前で犯罪が行われようとしている場合には、≪警察官であれ民間人であれ、その犯罪が実行されるまで何もせず、傍観していなければならないわけではなく、犯罪を防ぐために干渉してもかまわない≫。

また、社会的な義務を果たさない場合も同様に、個人は制裁を受ける。彼は、≪社会とその構成員を危害や攻撃から守るため、それに必要な労働や犠牲を(何らかの公平の原則にもとづいて)全員で分担すること≫が必要であると考え、社会には、当然のこととして、≪これらの義務を全体に強制≫することが可能で、それを守ろうとしない者にたいしては、≪どんな罰を加えてもよい≫と述べる。この2つが、自由を行使するにあたって守らねばならない2つの原則であり、法的に自由が制限される2つの場合である。

しかし、社会が個人になし得るとミルが考えているのは、それだけではない。彼は、社会は社会を守るため、≪社会による制裁≫を科すことができると考える。≪社会による制裁≫とは、すなわち≪世論による非難≫や≪周囲の人々の不快感≫のことである。この制裁の対象となるのは≪法に定められた他人の権利を侵害するまでにはいたらなくても、他人を傷つける、あるいは他人にたいする思いやりを欠いたもの≫である。具体的には、≪他人との取り引きで嘘や二枚舌を用いること、他人にたいする優位を卑劣にも乱用すること、そして、他人を救助できるのに自分の利己心ゆえ手を出さないでいること≫などである。ミルは、これらの行為そのものだけではなく、≪そうした行為を引き起こすような個人の性格≫もまた、≪すべて道徳的に非難されてしかるべき≫と考える。≪残忍な性格、邪悪で邪険な性格、あらゆる情念のうちでもっとも反社会的で嫌悪すべき嫉妬心、偽善と不誠実、ちょっとしたことで激しく怒ったり恨んだりする性格、他人を自分の言いなりにしようとする支配欲、自分の取り分以上のものを奪おうとする独占欲(ギリシャ語でいえばプレオネクシア[貪欲])、他人が失墜するのを見て満足する優越心、自分自身や自分の関心事を何よりも優先し、できれば何でも自分に都合良く決めたいエゴイズム―これらはすべて道徳に反し、社会的に嫌悪されるべき悪い性格≫であるとし、法的に裁くことはできずとも、社会は正当に非難することができる。逆に、これらの条件にあてはまることがなければ、社会は制裁を科したり、悪評を立てたりすることは不当である。

では、「個人がなし得ることの全体」から「社会の科す義務」と「他人に迷惑をかける行為」、「道徳的に非難されること」を差し引けば、それで「個人ができること」となるだろうか。ミルの論理から言えば、その帰結として、個人は自分のしたいことをする自由と引き換えに、自身の性格や行為による≪結果の責任を自分で引き受ける自由≫を負うことになる。だがそれは、裏を返せばリスクをはらんだものにもなり得る。とりわけ、自分で事業を興そうとする場合には、成功すれば安泰だが、失敗すればとたんに転落してしまう。ゼロ・サム・ゲームは、勝者と敗者がくっきりと分かれる。なんらかの理由で損害を受けたとき、≪粗悪品の詐欺的な販売の防止≫や≪危険な仕事に従事する労働者のための衛生管理や保護設備≫といった≪ただ、勝った側が社会全体の利益に反する許しがたい手段を用いて勝ったとき、すなわち、詐欺や裏切り、そして暴力によって勝利を得たときだけ≫救済措置がある。しかし基本的には、≪競争に負けた側にこうした苦しみから免れる権利を、法的にも社会的にも認めていない≫とミルは論じる。この点、ミルは所得の再分配などの社会システムに言及しているわけではないが、≪私は決して、他人の生活や行為に関心をもつべきではないとか、自分にとって損にも得にもならないのであれば、他人の善行や幸福など気にかけるべきではない、と主張するものではない。他人の幸福を増進するために、われわれが私心なく努力する必要は、減少しているどころか、大幅に増大している≫とは言っている。これは、曖昧なかたちではあるが、暗に社会的な「救済措置」を認めるべきであると主張していると解釈することもできる。

自発的活動の推奨:「小さな政府」主義

政府や社会と個人との関係は、個人の行動を制限する場合だけではなく、逆にそれを支援しようとする場合も考えられる。この点、ミルは≪自由の侵害には当たらなさそうな≫場合でも、≪政府の干渉には反対≫という立場を採っている。その理由は、(1)効率性、(2)自己陶冶の機会確保、(3)官僚主義の防止の3点にある。(1)効率性というのは、ようするに≪どんな事業でも、それを運営すること、あるいはその運営方針や運営する人間を決めることについては、その事業に個人的な利害がある人ほど適任の人はいない≫ということである。また人は、自分の直接的な損害を避け、利益を得ようとするときにこそ、≪個人の活動力を高め、判断力をきたえ、ものごとの処理をまかせて問題に精通≫できるものだから、それはすなわち(2)自己陶冶の機会となり、国民の成長をうながすことにつながる。

しかし、この2つの理由は3つのうち最大のものではない。最も大きな理由は、(3)官僚主義の防止にある。ミルは、≪政府の権力を不必要に拡大すると弊害も深刻になる≫と言う。政府が介入する分野が広がれば広がるほど、≪国民の希望や不安≫への影響力は増大していき、≪国民のうちで活動力と野心をそなえた者たちはだんだん政府や、あるいは次の政権を狙う政党の手下になっていく≫。社会のしごとのうち、≪組織的な連携と総合的な配慮を必要とする部分はすべて政府が管理する≫ようになれば、≪政府の各機関に最高に有能な人間ばかり≫が集まり、≪純然たる学者を除き、教養のある人間、実践的知識をそなえた人間は全員、大きな官僚組織にゆだ集められることになる≫。そうなれば、≪それ以外の人々は、万事をこの官僚組織に委ねる≫しかなくなり、≪大衆は自分が何をしたらいいかまで、すべてお役所からの指示と指導を待つようになる≫。官僚の内部では、その中での昇進だけが野心を満たす唯一の手段となり、社会に対して責任ある仕事をしなくなる。このような体制の下では、≪官僚の仕事ぶりを批判したり、チェックすることができる人間≫は外部に存在せず、≪改革の意欲をもった指導者が頂点に立ったとしても、官僚組織の利益に反するような改革≫は決して実行できなくなる。このような弊害は、ミルの理想とする多様性や国民の「市民」としての成長を大きく阻害するものだから、ミルは小さな政府を主張するのである。

ミルの妥協と本音:いつの日か来る、理想の市民社会へ向けて(今はこれが精一杯)

以上が、本書におけるミルの主張の要点である。しかし、そもそもなぜ、ミルはこのような本を書こうと思ったのであろうか。その理由は、本書のあちらこちらで散見することができる。≪現代における世論には、ひとつの特徴的な傾向がある。それは個性を露骨に発揮することには、とくに不寛容であろうとする傾向である≫。≪今日では、社会のほうが個性をかなり圧している。そして、人間性を脅かしているのは、個人の衝動や好みの過剰ではなく、それが足りないことなのである≫といった文言を見れば、当時≪画一化の傾向≫が進行していて、ミルがその害悪を危惧し、そういった状況を打破しようとしていたことは手に取るように伝わってくる。ミルが自負していたような≪イギリスその他の自由な国≫においては、≪世論による国家の支配が完全に確立≫していた。市民は少数の≪社会的地位が高い人≫がその地位の高さゆえに自分たちの意見を無視する横暴さからは解放されたが、今度はそれが≪数の支配≫を生み出し、≪知性も平凡だし、好みも平凡≫な≪平均的な人間≫は、≪何か普通じゃないことをしたがる強烈な趣味や願望をもっている人間を理解することができず、全員を、自分たちがつねつね軽蔑している粗野で不謹慎な連中の同類と見なす≫。それは世評だけではなく、裁判の場でさえ現れ、≪その人の日常生活がことこまかに詮索され、鑑識力と説明力が最低の者によって鑑定され、まったくの平凡さから少しでも異なるように見えたものは、すべて精神異常の証拠≫とされる。そして、≪証人に負けず劣らず低俗で無知≫な陪審員は、しばしば誤った判断へと導かれ、≪本当にぞっとするような、とんでもない証拠立てによって、人が禁治産を宣告されたり、その人が死んだ後でも、財産の処分に関する遺言≫が取り消されたりする。ミルはそんな中≪現代人は、精神が束縛されている。娯楽でさえ、みんなに合わせることを第1に考える。大勢の人にまぎれたがる。何かを選ぶ場合にも、世間でふつうとされているもののなかからしか選ばない。変わった趣味や、エキセントリックな行為は、犯罪と同様に遠ざける≫と言う。だが、みんながみんなそういう人間である社会に未来などない、とミルは断言する。≪小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがない≫。それを自覚せずに、≪国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、1人1人を萎縮させてしまう国家≫、≪1人1人の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、些細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上させること、あるいは、それなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家≫はやがて停滞する。彼は、中国その他の国々に関する歴史的な考察から、この結論を導き出す。≪すべてを犠牲にして国家のメカニズムを完成≫させても、それは結局なんの役にも立たない。そうではなく、≪国家の価値とは、究極のところ、それを構成する1人1人の人間の価値にほかならない≫のだ。ミルのこうした口調からは、彼の強い信念をまざまざと感じることができる。

だが、本書での主張が終始、強い意志に貫かれていたかと言われればそうではない節がある。例えば、自由を制限する例外状態に関する見解を見てみると、たしかに≪私は、どんな社会も他の社会にたいし文明化を強制する権利があるとは思わない。たとえ、その社会の人々が悪法で苦しんでいても、その人々が他の社会に救援を要請しないかぎり、彼らと何のつながりもない人間たちが勝手に出しゃばるのを、私は認めるわけにはいかない≫と彼は言う。彼は、自身が絶対的に認められると主張した言論の自由にもとづき、≪もし何かをしたければ、宣教師を派遣して、あちらで説教させればよい。また、何らかの公正な手段を用いて(モルモン教の宣教師を黙らせるのは公正な手段ではない)、モルモン教のような宗教がこの国の民衆のあいだで広がることに反対すればよい≫と主張する。だが彼は別のところで、行為の自由の原則は、≪成熟した大人にのみ適用される。子どもや法的に未成年の若者は対象にならない≫と述べる。それだけにとどまらず、≪同じ理由により、民族そのものが未成熟だと考えられる遅れた社会も対象から除外してよいだろう。こうした民族も成長の初期にきわめて大きな困難にぶつかる。それを克服する手段には選択の余地がほとんどない。改革の精神にあふれた統治者は、その目的を達成する手段がそれ以外になさそうなら、どんな手段を用いてもよいのである。野蛮人を進歩させるのが目的であれば、野蛮人にたいしては専制政治が正当な統治方法なのである。手段は目的の実現によって正当化される≫とさえ言い切る。これは、自己矛盾以外のなにものでもなく、論敵にわざと塩を送っているとしか思えない二重基準とも言える。なぜなら、自分たちが植民したいと思っている民族は、すべからく理性が未発達な「野蛮人」だとしてしまえば、それを保護するために≪文明化を強制する≫という、「目的を達するためにはそれ以外なさそうな手段」を用いざるを得ないからである。この点、ミルの主張は不徹底で、弱気ですらある。

ミルのような理性主義者がこのような自己矛盾に気づかないわけがない。では、なぜこんな「ミス」を犯したのか。本文を見ると、ミルの弁明とも見える一節を見つけることができる。彼によれば、≪中傷という武器は、その性質上、支配的な意見を攻撃するときに使ってはいけない≫のだ。なぜなら、≪使えば我が身に危険がおよぶかもしれないし、かりに身の危険がないとしても、中傷は何の役にも立たず、ただ自分に跳ね返ってくるだけ≫だからである。≪世間で当たり前とされていることに反対する意見を言うときは、つとめて穏やかな言葉づかいをし、無用の刺激を与えないよう細心の注意≫を払わなければ、話を聞いてももらえない。≪支配的な意見の側が、反対意見をやたらに非難すると、人々はじっさいに反対意見を言う気を失うし、反対意見に耳を傾ける気もなくしてしまう≫。こうした点は、ミルを研究したC.B.マクファーソンも指摘しており、ようするにミルは、自分の置かれている状況的に、あまりに急進的な主張を全面に押し出すことができなかったのである。

しかし、そんな妥協の中に見えるミルの本音はなお明らかであり、率直である。ミルの言うような「当たり前を問い直すこと」は、人間にとって常に新しい。既に憲法の条文になってしまっているがゆえに、意識することもない理念は、いつ、だれによって、いかなる考えで確立されたのか。それを知ることもまた刺激的だ。人は新しいこと、刺激的なことをもってのみ、前進することができる。その道は、以前誰かが開拓した道なのかもしれない。しかし、それが自分にとって新しければ、それでいいのだ。どんな天才も、最初はそうやって生きてきたのだから。

参考文献

  • J.S.ミル著『自由論』、斉藤悦則訳、光文社、2012.06(原書:1859)、全301ページ

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大学時代に読書の面白さに気づいて以来、読書や勉強を通じて、興味をもったことや新しいことを学ぶことが生きる原動力。そんな人間が、その時々に学んだことを備忘録兼人生の軌跡として記録しているブログです。

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